―死―
◆
悲しみが大き過ぎると涙すら出て来ない。
頭の中で、ペコの首の骨が折れる音が繰り返し響く中、キッチンのシンクの下の扉を開けて包丁を取り出した。
これは確か、父が何回目かの結婚記念日に母にプレゼントしたものだ。ドイツ製の高価で有名な物らしく、母はとても喜んでいた。
―ますますお料理頑張らないとね―
その時の、母の嬉しそうな顔が目に浮かぶ。
結婚後、何年経っても仲の良い夫婦だ。と、親戚や近所の人から冷やかされる程だった父と母。
そんな夫婦になるのが夢だった。
そんな家庭を作るのが夢だった。
幸治さんならその夢を叶えてくれると思ったのに。
たとえ何年かかろうが、その夢を持ち続けていればどんなに辛い事にも堪えられたのに。
休みの日は一緒に公園に散歩に行こう。
子供が生まれたら、ペコは焼きもちを妬かないだろうか?
幸せのシュミレーション。同じ事を何度でも想像しても飽きる事は無かったのに。
包丁の柄が、暖まる。
早く、楽になろう。
左の手首の、うっすらと青く浮き出た動脈に、包丁の切っ先を向ける。
その時、居間の方から恐ろしい程の大きな音がした。例えて云うなら猛獣の咆哮の様な。
驚いて、心臓が跳ねたが、音の正体はすぐに解った。
この音は、あの男の鼾だ。いい気なものだ。
気を取り直してもう一度、包丁を手首に当てた。これを一気に横へ滑らせるだけで楽になれる。
頭の中ではペコの首の骨が折れる音。そして、その直前の断末魔の鳴き声。
ふと、その頭の中のフラッシュバックが男の鼾と被った時、云いようの無い怒りが込み上げて来た。
悲しみでも、絶望でも無い。“怒り”だ。
何故、私が死なねばならない?
父亡き後、勝手に家に居座った、どこの馬の骨とも解らないあの男にいいようにされて、ペコまで殺されて、その上何故私まで死なねばならないと云うのだろう?
死ぬべきは……
私は裸のまま、包丁を持って居間へ向かった。
廊下ではペコの死体が私を見上げている。




