―染―
◇
私が全て話し終えると、藪崎先生はカルテに何か書き込んでいた。
淡々と、冷静に話した自分が信じられなかった。こんなに悲しい、恐ろしい目に遭ったと云うのに涙ひとつ出て来ない。 まるで遠い昔に在った知らない人が体験した事象を語って聞かせているような。
「警察の調書と全く同じだな……よし、落ち着いたら退院だ」
声はとても浮かれているのに、顔は厳しいままだ。藪崎先生は感情が顔に出るタイプなのかもしれない。
「退院……?」
「勿論、その後の経過を診て……だけど」
退院して、何処へ行けと云うのだろう?私の家には誰も居ない。あの惨劇の在った家で、たった一人で暮らさなきゃならないのだろうか?
「退院後の事なら心配要らないよ、お祖母さんが全部面倒を見ると云ってるから」
お祖母さん……
そう云えば母方のお祖母さんが隣街に居る。隣街に居ると云うのに暫く会って居なかった。
元気なんだろうか?
私の面倒を見てくれると云うからには元気なんだろうけど。
「あっ、それから」立ち去ろうとして、何か思い出した藪崎先生はドアの陰から顔だけ出して云った。
「病院の建物内と、中庭だけなら自由に行っていいから」
それは、私にとってこれと無い福音となった。
止まっていた時がやっと流れ初めた。
でも、まだ脳の襞の隙間から染み出て来て形にならない“何か”が在った。完全に思い出した筈なのに。あの日の事は。
それが形に成った時、どうなるのだろう。とるに足らない記憶かもしれない。そうである事を願った。




