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紺青のユリⅢ  作者: Josh Surface
妻女編 西暦37年 22歳
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第一章「郷愁の念」第一話

第二部までのあらすじ


私の名はユリア・アグリッピナ。初代ローマ皇帝アウグストゥスの曾孫であり、第二代目ローマ皇帝ティベリウスの養子孫娘であり、第三代目ローマ皇帝カリグラの妹であり、第四代目ローマ皇帝クラウディウスの姪で第四の妻であり、そして第五代目ローマ皇帝ネロの母なのである。


"妻女編"


アヘノバルブス家のグナエウスと結婚したアグリッピナ。初日早々から夫の暴力に遭い、前途多難な夫婦生活を強いられる。一方、エトルリア国家の復権を目指す政敵セイヤヌスは、ユリウス家の長男ネロと母親ウィプサニアを国家反逆罪として流刑にし、次男ドルススまでも幽閉した。時を同じくして、ユリウス家の後ろ盾に努めていた大母后リウィアが崩御し、セイヤヌスはますます己の権勢欲を拡大させていった。陰謀を阻止するべくティベリウスは水面下で粛清を計画し、セイヤヌスは遂に処刑。だがそれは、アグリッピナにとって親友であったセイヤヌスの娘ジュリアの処刑を意味していた。実の父親の妹である伯母リウィッラも、夫ドルスッスの毒殺が明るみとなり自死。ユリウス家の子供達は陰鬱で陰険なティベリウスと共に、カプリ島で苦難を強いられる事となる。ローマから次第に豪華さは枯れ始め、窮屈で陰鬱な元首による恐怖政治が広まっていく。そんな中、カリグラ、ドルシッラ、リウィッラは結婚し、しばしの間の平穏な日々を享受する。しかし、新たなる脅威であるイシス信仰が暗躍し、次期帝位継承者となったカリグラが標的とされた。アグリッピナは人生初めての懐妊を経験するが、夫グナエウスの愛人アルブッシラの陰謀によって、新生児は遺棄されてしまう。パッラス達の計らいにより、出産した娘アクティアと名づけられ、アグリッピナ本人にも事実を隠したまま、ギリシャのある家族へ預けられることとなる。イシス信仰の背後に潜むエジプトのユダヤ商人ディプロストーンは、ユダヤに対して冷徹なティベリウス帝の滅亡を策略し、イシス信仰に盲目となったカリグラに、牛魔帝が隠ぺいしていた両親の死の真相を知らせる。我が子を失って茫然自失のアグリッピナは、カリグラの妻ユニアの優しさに触れ、親友の関係を築いく。ティベリウス崩御の知らせを受け、後継者として指名されていたカリグラが元老院に正式に承認。陰鬱な時代は終わりを告げ、アウグストゥスの正統な血筋を持つ子孫であるカリグラが、新たなる統治者として世界中から歓喜の声と共に受け入れられる。仲たがいしていたアグリッピナとユニアであったが、ユニアは出産と同時にこの世を去ってしまった。華やかで煌びやかな時代の幕開けによって人々が浮かれる中、多くの悲しみを背負ったアグリッピナは、明日への不安を抱えながら、後のローマ皇帝となるネロを懐妊するのであったが......。

三月のパウリは、それでもネアポリス湾(現ナポリ湾)から吹く風によって、心地よい暖かさの薫る気候である。


「アグリッピナ様、先ほどのお召しもの、明日までには綺麗に洗濯をしておきます」

「ああ、アケロニア。ありがとう」


深くお辞儀をする侍女のアケロニア。近頃の彼女は、いつも以上に私に気を使ってくれている。だから私が命を出すまで、決して下がろうとはしない。心配そうに私を眺めているのだ。


「アグリッピナ様、いかがされたのですか?」

「色々な事を思い出していたの......。自分を大切にしてくれた父上や母上、叔父様、お兄様方、そして可愛い妹達。でも、みんな、もうこの世にはいないのだと思うと、少し心が寂しくなってしまってね......」


感傷的になっていた私の表情を見て、アケロニアには出来るだけ気遣った。


「アグリッピナ様は麗しき大母后アウグスタ様です。私のような解放奴隷のような者にとっては、夜明けの光を分け与えてくださるお人でございます」

「ありがとう」

「それに大母后様には、まだ家族であるネロ様がいらっしゃるではありませんか。お久しぶりのご愛息とのご再会、私は本当に、心から......」

「どうしたのです?」


アケロニアは突然大粒の涙を流し始めた。大母后である私の前とはいえ、きっと彼女は溢れる想いを止める事ができなかったのであろう。侍女であったとしても、二度の流産を経験していたからこそ、愛する我が子ネロに拒絶されていた私が、久々に再会できた時に、彼女の心に憐れみの想いをもたらしたのかもしれない。


「アケロニア。貴女は本当に心根の優しい女性ね」

「いいえ。私はアグリッピナ様の幸せを想うからこそ、本当に」


彼女の涙に感化された私も、この時ばかりは階級を忘れ、アケロニアに憐れみの念を抱いた。子の健康を願う母親として、子を産む事の幸せを願う女として、そして、心の奥に隠していたもう一人の自分を重ねて。


「アケロニア。これを持ちなさい」


母ウィプサニアから幼い頃に与えられたブルラを取り出し、アケロニアの手のひらに置いて、ゆっくりと優しく包んだ。


「アグリッピナ様、これは?」

「ブルラです。本来は男性のみの御守りでしょう?でも、幼かった頃の私は、お転婆で木登りばっかりしてて、そんな姿にヒヤヒヤした母上が、見兼ねて女性用の小さなブルラを作ってくれたの。これを肌身離さず持ってなさいと。これを持てば、私のように元気な子供をきっと産み、女性としての幸せをあなたも得る事ができるでしょう」

「そんな、アグリッピナ様。これほど大切な物を、私のような者がいただく訳にはいきませぬ」

「だって、あなた懐妊しているのでしょう?」

「どうして?」

「フフフ、アケロニア。私を誰だと思っているの?」


そう私は、神君アウグストゥス様、軍神アグリッパ様の血を受け継いだウィプサニアお母様と、蛇女クレオパトラと情熱的な恋に落ちたアントニウス様の血を受け継ぐ、ゲルマニアからローマを死守したゲルマニクスお父様の長女で在り、暗殺された第三代ローマ皇帝カリグラを兄に持ち、毒殺した第四代ローマ皇帝クラウディウスを夫に持ち、第五代ローマ皇帝ネロをこの世に産んだ、ユリア・アウグスタ・アグリッピナなのである。


そう、ネロを懐妊した時を振り返りましょう。私は大きな不安を抱えていた。親友とも言えるユニア、兄カリグラの妻がこの世を去り、横暴な夫グナエウスとの夫婦間も冷めた状態の時に、私のお腹にはネロが宿ったのだ。いえ、あの頃はネロとも分からない胎児だったわね。そして私はというと、愛や情さえも乾ききった夫の子を宿したことに憔悴し、自分に訪れた不運を嘆いていたのだ。


「どうだ?アグリッピナ。これが、真のローマの姿だ!」

「ええ、ガイウス兄さん」


兄カリグラがローマ国家の第一人者となってから、首都ローマ最大級の大競技場キルクス・マクシムスにおいて、初めてのクアドリガ式(四頭立ての戦車)戦車競走大会が開催されていた。競技場の中央にはスピナと呼ばれる分離帯がある。ゲートはカルケレスと呼ばれ、トラックの端に角度をつけて設置され、戦車はばねを仕込んだゲートに入るようである。戦車の準備が整うと、ローマ皇帝である兄カリグラが、マッパと呼ばれた布を落とし、レースの開始を知らせることになるのだ。


「そろそろだぞ、アグリッピナ。戦車の準備が整いそうだな」

「はい」


竜巻のような大歓声が鳴り響く中、兄カリグラは目を輝かせて興奮しているが、私はただ座っているだけ。時々、下腹部に手を添えようかと思ったが、市民の目もあるので控えていた。すると後部席そばに立っていた親衛隊長官のマクロが、兄カリグラの側に寄ってきた。


「ガイウス様、準備が整いました」

「うむ」


兄は颯爽と立ち上がり、マクロからマッパを手渡された。兄の大好きな深紅の布である。そして横にいる私達三姉妹に目配せをした。


「アグリッピナ、ドルシッラ、リウィッラ。この、ガイウス・ユリウス・カエサル・ゲルマニクスの晴れ舞台、その目でしっかりと焼きつけるのだぞ」

「はい、ガイウスお兄様!」

「頑張ってください、ガイウスお兄様!」


ドルシッラとリウィッラは、目を輝かせて答えていたが、私は笑顔だけで頷いた。すると兄カリグラが蒼きトーガを靡かせながら、私の肩に手を添えてくる。


「どうした?」

「何でもありません。ガイウス兄さん、頑張ってくださいね」


兄は満面の笑みを浮かべ、嬉しそうに皇帝の特別観覧席であるプルウィナルから身を乗り出して、観客全員を見渡し、右手を胸の上で一度叩いた後、天高く挙げた。すると観客のほぼ全員が、兄と同じ動作をしたのである。まるで信奉する神に従う信者の如く。そして兄は再び、観客が静まる事を望んでいる。彼らが静まるまで、決してレースを始めるつもりはない。次第に観客が静寂を保ち始めると、兄は右手を下ろして言葉を発した。


「ローマの元老院並びに市民諸君達よ!このガイウス・ユリウス・カエサル・ゲルマニクスは、首都ローマ最大級の大競技場キルクス・マクシムスにおいて、クアドリガ式(四頭立ての戦車)戦車競走大会を、市民諸君らの自由の為に捧げる!」


そして深紅のマッパ風に靡くよう放り投げたのである。一瞬であった。ゲートはバネの力で開き、すべての出場者を全く公平にスタートさせた。けたたましく馬の蹄が勢い良く地面を蹴り上げている。アウリガエと呼ばれる御者達は、四頭の馬達に鞭で激しく叩き、互いに自分の戦車を競争相手の前に進ませ、分離帯のスピナエに衝突させようと躍起になっていた。


「いいぞ!やっちまえ!」


兄はプルウィナルから身を乗り出したまま、右手の拳を振り上げて興奮している。それもその筈だ。四頭の馬達による躍動感、御者の迅速さ、ぶつかり合う戦車の激しさ。確かに兄やローマ市民の誰もが熱狂的に大歓声を上げるように、戦車競走には全身の血を煮えたぎるような興奮作用があるのかもしれない。


「アグリッピナお姉ちゃん、私、初めて見たけど、すごい迫力なんだね!」

「本当だね、リウィッラ。私もびっくりだわ」


分離帯であるスピナエのそれぞれの端には、折り返し点を示すメタエと呼ばれる標柱がある。ラテン語の測定を意味するメタリが語源で、先細りになった上向き円錐状のオブジェクトが建てられている。一番の見せ場は、この折り返し付近をいかに彼らが鋭く曲がり切ることにある。そして、もっとも観衆の目を奪う衝突が、この場所で見ることができるのだ。


「ナウフラジア!」


兄カリグラは右手を振り上げて、ラテン語で難破を意味する言葉を大声で叫び始めた。私達三姉妹は、一体どういった意味だか分からなかった。ドルシッラはすかさず兄の側に寄り、そしてその意味を聞いた。


「ガイウスお兄様。なぜ、難破のナウフラジアを叫ばれたのですか?」

「いい質問だドルシッラ。いいか?この戦車競争はギリシャ時代に、海戦と見立てているのだ」

「海戦?!」

「だからメタエ付近で戦車が衝突した時に、難破を意味するナウフラジアと叫ぶんだ」

「そうだったんですか」

「ドルシッラ、分離帯のスピナエを見てみろ」


兄はドルシッラの肩を自分の側に寄せて、スピナエの方を指差した。そこにはイルカのような装置が何台も見える。


「あれは残りの周回数を示す装置で、元々ギリシャでは卵だったんだ。あれが走路に落ちて周回数を示したんだが、ローマになってからはイルカのオブジェクトに変わったんだ。この意味が分かるか?」

「いいえ」

「俺達の祖父である軍神アグリッパ様が、アクティウムの海戦でアントニウス派と蛇女共の連合軍を破り、ローマを勝利へ導いた事に来由しているんだ」

「そうだったんですか?」


だからキルクス・マクシムスには、アウグストゥス様がエジプトからわざわざ取り寄せたオベリスクが建っているわけね。


「ドルシッラ、お前も叫んでみろ。楽しいぞ!」

「はい!お兄様。ナウフラジア!」

「ナウフラジア!」


傍から見ると、まるで恋人同士のような兄と妹。でも、あんなに嬉しそうにドルシッラの姿は、久しぶりに見たような気がする。


「アグリッピナ、リウィッラ。お前達もこっちに来きて叫べ!」

「え、ええ!?」


兄は本当に嬉しそうな笑顔を浮かべている。そして私とリウィッラも兄の両脇に寄りそうと、兄はその細く長い腕で思いっきり伸ばして、私達三姉妹を囲んで共にナウフラジア!と叫んでくれたのであった。


続く

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