オブシディアン・ヴァンガード――我らは帰らずとも、希望は生まれる
彼らの正体に気づいたとき、この物語はもう一つの恐怖を見せる。
出発の支度をしていると、リラがレイヴンを呼んだ。
『いま、動いたの。触ってみて』
妻に手を引かれ、レイヴンは彼女の腹に掌を当てた。しばらく待つと、内側から小さく押し返された。まだ顔も見ていない子供が、そこにいる。
『元気だな』
『あなたに似たのね。じっとしていられないところ』
リラは笑った。レイヴンも笑い、もう一度掌を当てた。
生まれてくる子供たちに食べさせるものがなかった。
昨日、最後の配給を終えた。大人たちは自分の分を減らしていたが、それでも食料庫は空になった。北側にある巨人の居住区へ行けば食料を手に入れられる。しかし、前回そこへ向かった班は、一人も戻らなかった。
『本当に、今夜行くの?』
『子供たちが生まれる前に、食べ物を用意しておきたい』
『それは私も同じ。でも、あなたが帰ってこなかったら』
レイヴンは装備を置き、妻の隣へ座った。リラは彼の腕へ身体を寄せたが、顔を見ようとしなかった。
『待っているだけなのも、怖いのよ』
『……そうだな』
勇気づける言葉を探しても、見つからなかった。無事に帰る保証などない。彼は妻の手を握り、その手が冷たくなっていることに気づいた。
初めて抱き合った夜も、彼女の手は冷たかった。
外を巨人が通り、住処が揺れるたび、リラは入口を振り返っていた。レイヴンが抱き寄せると、彼女は胸に顔を埋めた。
『ここにいて』
『いるよ』
その夜、二人は初めて身体を重ねた。外の音が静かになっても、リラは彼を離さず、彼もその背を撫で続けた。
あの夜に授かった子供たちが、もうすぐ生まれる。
『帰ってきたら、一緒に名前を考えて』
妻が言った。
『もちろん』
『食料を届けて、またすぐ出ていったりしないでね』
『わかった。今度はちゃんと休む』
レイヴンは妻の額へ口づけた。リラはようやく顔を上げ、彼の唇に触れた。
『待ってるから』
彼は頷いた。離れたくなくなる前に、立ち上がった。
◇
回収班は三名だった。隊長のレイヴン、古参のニードル、新兵のモス。三人の装甲は黒く、モスのものだけは傷がなく、照明を艶やかに反射していた。
『食料を確保したら、来た道を戻る。巨人が現れた場合は、すぐに遮蔽物へ隠れろ。見つかったら、荷物を捨ててでも逃げろ』
レイヴンが説明すると、モスが顔を上げた。
『捨てていいんですか』
『生きて帰れば、もう一度取りに行ける』
『はい』
ニードルが若い兵の肩を叩いた。
『外へ出たら、俺の後ろについてこい。見失っても、勝手に走るなよ』
『その場で待つ、ですよね』
『そうだ。迎えに行く』
住処の出口は、壁の下に開いた狭い隙間だった。
三人は一列になって外へ出た。平らな地面が遠くまで続き、上方には四本の柱に支えられた巨大な台があった。レイヴンは柱の根元へ身を寄せ、帰りに使う出口の位置を確かめた。
食料は台の下にあった。地面に置かれた白い浅皿に、柔らかな塊が残されている。甘い匂いに混じって、脂の匂いがする。
『これなら食べさせられる』
ニードルの声が少し明るくなった。
『お前のところも、もうすぐだったな』
『ああ。今朝、女房が自分の配給まで俺に寄越したんだ。帰ったら、腹いっぱい食わせてやりたい』
『それなら早く持ち帰ろう』
三人が柱の陰を離れたとき、地面が揺れた。
巨大な足が、進路を横切った。
モスが動きを止める。ニードルはその腕を引き、柱の陰へ連れ戻した。頭上には、肉色の巨体がそびえていた。体を覆う白い布のさらに上に、顔らしいものが見える。
巨人は三人に気づかず、壁に埋め込まれた大きな扉を開いた。冷気と光が流れ出す。
『そのまま待て』
レイヴンは小声で命じた。
モスは柱に身体を押しつけた。ところが、踏ん張った足が滑り、肩が柱の外へ出た。
巨人の目が、そちらを向いた。
叫び声が降ってきた。
何を言っているのかわからない。ただ、次に現れた巨人が、長く平たいものを持っていることはわかった。それを頭上へ振り上げた瞬間、レイヴンはモスを突き飛ばした。
『走れ!』
背後に打撃が落ち、埃が吹きつけた。
レイヴンが柱を回り込むと、敵は追いかけてきた。再び振り下ろされた武器が柱にぶつかり、巨人たちが甲高く叫び合う。
その足元をニードルが横切った。巨人が跳び退き、もう一体へ衝突する。倒れかけた巨体が台を掴み、頭上から凄まじい音が響いた。
『隊長、こっちだ!』
ニードルが食料のある皿を指した。
三人は走った。巨人たちは互いを押しのけながら追ってくる。何を意図した動きなのか、レイヴンには読めなかった。
◇
モスが皿へ辿り着き、食料の一部を切り離した。
両腕で抱えられる大きさだった。それでも、住処に残る子供たちには十分な量がある。
『確保しました!』
『よし。俺が先に戻る。モスは中央、ニードルは後ろを頼む』
三人は壁の出口へ向かった。
その途中、ニードルの前に液体が降った。
彼は横へ跳んだが、足元にも飛沫が散っていた。転倒した身体を、白く泡立つ液体が覆った。
『ニードル!』
『来るな! お前まで巻き込まれる!』
レイヴンは引き返し、乾いた地面から仲間へ手を伸ばした。ニードルの腕を掴んで引く。上半身は泡の外へ出たが、足が滑って立てない。
『モス、荷を置いて手を貸せ!』
二人で両脇を支え、ニードルを引き出した。彼は激しく咳き込み、何度も息を吸おうとした。
『歩けるか』
『少し待て……息が、苦しい』
黒い装甲の継ぎ目から液体が入り込んでいた。レイヴンが拭おうとしたとき、頭上が暗くなった。
ニードルが彼の胸を押した。
『避けろ!』
平たい武器が、ニードルの脚を叩いた。
モスが叫んだ。レイヴンは倒れた仲間へ駆け寄り、肩を抱き起こそうとしたが、ニードルは首を振った。
『駄目だ。足が潰れてる』
『俺が担ぐ』
『出口まで逃げきれん』
レイヴンはそれでも腕を回した。ニードルは彼の手を掴み、顔を近づけた。
『女房に食料を届けてくれ。子供が生まれるんだ』
『わかってる。お前も帰るんだ』
『隊長』
ニードルは、モスを見た。
若い兵がもう一度近づこうとしている。レイヴンはその腕を止めた。
『モス、食料を持て』
『でも、ニードルさんが』
『持って出口へ行け!』
頭上で、武器が持ち上がった。
ニードルはレイヴンの腕を押し返した。
『頼んだぞ』
レイヴンはモスを抱えるようにして走った。
すぐ後ろで、もう一度、地面が震えた。
モスが振り返ろうとしたので、レイヴンは背を押した。
『前を見ろ。止まるな』
自分も、振り返れなかった。
◇
出口へ続く道には、二体の巨人がいた。
さらに一体が、黒い筒を地面へ近づけている。低い唸りが始まると、埃も食料の欠片も、その中へ吸い込まれた。
『柱を登れ。上から出口へ向かう』
二人は柱を登り、巨大な台の裏へ逃れた。黒い筒が下を通過し、先ほどまでいた場所の埃をさらっていく。
モスは食料を抱えたまま震えていた。
『俺が見つかったから、ニードルさんが』
レイヴンは若い兵の肩を掴んだ。
『今は、食料を持ち帰ることだけ考えろ』
『俺だけ無事に帰れません』
『あいつは、お前に生きて帰ってほしかったんだ。ここで死んだら、誰があいつの家へ食料を届ける』
モスは俯いた。少しして、食料を抱え直した。
『俺が先に飛ぶ。敵の注意を引くから、その間に西の壁へ向かえ』
『この荷物を持ったまま、飛べるでしょうか』
『遠くまで飛ぶ必要はない。壁際に降りたら、そのまま走れ』
『隊長も来てください』
『すぐ後を追う』
台が傾き、隠れていた二人に光が当たった。
レイヴンは飛び出した。出口へ向かうのではなく、正面にいた巨人の顔へ向かった。
敵の目が見開かれる。大きな口が開き、白い歯と濡れた赤い肉が見えた。熱い息と叫び声が正面からぶつかってくる。
レイヴンが肩へ降りると、巨人は激しく身体を揺すった。
『モス、今だ!』
巨大な手が迫る。逃れようと跳んだ瞬間、背中に打撃を受けた。
レイヴンは地面へ落ちた。
身体を起こすと、背に鋭い痛みが走った。もう飛べない。
モスも壁へは届かなかった。荷物の重さで高度を失い、別の巨人の胸へぶつかっていた。白い布にしがみつき、必死に身体を支えている。
◇
巨人が自分の胸を見下ろした。
その口から、細く震える声が漏れる。ほかの巨人たちが近づくと、胸の上にモスを乗せた個体は、急に大きな声で吠えた。伸びかけた手が引っ込む。
レイヴンは敵の足元まで走った。
『モス、下へ降りろ!』
『片手が塞がっていて、動けません!』
『食料を落とせ。俺が拾う!』
モスは下を確かめ、抱えていた塊を放した。
レイヴンがそれを受け止める。
『受け取った! 早く降りてこい!』
モスが動くより先に、巨人が白い布を引っ張った。
足場が伸び、若い兵が滑る。そこへ黒い筒が押しつけられた。
モスは筒の縁を掴んだが、腰から下が中へ引かれていた。
『手を離せ! 横へ跳ぶんだ!』
『もう……引っ張られて』
レイヴンは手を伸ばした。届く高さではなかった。飛ぼうとしても、背に痛みが走るだけだった。
『隊長』
モスが彼を見た。
『食料、落とさないでください』
『わかった。ちゃんと持ってる』
『ニードルさんの家にも』
『届ける。約束する』
モスの手が滑った。
レイヴンは名を呼んだが、若い兵の姿は黒い筒の中へ消えた。硬いものが内側を叩く音が、一度だけ聞こえた。
◇
レイヴンは食料を引きずって、壁の隙間へ辿り着いた。
『誰か、受け取ってくれ!』
奥で待っていたリラが現れた。食料の端を掴み、夫と一緒に引き込む。
『ほかの二人は?』
レイヴンは答える前に、外を見た。
巨人の指がこちらを指していた。黒い筒が向きを変え、壁際へ近づいてくる。このままでは、住処の入口に押し当てられる。
『リラ。これを奥へ運んでくれ』
『あなたも入って』
『俺が敵を引き離す』
妻は食料を置き、彼の腕を掴んだ。
『やめて。もう飛べないんでしょう?』
レイヴンは、妻が背の傷に気づいていたことを知った。
彼女の手を握った。出発前よりも冷たかった。
『奴らがここまで来たら、子供たちまで殺される』
『でも』
『頼む。子供たちを守れるのは、君だけだ』
リラは腕を放さなかった。
レイヴンは妻を抱き寄せ、唇に触れた。ほんの一瞬でも、そのままでいたかった。
『ホープ』
『え?』
『俺たちの子供の名だ』
リラの顔が歪んだ。
『帰ってきてよ……』
彼は答えられなかった。
妻の手をそっと外し、隙間の外へ出た。
巨人の足元へ走ると、敵は叫んで後退した。黒い筒もこちらを追い、住処の入口から離れていく。
レイヴンは壁と反対の方向へ走り続けた。妻と子供たちから、一歩でも遠くへ敵を連れていきたかった。
吸い込まれる風に足を取られた。
地面へしがみつきながら、彼は最後の報告をした。
『食料は届けた。リラ、ホープを……頼む』
身体が持ち上がる。
住処の入口を見ようとしたが、その前に黒い筒へ引き込まれた。
『名前ひとつじゃ、足りないのよ……』
◇
リラは夫の返事を待った。
一度呼んで、待ち、もう一度呼んだ。外で唸っていた音が止んでも、レイヴンの声は戻らなかった。
その夜、子供たちが生まれた。
リラはニードルの妻と二人で食料を分け、柔らかな部分を小さく裂いた。最初のひとりが食べ始めると、ほかの子供たちも寄ってきた。
『慌てなくていいの。みんなの分があるから』
言いながら、リラは入口を見た。
食料を引きずってきた跡が、そこまで続いている。
子供の一人が、彼女の手を引いた。
リラは顔を戻し、その子にもひとかけらを渡した。
壁の向こうでは、食べ残しの乗っていた皿が洗われていた。
床に撒かれた洗剤が拭き取られ、掃除機は玄関へ運ばれた。ホースの先に袋が被せられ、テープで塞がれる。
やがて台所の灯りが消えた。
冷蔵庫の裏では、子供たちが食事を続けていた。
リラは、最初に食べ終えた子供を抱き寄せた。
『あなたは、ホープ。お父さんが考えてくれた名前よ』
子供は彼女の胸元へ顔を寄せた。リラはその背を撫で、隣で待っている子供へ手を伸ばした。
ほかの子たちの名前も、考えなければならない。
二人で決めるはずだった。
リラは子供たちを順番に抱き寄せた。
その夜、台所の住人たちは安心して眠った。
壁の奥で守られた命が、何十もあることを知らずに。




