第6章:悪魔の囁き
ハッと目を開くと、そこは埃っぽい陣幕の中だった。李傕と郭汜が、仲間たちと逃亡の相談をしている、あの忌まわしい時間。胸には生々しい幻の痛みが残っていた。
(……駄目だ。逃げるだけでは、死ぬ)
一度目の死で得た教訓が、彼の全身に警鐘を鳴らす。単独での逃亡は、確実な死への道筋でしかない。ならば、生き残る道はどこにある?
答えは、目の前にあった。
李傕、郭汜、張済……彼らが率いる数万の涼州兵。それは、制御不能な暴力の塊であると同時に、この乱世を生き抜くための、唯一にして最大の「力」であった。
(この力を、利用するしかない)
たとえ、その先にどのような地獄が待っていようとも。自らが生き残るためには、この暴力を手懐け、自らの盾とし、矛としなければならない。
賈詡の中で、何かが決定的に変わった。良心やためらいといった、生存の邪魔になる感情が、冷たい氷の奥底へと沈んでいくのが分かった。
彼はゆっくりと立ち上がると、議論を続ける李傕たちの前に進み出た。
「諸君、お待ちいただきたい」
その場にいた全員の視線が、賈詡に注がれる。彼はその視線をものともせず、静かに、しかし有無を言わせぬ響きを持った声で語り始めた。
まず、彼は彼らの希望を無慈悲に打ち砕いた。
「長安では、涼州人を皆殺しにしようという話がある 。この状況で諸君が軍を捨て、てんでばらばらに故郷へ逃げ帰ればどうなるか。道中の一人の亭長にすら、赤子の手をひねるように捕らえられ、首を刎ねられるのが関の山だろう 」
李傕たちの顔から血の気が引いた。賈詡は、彼らが抱いていた淡い期待を、冷徹な現実論で粉々に砕いたのだ。
陣幕に絶望的な沈黙が落ちる。その沈黙を切り裂き、賈詡は悪魔の囁きにも似た、もう一つの選択肢を提示した。
「いっそ、軍勢をまとめて西へ向かい、道中の兵を吸収しながら長安を攻め、董卓様の仇を討つべきだ 。成功すれば、天子を奉じて天下に号令することができる 。もし万が一失敗したとしても、その時になってから逃げても遅くはない 」
その言葉は、雷鳴のように彼らの心を撃ち抜いた。
賈詡は、彼らが置かれた状況を「敗残兵の逃亡」から「復讐と天下取りの機会」へと、一瞬で塗り替えてみせたのだ 。「董卓の仇討ち」という大義名分は兵士たちの士気を高め、「成功すれば天子を奉じる」という未来は、指導者たちの野心に火をつけた 。
獰猛な笑みが、李傕の口元に浮かんだ。「……面白い。確かに、このまま逃げ帰っても犬死にするだけだ」
隣で聞いていた郭汜も、ぎらついた目で頷く。「どうせ死ぬなら、長安で一暴れしてからの方がマシだ。よし、賈詡。貴様の策、乗ってやろう!」
その言葉には、感謝よりも野心が、敬意よりも打算が色濃く滲んでいた。彼らは賈詡の策を受け入れた。それは、彼らが賈詡を信頼したからではなく、その策が彼らの生存本能と欲望を最も強く刺激したからに他ならない。
賈詡は、ただ静かにそれを受け入れた。
彼は、自らが長安に地獄の門を開いたことを、はっきりと自覚していた。この選択が、これからどれほどの民の血を流し、漢王朝にとどめを刺すことになるのかを、誰よりも理解していた。
その計り知れない罪の重さが、彼の魂に新たな枷として刻み込まれる。
だが、彼の表情は能面のように変わらなかった。心は、凍てついていた。
生き残る。
そのためならば、悪魔にでもなろう。
この日、涼州の無名の賢者は完全に死に、天下を震撼させる「毒士」が、その産声を上げたのである。
後世で賈詡は「毒士」と呼ばれています。
すごい呼ばれ方ですよね。
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