第22章:離間の毒章(後編)
賈詡は静かに立ち上がると、幕舎の中央に進み出た。そして、以前と同じように、こう告げた。
「―――離間あるのみです」
その言葉に、曹操はにやりと笑った。
「……面白い。続けよ」
「馬超は、父・馬騰を殺された恨みから、ただ猛進する猪武者。一方、韓遂は老獪な狐。長年の盟友とはいえ、その本質は水と油。この二人の間に、楔を打ち込むのです」
賈詡は、まるで盤上の駒を動かすかのように、静かに策を語り始めた。それは、軍を動かすことなく、人の心という戦場を制圧する、恐るべき計略であった。
曹操は、その策の骨子を聞くと、満足げに頷いた。
「ククク……良い。実に良い。人の心を弄ぶことにかけては、そなたの右に出る者はおるまい。早速、始めるとしよう」
数日後。膠着した戦況を動かすかのように、曹操から西涼連合軍へ「和睦交渉」の使者が送られた。その条件として、曹操は韓遂との一対一での会見を求めてきた。
「何だと?なぜ俺ではなく、韓遂殿を指名してくるのだ?」
馬超は、露骨な不快感を示した。若く血気盛んな彼にとって、自分が差し置かれたことが我慢ならなかった。
韓遂は、そんな馬超をなだめるように言った。
「まあ待て、孟起(馬超の字)。曹操とわしは、若い頃に都で知己であった仲だ。その誼を頼ってきたのだろう。ここはわしに任せてもらえんか。奴の真意を探ってくる」
「……くれぐれも、奴の口車に乗られぬよう」
馬超は、なおも疑念の目を向けながら、渋々その会見を認めた。
両軍が見守る中、曹操と韓遂は馬を寄せ、陣地の中間地点で対面した。だが、彼らが交わした言葉は、周囲の予想を完全に裏切るものだった。
「おお、韓遂殿!息災であったか!いやはや、都で共に酒を酌み交わした日々が、昨日のことのようだ!」
曹操は、満面の笑みで韓遂の肩を叩いた。軍事の話など、一言も出さない。ただ、昔の思い出話、共通の知人の噂話に、時を忘れて花を咲かせるだけだった。韓遂もまた、旧友との再会に、つい警戒を解いて笑顔で応じていた。
その光景を、遠くの丘の上から、馬超は忌々しげに見つめていた。
「……何を、あんなに楽しそうに話しているのだ」
隣に控える猛将・龐徳が、主君の苛立ちを察して進言する。
「殿、おそらくは昔話に興じているだけかと」
「それにしても長すぎる!」と馬超は吐き捨てた。「韓遂殿の顔を見ろ。まるで年来の友と会っているようだ。敵の総大将と会っている顔ではないわ!」
馬超の心に、小さな疑念の種が蒔かれた瞬間だった。
会見が終わり、自陣に戻ってきた韓遂に、馬超はすぐさま問い質した。
「韓遂殿、曹操は何と?」
「いや、何……ただ昔話をしてきただけだ。拍子抜けするほど、戦の話は出なかったわ」
「本当ですな?」
「うむ。どうやら曹操も、我らの勢いに恐れをなしているのかもしれんな」
韓遂はそう言って笑ったが、その言葉はもはや馬超の心には届かなかった。
そして数日後、賈詡の第二の矢が放たれる。
曹操から、韓遂宛に一通の書簡が届けられたのだ。使者はわざと馬超の目の前を通り、これ見よがしに韓遂の幕舎へと入っていった。
案の定、馬超は韓遂のもとへ乗り込んできた。
「韓遂殿!今度は何だ!曹操からの密書か!」
「ま、待て孟起、落ち着け。わしも今、受け取ったばかりだ」
慌てて書簡を開いた韓遂は、その内容を見て絶句した。それは、和睦の詳細について書かれているようだったが、肝心な部分が、いくつも黒く塗りつぶされ、その上から別の言葉が書き加えられている。まるで、何か都合の悪い部分を、韓遂自身が慌てて修正したかのように。
「……見せてもらおうか」
馬超は、韓遂の手から書簡をひったくるように奪い取った。そして、その意図的に改竄された跡だらけの文面を見た瞬間、彼の猜疑心は、確信へと変わった。
「これは……!!貴様!俺に隠れて曹操と内通し、和睦の条件を自分に都合の良いように書き換えているな!」
「ち、違う!これは最初からこの状態だったのだ!」韓遂は必死に弁明した。「曹操が、我らの仲を裂くための罠だ!」
「黙れ!」馬超の怒りは頂点に達した。「我が父も、貴様のような男の裏切りで殺された!この俺を、父と同じ目に遭わせるつもりか!」
もはや、何を言っても無駄だった。韓遂の言葉は、裏切り者の言い訳にしか聞こえない。馬超は剣を抜き放つと、韓遂に斬りかかろうとした。周囲の将たちが、必死に二人を押しとどめる。
「もう貴様など信じられるか!西涼軍は、今日この時より、俺が率いる!」
「何を言うか若造が!この軍は、わしとお主の父が共に築いたものぞ!」
同盟は、完全に崩壊した。
馬超の兵は韓遂の兵を「裏切り者」と罵り、韓遂の兵は馬超の兵を「恩知らずの若造」と見下した。軍の統制は失われ、互いへの不信感だけが、毒のように陣営に蔓延していった。
その様子を、対岸の丘から静かに眺めていた曹操は、賈詡に言った。
「……見事なものよ、賈詡。血を一滴も流さずして、十万の軍勢を内から腐らせるとはな」
好機は、熟した。
曹操は全軍に総攻撃を命じた。
指導者たちが互いに憎しみ合い、兵士たちが疑心暗鬼に陥っている西涼連合軍は、もはや精強な軍隊ではなかった。曹操軍の猛攻の前に、彼らは蜘蛛の子を散らすように敗走した。
潼関での大勝利。その祝宴の席で、曹操は上機嫌で言った。
「此度の勝利は、九割がた賈詡、そなたの功績だ!望むだけの褒美をやろう。何が欲しい、遠慮なく申してみよ!」
だが、賈詡は玉座の前に進み出ると、涙ながらに平伏した。
「もったいないお言葉にございます!我が策は、ただのきっかけに過ぎませぬ。それを完璧に実行に移されたのは、丞相の天威と英断の賜物。分不相応な褒美は、かえって我が身を滅ぼします。どうか、何もお与えになりませませぬよう……!」
その必死の懇願に、曹操は一瞬呆気にとられたが、やがて腹を抱えて笑い出した。
「ククク……どこまでも面白い男よ!欲を見せぬことで、かえって我が信頼を勝ち取ろうというのか!良いだろう、褒美はやれぬが、そなたへの信頼は、この戦で万金に勝るものとなったぞ!」
賈詡は、ただ深く頭を下げ続けた。
彼は、功績という名の栄光を、自ら手放した。それによって、彼は古参の重臣たちの嫉妬という名の毒矢を、見事にかわしきったのである。
彼の「静かなる航海」は、まだ続いていた。
能力が高いがゆえに、そして権力を欲しがらないがゆえに、権力が与えられてしまうタイプのキャラですよね。
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