第一章「郷愁の念」第二話
首都ローマ最大級の大競技場キルクス・マクシムスにおいて、兄カリグラが開催したクアドリガ式(四頭立ての戦車)戦車競走大会は大盛況のうちに終わった。強靭なローマ国家を思い起こさせるに十分な大会であり、ローマ市民にとっては、ユリウス家が久しぶりに寛大な心意気を見せた記念日でもあった。私達がキルクス・マクシムスを離れる時には、周りに多くの市民達が集ったのは言うまでも無い。
「ガイウス様!こちらを見てください!」
「有難うございます!カリグラ様!」
「どうか、今後もすぐに大会の開催をお願いします!」
人々の熱狂的な声に兄は心から満足感を得ていた。親衛隊は市民を威圧しながら、私達のいる場所との間に距離を保っている。皇族反対派の暗殺回避と無用に市民が駆けつけないようにするためだ。横ではマクロが目を光らせているが、兄は妹ドルシッラと共に、市民とのふれあいを優先して手を差し出していた。私は兄妹の姿を見て少し呆れていた。
「全く、ガイウス兄さんも本当にやり過ぎよ。あれじゃ、ドルシッラがまるで兄さんの夫人みたいじゃない」
「でもアグリッピナお姉ちゃん、みんな喜んでいるよ」
「いい顔しているのは、目の前にいるときだけ。影じゃ言いたい放題なのがローマ人なんだから」
「そういうものなの?」
「そういうものよ、リウィッラ。貧民街に行ってごらんなさい。インスラの壁には貴族の悪口や、卑猥な絵ばっかり書いているんだから」
「へぇー!!嫌だ!」
そうなのである。
私が幼い頃によく見かけていたのは、当時の統治者ティベリウスを、ギリシア神話に登場する牛頭人身の怪物ミノタウロスに例えた悪口であった。税金に対する不平不満はもちろんの事、"男色でセコイ牛魔よ、恥を知れ!"とか、"金にうるさいティベリウス!お前の心はティベリス河のように穢れている!"など、よく目にしたもの。ローマ市民の彼らこそ、元老院連中よりも裏表がはっきりしているのだ。
「大丈夫なのか?アエミリウス」
「カッシウス、何がだ?」
「さすがに元首の傍若無人を許したままでいいのか?」
「"カリグラ様"は妹君と仲睦まじい姿をアピールしたいだけであろう」
「度が過ぎるってこともあるぜ」
「ドルシッラは俺の妻だ。いくらなんでもそれは無かろう」
この時は、兄カリグラ旋風がローマで熱狂的に受け入れられていた。反対勢力が声高らかに主義主張を繰り返しても、所詮大多数の大喝采に消されてしまうほど。しかし世の中というものは、人気が出れば必ず対極に当たる者達が出てくるのも常。兄を毛嫌いをし始める元老院議員達は、陰口のように不満を漏らし始めたのである。
「下らない。たかが、キルクス・マクシムスを開場しただけではないか!」
「所詮、市民の人気取りのやり方ではあるな」
「あの小僧は何一つ実績が無いのだぞ!偉そうに神威を振りかざしやがって!」
「聞こえるぞ、カリグラ様に」
「このままでは、奴は君主のように振舞いかねない!」
「ではどうするのだ?奴は人気の高いゲルマニクスの息子であり、アウグストゥスとも血縁関係にあるのだぞ」
「くっそ!」
だが、彼らには兄に対抗する手段を見いだせないのが現状である。翌日、元老院議事堂において、兄カリグラは殆どの元老院議員から歓天喜地の大喝采で迎えられた。満面の笑みで応える兄は、早速、第二段の計画を提案する。
「ローマの元老院諸君よ!このような素晴らしい大喝采に、予は心から感謝している。今やローマ市民達の間には活気が溢れ、以前のような華々しい首都が戻ってきたと言えよう。そこでだ!予は、諸君らに提案したい事が一つある!」
殆どの元老院議員は、兄カリグラから元老院への奉献を期待していた。その理由には、共和政支持派は実績の無い若者に、わざわざ付き合ってやったという傲慢さ故であったからだ。
「ガイウス・ユリウス・カエサル・ゲルマニクスは、世界の主軸であるこの首都ローマにおいて、剣闘士グラディアトル(グラディエーター)の闘技会開催を元老院に提案する!」
「!?」
ユリウス家支持派の元老院議員達は、当然兄カリグラの提案に賛同したが、さすがの共和政支持派の元老院長老層は首を傾げたのである。彼らにしてみれば、市民へ娯楽を提供する事よりも、諸外国や属州との関係強化などを先決すべきと考えていたからだ。
「恐れながらガイウス元首、市民へこれ以上の娯楽を提供することは無用かと考えます」
「何故だ?彼らはあれほど喜んでいたではないか」
「しかしながら国家としては、諸外国や属州国との共存関係を見直す時期であるとも思えます。それに剣闘士グラディアトルの闘技会は、戦車競走以上に出費が重なるのを御存じでしょうか?」
本来、剣闘士グラディアトル闘技会というものは、死者の霊を弔うための儀式の一つであった。その起源は二つの説に分かれており、エトルリア人が墓前で行っていた習慣の儀式とされている北地方の説と、ネアポリス地方のギリシャ人達が海神ネプトゥーヌスの墓で行った生贄の儀式とされている南の地方の説があった。どちらにせよ、王政時代の先人達は死者を弔うための儀式として、ローマでも採用したと言われている。
「カンプス・マルティウスに池を造って軍船を浮かべるだけでも大規模で、生贄用の猛獣達も必要になります。それらを取り寄せるだけでも大変なのですから」
剣闘士試合の記録として有名なのは、パラティヌス丘、アウェンティヌス丘、カピトリヌスの丘とティベリス河の間に位置する平坦な場所フォルム・ボアリウムで行われた、故人を哀悼する剣闘士試合が最古のものである。王政時代には円形闘技場が無かった為、ローマの中でも最古のフォルムで牛の市場でもあったフォルム・ボアリウムに、流血を吸収するために砂のアレーナを撒いて闘技会を行っていた。
「ガイウス様にとっては曾祖父で在らせられるアウグストゥス様は、在位中の四一年間で、たったの八度しか闘技会を行いませんでした。その理由には、あまりにも国庫負担が大きかったからです」
神君カエサル様の時代になると、闘技会は政治的な意味合いが強くなり、アウグストゥス様の統治時代には、模擬海戦であるナウマキアをさせることに死者への弔いと先人達の偉業や戦いを讃える意味合いが生まれ始めたのである。すなわち、我が息子ネロが単なる娯楽として提供するようなことではなく、闘技会全体が政治的な側面と宗教的な側面をも含んでいたのであった。
「それが、貴様らが闘技会を行わぬ理由か?」
「はい、正にその通りです。財源は無限ではありません」
「無粋なことを並べおって、実にくだらん!」
「!?」
兄は驕慢な態度で、激しく嫌悪感を露わにした。
「貴様らはそれでもローマ人か?」
「な、何ですって!?」
「諸外国や属州に媚を売れとでも言うのか?!」
「そ、そんなことは一言も言っておりません!共存関係を見直す時期にあると」
「うるさい!それが媚だと言っておるのだ!」
兄の一喝は、クリア・ユリアである元老院議事堂に響き渡った。そして兄の尊大な態度は、明らかに共和政支持派の連中を刺激した。
「よいか?!ローマ創設の王ロムルス様は、サビニ人達の女を略奪する際に行ったのが戦車競技大会であった!その意味が分かるか?」
「......」
「この長い歴史で築き上げられてきたローマの文化こそ、多くの諸外国から羨望の眼差しで見られなければならないのだ!その為には、ローマに住む市民こそが、世界の主軸にいるという意識を持たなければならない!もはや、先帝統治時代のような、影に隠れてビクビクしているような市民ではならないのだ!」
クラウディウス家の共和政支持派は、さすがに兄カリグラの傲慢さに目を閉ざす事はできなかった。
「恐れながら元首、彼らの意識を変えるために国家が自ら娯楽の提供をするのであれば、世界の中でローマ市民がいかに無能であるかを、諸外国に知らしめるようなものです」
「なんだと!?」
「確かに元首の主張はごもっともでございますが、執政は遊びではございません!ましてそんな娯楽を提供する為に、ローマの国庫を負担することは、ローマ市民の血税をクロアカ・マキシモに流すようなものですぞ!」
「貴様!なんだその言い方は!」
その者は明らかに、兄の逆鱗に触れるような言い方をした。しかし、これこそが彼らクラウディウス家共和政支持派のやり方であった。
「私が何か無礼な事を申したのというのですか?我々は議論をしているのでございますぞ!」
「いかにも!貴様はこの俺に対して、侮辱する様な発言をしているではないか!」
「おやおやおかしいではございませんか!先日ガイウス様は、先帝時代に比べて元老院にも活気溢れる議論が戻ったと仰ったではありませんか。ご自分の意見を堂々と主張されればよろしいだけのこと。私の発言が侮辱などと言われるのは論外でございましょう!」
しかしユリウス家の長老層も黙ってはいなかった。
「待ちたまえ!議論を重ねるのであれば、それは相手を尊重する事が第一条件だ。だが、おぬしらの物言いには、明らかに礼節を欠いた含みがある!元首がおぬしらの意見に対して、礼節を欠いた発言をしたのであろうか!?」
「少なくとも、我々が提案した諸外国との共存関係の見直しに対して、媚を売るなどと言われてしまえば、我々も黙ってはいられない!」
「事実そうではないか!おぬしらが取る諸外国との協調路線は、常におぬしらが必ず利潤を得られる構造になっているではないか!」
「何を無礼な事を言うのか!それならば言わせてもらうぞ!先ほどガイウス様は先帝統治時代を、まるで暗黒時代かのように表現されたが、ティベリウス様は名門クラウディウス家が輩出しているのだ!その故人に対して、あのような無礼な物言いは、許される範囲を逸脱していると言わざるを得ない!」
「事実は事実として認識すべきであろう!セイヤヌスを右腕にしていた事実、それにともなう内乱を巻き起こせんとする事実を無視するで無い!」
「なんだと!?それならば言わせてもらうぞ!そもそも今回の統治は、先帝ティベリウス様の遺言にあったように、名門クラウディウス家のティベリウス・ゲメッルス様と、ユリウス家のガイウス様による共同統治であったはずだ!」
「何をいまさら!貴様達も共同統治では混乱の極みと豪語し、第一人者はガイウス様一人のみと承諾したではないか!?」
「だからと言って、ユリウス家ばかりが優遇されるような状況は、共和政を誇るローマ国家において政治的不安と言わざるを得ない!」
兄カリグラは、己の政治的手腕の未熟さも痛感した。決して自分が万人から望まれていたわけでもなく、特にクラウディウス家は、妥協と譲歩によって兄を第一人者として承認しただけであって、必ずしも兄自身に屈服したわけでは無かったのだ。
「もうよい!」
「ガイウス様!」
兄は一蹴して、元首の席へ座わる。そして、この日は兄カリグラが統治者になって、初めて元老院が真っ二つに分かれた時でもあった。この混乱に乗じて、ユリウス家とクラウディウス家は、互いに足の引っ張りを始めるのであった。
続く