―鍵―
◇
引き出しは沢山在るのに、どの引き出しに何が入っているのか解らない。鍵の掛かっている引き出しも在ったりして、鍵がどれなのか解らない。 そんな状況を想像した。
ひとつひとつ鍵を引き出しの鍵穴に挿して行けばいつか記憶は戻るのだろうか?
一体私の頭の中には何個の引き出しがあるのだろう?
全部の記憶が戻るまでに何年かかるのだろう?
「看護師さん」
見ない顔の看護師が来た。どうせ藪崎先生から“余計な事は云うな”と釘を刺されているんだろうが、ダメ元で聞いてみた。
「レーテの川って何処にあるの?」
しかし彼女は私の諦めとは裏腹に意外な反応を見せた。
「レーテの川って……ギリシャ神話だったかしら?実際にある川じゃないのよ」
「ギリシャ神話なの?」
「そう、死んだ人がね、生まれ変わる為に生前の記憶を捨てる所、それがレーテ」
「その川の水を飲むと記憶が消えるの?」
「そうみたい。学生の時読んだ本の話なんでうろ覚えなんだけど」
記憶を捨てる川。それがレーテの川だったのか。
じゃあ藪崎先生が云ってた“君はレーテの川の水を飲んだんだ”と云うのは、私が自ら望んで記憶を失くしたと云う事なのだろうか?
そんなニュアンスが感じられる。
覚えていると辛くて生きて行けないような、そんな記憶が私には在ったのだろうか?
ふと、窓を見上げた。相変わらず空しか見えないあの窓を。そこに忘れた記憶が映っているような気がして。でも、青い空に浮かぶのは真綿のような白い雲。
ああ、あの雲に乗って此処から出る事は出来ないだろうか?
そう考えた時、ある情景が浮かんだ。
「白くてフワフワ!まるで雲で出来た縫いぐるみみたい」
「大事に育てるんだよ」
「ありがとう、お父さん」
その情景の中の私は小学四〜五年生位だろうか?白い小さな犬を抱いている。
白い小さな犬
私はあのノートを開いた。あの落書きのマルチーズ。
これだ、これだったんだ。
「ペコ……」
ペコと名付けたその犬は父からの誕生日プレゼントだった。
ペコも父も大好きだった。それなのに忘れてしまうとは。
思い出の引き出しがひとつ開いた。しかし、こんな幸福な過去を忘れたいと思った私は、一体どんな目に遭ったと云うのだろう?
思い出した喜びに水を差すようなひとかけらの不安。それを象徴するかのように窓に切り取られた空にいつの間にか黒い雲が流れて来ていた。