30:包囲網と抜け道
30:包囲網と抜け道
「……街ごと、飲み込むつもりか」
ジンの声は風にかき消されるほどの小ささだったが、その目に宿る鋭さは、真冬の刃のように冴えていた。
彼は建物の屋根の縁に身を潜め、夜の帳が下りた街の外縁をじっと睨みつけている。
そこには、奇妙な光景が広がっていた。
標章も旗もなく、足音一つ響かせずに進軍する兵士たち――
まるで影が歩いているかのような一団が、闇に紛れて着実に街を取り囲んでいく。
「なに……あれ……?」
隣に膝をついていたリリコが、声を押し殺すように呟いた。
その顔から血の気が引いているのが、ジンには横目でも分かった。
「まさか……この街自体が、政府の“次の標的”だったってこと?」
「いや……たぶん“元から”狙ってたんだろうな」
ジンは静かに言い返した。
この街に潜伏したことが、まさに悪運だったというわけだ。
ロイスたちの情報が漏れたとは思えない。ならばこれは偶然の一致――だが、それがどれほど最悪な巡り合わせだったかは、いま目の前の光景が物語っている。
「……じゃあ、ここにいる意味なんて、もうないってことね」
リリコは視線を落とし、静かにそう呟いた。
その隣で横たわっていたロイスが、かすかに呻き声を上げた。
「ん……おまえ……どこ……?」
薄く開かれたロイスの瞳は焦点を結ばず、虚空をさまよっていた。
その声は、まるで夢の中で誰かを探すように頼りない。
「ロイス、しっかりして。あんた今、私に起こされたんだから」
リリコが両肩を支え、揺さぶるようにして呼びかける。
「……そうか。なんか……変な感じがする」
ロイスの呼吸は浅く、言葉も定まらない。
彼の体内で進行している“細胞活性”の副作用か、それとも――
いや、これは“彼に課された制限”の影響かもしれない。
本来、ロイスの“力”は自然な流れの中で覚醒するはずだった。
無理やり引きずり出された今の彼は、ただの人間となんら変わらない。
むしろ、代償ばかりが先行してしまっているようにも見える。
「時間がねぇ。とっとと出るぞ」
ジンが短く言い放ち、宿の裏手へと向き直る。
その表情に浮かぶのは、焦りでも恐怖でもない。
ただ、状況を見極めた上での迅速な“決断”――
それだけだった。
街はすでに包囲されつつあり、火の手も見え始めていた。
燃えているのは、市街地の南東――
民間の通信施設が密集する一角だ。
「……情報遮断か。徹底してるわね……」
リリコのつぶやきに、ジンが眉をひそめる。
「ねぇ、正面からはもう出られないよね……どうするの?」
その問いに答えたのは、意外にもロイスだった。
さっきまで呆然としていたはずの彼が、ぽつりと口を開く。
「……この街の地下に、旧市街の排水路跡がある。……もう使われてないけど、地図には残ってる」
「は?」
リリコとジンが同時に顔を向ける。
「それ、歩けるの?」
「たぶん……狭いけど……」
「“たぶん”じゃねえんだよ……」
ジンはこめかみを指で押さえ、深く息を吐いた。
「……まあ、他に道がねえなら、それに賭けるしかねえな」
案内されたのは、街の外れ、廃業した鉄工所の裏手だった。
朽ちたコンクリートの壁面に、小さな鉄の扉がぽつんと取り残されている。
鍵はもはや錆びついて役目を果たしていなかった。
ジンが手袋越しに力を込めると、扉は鈍い音を立てて軋みながら開いた。
「……地下、って感じだね……」
リリコが鼻をつまみながら中を覗き込む。
内部は確かに排水路の名残を留めていた。
石と鉄で作られたアーチ状の天井、苔に覆われた壁、
底には濁った水が細く流れており、足場はぬかるんで不安定だ。
それでも、表の銃声と炎に比べれば、ここは天国だ。
「こっちは地下網、あっちは炎と銃声。……ロイスの勘もたまには使えるじゃん」
リリコが冗談めかして言うと、ロイスは小さく笑った。
「……もう少し、ちゃんと考える時間が欲しかったな」
その自嘲には、焦燥とも罪悪感ともつかない色がにじんでいた。
彼らが地下に潜った後、しばらくしてから――
ようやく政府軍の探索部隊が、彼らのいた宿にたどり着く。
だが、そこには彼らの痕跡はほとんど残っていなかった。
ベッドの乱れ、足跡、血の跡、生活の痕――
すべてリリコが執拗なまでに処理していた。
痕跡消去は彼女の得意分野だった。
「……本当にいたのか?」
一人の兵士が周囲を見回しながら呟く。
隊長格の男は、床に残った排水口の跡に視線を落とし、
微かに目を細めた。
「……いた。気配がある。すぐそこにいた形跡がな」
その目は、獣のように鋭く、見えない痕跡を嗅ぎ取っていた。
一方、排水路の奥――
三人は慎重に足を運びながら、ひたすら前進していた。
天井の低さに何度も頭を打ちそうになり、
床の亀裂に足を取られかけながら、それでも彼らは進む。
「この先、東の森林帯に抜ける。そこまで行けば、もう政府軍の影響圏じゃない」
ロイスが小声で伝える。
彼の瞳はようやく若干の明瞭さを取り戻しつつあり、
思考もほんの少し冴えを取り戻してきていた。
「よし、じゃあ――」
ジンが言いかけたそのときだった。
通路の奥から、かすかに“気配”がした。
風の音ではない。水音でもない。
それは、確かに“何者か”の存在を感じさせるものだった。
「……誰か、先に使ってるかもな。この道」
ジンの低い声が響く。
リリコが息を飲み、後ろのロイスもわずかに足を止める。
彼らの視線の先、まだ見ぬ“出口”の先には――
味方か、敵か、それとも予想もしなかった第三の存在か。
地下の冷たい空気が、静かに緊迫を孕んで流れていた。




