第9話 朱川さんのYシャツの隙間からは何色が覗くか?
……さて、とにかく勉強だ。
数学の勉強をしなければならない。
クラスの美少女達と遊びまくるために。
取返しのつかない高額負債を抱えないために。
俺は妖羽さんへの決死の頼み込みに成功した直後から、自分の席に戻って数学の勉強を始めた。
――――――
……しかし、参考書を見返すも、一体何が書いてあるのかさっぱりわからない。
まあそれはそうだ。今までにこの参考書は何度も読み返してきたが、結局何1つ脳に定着していないのだ。
現実というのは厳しく、いくらやる気が出たところで、急にわかるようにはならない。
しかし、諦めるわけにはいかなかった。
俺はとりあえず、何をどう勉強すればいいかわからなかったので、テスト範囲の最初の問題の解答をノートに書き写すことにした。
「ねえ……
……ねえってば」
「…………。
……ん?……俺?」
気づいたら机の前に朱川さんが立っていた。
「何してるの?」
「見ての通り、勉強だよ」
「珍しいね。数学苦手なのに。楽しいの?」
「……楽しいというか、幸せになるために勉強は必要だからさ」
「ふーん」
俺はノートに集中していたので、目を合わせずに適当に思いついたことを返答しておいた。
遠くから黒沢さんが呼んでいる。
「朱川?何してんの?早く行こうってば」
「あ、うん、今行く」
朱川さんは授業の準備のため、俺の机から足早に離れていった。
これでやっと意識をノートに戻せる。
「えい」
「……うわ!」
突如、俺の手元に、ドス黒い包み紙に覆われた小さい玉が飛んできた。
「……何するんだよ……」
玉をよこした犯人は言った。
「それあげるよ」
「え……なにこれ?」
「飴だよ。〈暗黒〉味だって」
「えぇ……」
なんだその味……、すごくいらない……。
「ひどい!人からのもらい物を!」
「……朱川さんはこういう、へんなお菓子が好きなの?」
「いや?私もいらないから君にあげたの。
じゃ、勉強頑張ってね」
こいつ……。
俺は黒の塊を噛み砕いた。
――――――
あっという間に放課後になった。
妖羽さんとの勉強会の時間まで少し余裕があったので、俺は誰もいない教室で1人、懲りずに数学の解答をノートに書き写していた。
ガラガラと教室の扉が開いた音がした。
「まだやってたの?」
顔を上げずとも、声で朱川さんだとわかった。
「妖羽さんのとこ行くんでしょ。遅れるよ?」
扉が閉まった後、足音がこちらに向かってくるのを片耳で捉えた。
それは俺の机の前で止まった。
「大丈夫だよ、まだ時間によゆ…………」
……俺は全部を言い切る前に、話しかけの状態で口が止まってしまった。
なぜなら顔を上げた際、明らかにいつもと違う格好の朱川さんが立っていたからだ。
彼女はなぜかセーターを着ておらず、Yシャツだけの姿だった。そして胸元を第2ボタンまで開けていたのだ。
セーターは?と聞くと、何やら汚したから洗ったとかで干しているらしい。
「私が教えてあげよっか?」
大して成績が良いわけでもない朱川さんは、そう言って、机の向こう側から俺の方に上半身を深めに倒した。
何というか、さっきからほんのりと感じていた嫌な予感が……
いや、実際は嫌ではないのだが、とにかく〈予感〉が的中した。
というのも彼女は、Yシャツの隙間が俺のちょうど目線の高さになる、とても都合の良い位置で、上半身の角度を固定した。
――――――
「xとyが……を満たすとき……」
彼女が問題文を音読している10秒くらいの間、その上半身はちょうど良い角度で固定されていた。
その間、胸元とYシャツの隙間からピンクのレースブラが覗いていた。
俺はそれを見ていた。
普段の格好ではいくら屈んだところで何も見えはしないのだが、今の彼女はYシャツの第2ボタンまでを開けた、胸元ゆるゆるの魅惑状態だ。
屈むことでその隙間が開き、色んなものが見えるようになっていた。
体勢が疲れたのか、彼女はいったん上体を起こした。
その後何か30秒ほど解説のようなことをしゃべり、また10秒、先程と同じちょうど良い角度に上半身を固定した。
俺はまたレースブラを見た。
そのサイクルが何周か続いた。
理由はよくわからないが、俺は30秒おきに彼女から〈飴〉を与えられ、次第に思考が鈍っていった。彼女から目が離せなくなっていった。
頭の中をゆっくりと染められていくようだった。
「胸ばっか見て……ほんとえっちだね」
彼女は少し嘲笑うように言った。
朱川さんこそ、わざとでは?……とは言わないでおいた。
「君と勉強会する妖羽さんが心配だなぁ」
彼女は白々しく言った。
「妖羽さんは誘惑してこないから平気だよ」
俺は朱川さんの目を見て、示唆的に言った。
「…………。……じゃあ、妖羽さんが変な目で見られないように……
私で――――――――あげるよ……」
「え?なんて……?」
「いや、なんでも」
彼女は何か言ったが、小さくてよく聞こえなかった。
――――――
先程は隙間をチラチラと見せてくれていたのに、ここ10分くらい、全く波が無くなった。
悔しいことに、もどかしさだけが募っていった。
はっきり言うと、彼女は焦らしているのだ。
……俺の視線や表情がよほど面白かったのだろう。彼女は得意気な表情をしていた。
「ふぅ……暑いね……」
彼女は突然そう言い出し、Yシャツの第3ボタンを外して、胸元をグイッと開いた。
今まで隙間越しだったピンクの下着と膨らみが、直接見えていた。
この女、銀条院さんにしか許されていない暗黙のタブーを破りやがった。
その直後だ。
「まだ解けないのー?」
今日一番だろう。彼女は上半身を思いっきり前のめりに乗り出して来た。
もはや問題文など読む姿勢ではない。朱川さんは俺の右肩の奥の方に顔を持っていき、確実に意図的に、下着の中身を俺に見せつける位置で静止した。
朱川さんが至近距離に近づき、肌から熱気を感じた。
お互いに息が荒かった。
下着の中は汗で蒸れていた。
ほんの少し位置が違っていたら先端が見えたんじゃないかという程、左右の胸の斜面と、その頂上付近をかろうじて隠すピンクの生地……というかもはや白い裏地が、ガッツリ見えた。
少しの間お預けにされ、溜まっていたドーパミンが一気に出たのがわかった。ここまで意図して俺を制御しているのかは不明だが、中毒性の高いやり方だった。
無意識的に彼女の虜になっていたのかもしれない。
彼女は、俺の明らかに尋常じゃない視線と表情を見て勘違いしたのだろう。
「あ……もしかして……全部見えた……?」
と聞いてきた。
顔を赤らめて目線を下にそらし、胸のあたりを両手で隠すようにぎゅっと押さえた。
それが限界だった。
「ねえ、今日何かおかしいよ」
俺は朱川さんの腕をつい掴んでしまった。
「きゃあ……!!」
彼女が大きな声を上げたため、俺は手を離した。
「急に触らないでよ、びっくりするじゃん……」
朱川さんは顔をそらしながら言った。
俺がごめんと言う前に、そのままどこかへ行ってしまった。
残念ながら彼女を追いかける余裕が俺には無かった。少し申し訳なく思った。
一昨日の白パン事件以降、朱川さんの精神状態は、異常をきたしているように見えた。
それが心配だった。
……まあ、今考えても仕方がない。
俺は荷物をまとめて、真面目なほうの勉強会、つまり妖羽さんの家に向かうことにした。
それが地獄の始まりとは知らずに。




