第1章:無名の賢者
その旅が始まる前、賈詡は洛陽の郎(宮中護衛官)であった 。
若くして孝廉に推挙され、故郷の涼州武威郡を離れて都に上がったものの、彼の心は晴れなかった 。濁りきった宮廷、虚飾と陰謀が渦巻く日々。賈詡は早々に、この場所が己の生きる世界ではないと見切りをつけ、持病を理由に官職を辞した 。
故郷への長い帰路につく前、漢陽郡の名士であった閻忠だけが、送別の席で若き賈詡の本質を見抜いたような言葉をかけた。
「君は、漢王朝創設の軍師、張良や陳平のような智謀を秘めている」
周囲の者たちは、社交辞令と受け流した。賈詡自身も、ただ黙って杯を干しただけだった。当時は、彼の才能を評価する者はほとんどいなかったのだ 。
(張良、陳平、か……)
故郷へ向かう旅の道中、賈詡は馬に揺られながらその言葉を反芻していた。彼らのような伝説の軍師は、主君を覇業に導いた。しかし、その裏でどれほどの血を流し、策謀を巡らせたことか。
自分は、そんな大それた人間ではない。
ただ、生まれ故郷の涼州で、静かに、長く、生きたい。それだけだ。乱世の足音は日増しに大きくなっているが、辺境の地ならば、まだ穏やかに寿命をまっとうできるかもしれない。
そんな淡い期待は、隴西の荒野で無残に打ち砕かれることになる。
街道を外れ、近道を選んだのが間違いだった。
数十人の氐族の集団が、獣のように襲い掛かってきた 。旅の同行者たちは、なすすべもなく殺されていく。悲鳴と断末魔が荒野に響き、血の匂いが風に乗って鼻をついた。
賈詡は、他の数人と共に捕虜となった。これが、地獄の始まりだった。
【一度目の死】
「ふざけるな!」
縛られながら、賈詡の隣にいた男が叫んだ。元は役人だったという彼は、誇りを捨てきれなかったらしい。隠し持っていた小刀で縄を切り、氐族の一人に斬りかかった。
一瞬の驚きの後、男は無数の槍に体を貫かれて絶命した。その血飛沫が、賈詡の頬にかかる。
(馬鹿な真似を……)
賈詡は冷ややかに思った。だが、その数瞬後、逆上した氐族の男たちが「こいつらも殺せ!」と叫び、彼の体にも無慈悲な刃が突き立てられた。
抵抗は、無意味だった。
逆上した男が振り下ろした刃が、賈詡の視界の隅で鈍く光る。次の瞬間、首に灼けるような線が引かれ、熱い血が噴き出した。声を出そうにも、喉から漏れるのは「ごぼっ」という水音ばかり。急速に遠のく意識の中、故郷の涼州に帰るという、ささやかな願いが泡のように弾けて消えた。
(そうか、私は……ここで、死ぬのか)
―――ハッと目を開くと、彼は再び氐族に囲まれ、地面に縛り付けられていた。隣では、先ほど死んだはずの男が、まだ息をしている。
(夢……か?)
だが、頬に残る血の感触と、体に刻まれた死の恐怖はあまりに生々しかった。
【二度目の死】
混乱する頭で、賈詡は別の選択肢を試した。
隙を見て、全力で逃げた。しかし、馬を駆る氐族の兵士にあっという間に追いつかれ、背中から槍を受けて地面に崩れ落ちた。土の味が口に広がる。
(逃げるのも、駄目か……)
【三度目の死】
「待ってくれ!金だ!金ならある!」
今度は、命乞いを選んだ。旅の路銀を全て差し出し、頭を地面にこすりつけた。氐族の頭目らしき男は金を受け取ったが、蔑むような笑みを浮かべただけだった。
「漢人の命など、この程度の価値もない」
その言葉を最後に、賈詡の視界は闇に閉ざされた。
【???度目の死】
何度、死んだだろうか。
抵抗、逃亡、命乞い、沈黙、恫喝、あらゆる手段が通じず、賈詡は何度も無残に殺された。槍で刺され、剣で斬られ、馬に踏み潰され、時には生きたまま火あぶりにされた。
繰り返される死のループの中で、彼の心は徐々に麻痺し、そして研ぎ澄まされていった。
最初の絶望は、恐怖に変わった。
恐怖は、冷徹な観察眼に変わった。
(こいつらは、何を恐れている?何を欲している?)
死の合間に、賈詡は敵を冷静に分析し始めた。彼らは略奪者だが、同時に臆病でもあった。彼らが最も恐れるのは、自分たちより強い存在。後漢の権威はまだ、この辺境の地でもかろうじて生きていた。特に、西域でその名を轟かせた猛将の名は、彼らにとって恐怖の象徴のはずだ。
(そうだ……あの男の名が使える)
絶望のループの底で、賈詡は初めて活路を見出した。
それは、力でも金でも命乞いでもない。自らの舌先三寸で、現実を捻じ曲げ、敵の恐怖と欲望を操るという、ただ一つの道だった。
再び意識が戻り、目の前に氐族の男が槍を振り上げる。
今度こそ。
賈詡は、死の恐怖を押し殺し、これまでとは全く違う、静かで尊大な声を発した。
「―――私を殺す前に、覚えておくがいい。私は、あの太尉・段熲の外孫だ」
いきなりハードモードから始まります。
史実ベースは次の話で。