ー無ー
◇
目覚めるとそこは白い部屋で、嫌味な程に清潔な匂いがした。
その時は、その部屋がどんな部屋なのか、そしてそこで目覚めた私は一体どんな状況なのか解らなかった。
記憶が混乱していると云うよりは、記憶が無いのだ。
自分の名前は解る。ただ、自分が何故こんな所に居るのか思い出せない。
やがて、白い服を着た男が現れて「私の云う事が解りますか?」と聞く。
一応、聞こえているので頷くと、彼の聞きたい事はそうではなく“言葉が通じているか否か”だったようだ。
「断片的に記憶を失っているようだ。完全な記憶喪失なら言語も忘れている筈だからね」
白い男は側に居た白い服の女にそう話した。
そのやりとりを聞いているうちに、ここは病室で、この白い服の男女は医者と看護師なんだな。と、ぼんやり解って来た。
しかし、そんな事が解っても不安はますます膨らむばかりだ。医者の質問に答えているうちに、私が高校生だと云う事は思い出した。
学校の校舎の形や制服のデザイン、退屈な授業風景、そんな事を漠然と。
しかし、医者がいくら質問しても答えられない、思い出せない事がある。
“家”そして“家族”の事だ。高校生と云う事は、まさか、天涯孤独で、一人で暮らして居たとは考えにくい。確かに“家”も“家族”も在る筈なのだ。医者が云うには“断片的な記憶喪失の人がほぼ真っ先に思い出す事”だと云うそれを、私はどうしても思い出せなかった。
思い出そうとすると、意識がどす黒い闇の渦の中に吸い込まれそうで気分が悪くなる。
「思い出せ無いなら、自然に思い出せるまで待とう」医者が云う。
でも、それでは、病院側は困るのではないか?家族の連絡先も解らない者を入院させて、治療費や入院費は誰が払うのだろう?記憶を失っているくせに、そんな事を心配する自分もおかしいが。
そもそも、何で私は此処に居るのだろう?
何で記憶を失ったのだろう。
医者に質問したけれど、答えてはくれない。もしかして私だけが知らないだけで、隠しているのかもしれない。
知ってるなら教えてくれればいいのに。まるで、よってたかって私を苛めている様だ。
「云ったでしょ?無理に思い出さない方が良いと。君はレーテの川の水を飲んだんだ」
……レーテの川の水……?
医者の云うその言葉は何かの比喩なのだろうが、私はその意味を理解出来なかった。