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レーテの川の水  作者: 鮎川 了
λήθη
12/26

―驚―





 振り向くと、あの顔が在った。

 あの、病室に忍び込んで来たあの顔が。


 また呼吸が乱れそうになるのを必死で押さえた。

 過呼吸になりそうな時は、何かで口と鼻を押さえて、酸素を吸いすぎないようにして……と、藪崎先生が教えてくれたのを思い出し、両の手で顔の下半分を覆った。

 しかし、あの恐怖感が胸にせりあがり、指の間から壊れた笛のような音が漏れるのが解る。


 そんな私の様子を見て、その中年の男性は


 「明日香ちゃん、驚かせてごめん。おじさんを覚えてないかな?明日香ちゃんにどうしても聞きたい事があったんだ」


 と、初めて現れた時とは打って変わって落ち着いた様子で話した。

 それを聞いて、少しだけ恐怖感がやわらぎ、呼吸が楽になった。なんだ、普通に話せるじゃないか。 


 冷静にその人を見てみると、隣の家のおじさんだ。挨拶程度の付き合いしか無いが。確か苗字は“鈴木”…… 


 その“隣の鈴木さん”が、病室にまで忍び込んで聞きたかった事とは何だろう?


 「鈴木さん?」


 「そう、隣の」


 事件の事なら警察に訊けばいいし、あんなに酷い事件ならテレビや新聞で大きなニュースになっている筈だ。 


 「聞きたい事って……何ですか?」


 「息子の事なんだ。息子はその……本当にあんな事をしたんだろうか?親の欲目かもしれないが、息子は優しくて正義感が強い子だ」 

 何の話をしてるんだろう? 

 “息子”と云うのは病室で云っていた“あの子”の事だというのは何となく解る。

 でも、何で隣のおじさんの息子さんの事なんか……


 確か大学生だった筈だ。爽やかなお兄さんと云った感じの。でも、おじさんと同様挨拶程度しか付き合いがない。


 「あの、すいません、話がよく解らないんですが」


 私がそう云った瞬間“鈴木さん”の顔色が変わった。


 「息子がお前に犯人にされたお陰で妻は自殺した、私も会社を解雇された!しらばっくれるのはよせ!」


 突然豹変した鈴木さんが、大声でまくしたて、私はまた呼吸が乱れそうになる。


 犯人?私の家族を殺した犯人?あのお兄さんが?


 そう云えば私は犯人の顔を見た筈だ。 

 

 それも至近距離で。どういう訳か犯人の人相など気にも留めて居なかったのだ。


 解らない事ばかりだ、鈴木さんが云ってる事も勿論だが、何より自分の頭の中がどうなってしまったのか、混乱し、呼吸が乱れ、気が遠くなって来た。


 誰かが鈴木さんに走り寄り、押さえ付けているのが見える。


 私は……私の記憶は…… 


 本当に私のものなのだろうか?










 

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