婚約者
この王宮内での今城の評価は洗練された貴公子と言ったものである。
奈保の母方の一族…血筋は正しいが、あまり権力を持たない家に生まれ、自身も政治において傑出した力は持たないが、異国の言葉と故事に通じ、趣味人としては名声を確立している。
故に奈保と今城との婚約が発表された時もそこから政治の匂いを嗅ぎとる者はいなかった。
「久しぶりですね、奈保殿」
部屋に入るなり、今城は椅子に腰を下ろしほほえんだ。
渡来の物であろう、あざやかな緋の組ひもでひとつにまとめられた淡い色の長い髪。優しげな、やや女性的な印象を与える整った顔立ち。
決められた文官の官服さえ洗練されて見える。
「今城殿、この度は…」
最後に奈保が今城に会ったのは、婚約が破棄される前である。如何なる顔を向ければよいかわからず、奈保は顔を強ばらせた。
「笙の地に参ることとなりました」
ほほえみを崩さず彼は言った。
「明日には、出立します」
「笙に…」
奈保は呟いた。
笙は辺境である。都からは遠く、文化の香りも届かない田舎である。ただ、戦からも遠く、平和な地方であった。
都で最も洗練されたと称される彼が、文化の香りも届かない辺境に行く。
それは、この度の婚約破棄と関わりが無いとは思えない。しかし奈保の立場ではそこに触れる訳にはいかなかった。それは、王への非難に繋がる。
「そうですか」
だから当たり障りのない慣例の言葉を奈保は言った。
「任地でもお健やかにあられませ」
「お健やかに、ですか…」
一瞬、今城の顔からほほえみが消えた。
「今城殿?」
「あなたは…、いや、何でもありません」
「どうか、なさったのですか?」
ゆらり、と、音もなく今城が椅子から立ち上がった。向かいに座る奈保の方に歩み寄り、そのまま奈保の着物の袖を引く。
「今城殿?」
奈保は今城の腕の中にいた。 官服に焚きしめられた香の薫りを奈保はかいだ。
「何を…今城殿」
婚約していた時でさえ、今城がこのように奈保に触れてくることはなかった。二人きりになる機会もあったが、手を握る以上のことを今城はしなかった。
「放して下さい…」
もがくも、細身に見える男の腕の力は案外強く、逃れることは出来なかった。
「あなたは…」
ささやくように今城は言った。
「あなたにとって、わたしはあくまで、王の決めた婚約者でしかなかったのですね。 このような時でさえ、儀礼的なお言葉しかもらえないほどに…!」
ぎり、と背に回された腕の力が強くなった。
「今城殿」
奈保ははじめて見る今城の激情に圧倒されていた。
奈保の知る今城はいつも穏やかで、奈保に対してもあくまで主君の妹としての扱いを崩さなかった。だから奈保は今城のような洗練された貴公子には自分のような面白味のない娘は味気なく思われるのだろう、と考えていた。
結婚してからも、ずっと穏やかな関係が続くのだろうと思っていた。
だが。
「今城殿…痛いっ!」
背に回された腕の力の強さに痛みを感じ、奈保は悲鳴をあげた。
腕の力が弱まる。
急いで奈保は今城の腕を振りほどいた。
夢から覚めたような顔を今城はしていた。
「今城殿」
奈保は言った。
「どうか、お健やかに」
奈保の言葉の意を彼は正しく汲み取ったようであった。
何を言ってももう、終わったことなのだ。
ほほえみを彼は取り戻していた。
「ええ」
彼は言った。
「あなたも、どうか、ご健勝で。わたしのしろつめ草の姫だった方」
任地に向かう途中、彼が賊に襲われ命を落としたと奈保が知ったのは、それから十日あまりたった頃だった。