28:夜の帳、火の匂い
28:夜の帳、火の匂い
ロイスの言葉が、リリコの胸に重く沈んでいた。
「ここは、もうすぐ燃える」
ただの比喩――そう思い込もうとしたが、その夜、街の空気には確かに何かが混じっていた。
風の流れが妙に不自然で、耳の奥で聞こえるような音があった。
まるで、夜の闇が息をひそめて何かを待っているかのように。
夜更け。月が宿の屋根を照らしていた。
ロイスはいつも通り、誰よりも早く眠りについていた。
その姿は無防備というより、まるで“意識が閉じられている”ようにしか見えない。
リリコは、それが彼の抱える弱点だと知っていた。
いくら彼が強かろうが、眠っている時は目も耳も閉ざされている。
「……ちゃんと起きてよね、次は」
独り言のように呟きつつ、彼女もベッドに入る。
ただ、胸の奥に妙なざわつきだけが残っていた。
何かの気配に目を覚ましたのは、深夜をとうに過ぎた頃だった。
部屋の外。廊下の軋む音。宿の扉が開く音ではない。
鍵も壊れていない。――つまり、“鍵を持っている者”が開けた音。
リリコは瞬時に理解した。
(やられた……!)
街での滞在記録、あるいは軍服の痕跡、何かが追跡者に伝わったのだろう。
来た。
急いでベッドから立ち上がると、部屋の仕切りの向こうで静かに寝息を立てているロイスを確認する。
顔は穏やかで、まるで天使のよう。だが、この状況では、ただの無力な存在にしかなれない。
(起きない……やっぱりダメ)
その時、扉のノブがゆっくりと動いた。
ギィ……
ゆっくりと扉が開かれ、影が一つ、部屋に忍び込んでくる。
月明かりに浮かび上がったのは、完全に無音で動く男の影。
その全身は、ロイスと同様に“何か”を施されているのが見て取れた。人間離れした動きと、異様に研ぎ澄まされた殺気。
リリコは息を殺しながら、部屋の角へと身を隠す。
声を上げればロイスは起きない。下手に騒げば、ロイスは殺される。
助けを呼べば、街全体が巻き込まれる。
それだけは避けたい。
(ジン……)
彼女は隣室にいるジンの存在を思い出す。
しかし、ジンの部屋とは間に小さな廊下がある。直接呼ぶには距離がありすぎるし、声を出せばこの男に見つかる。
そこで、リリコは――窓を開けた。
音を立てないようにゆっくりと。
そのまま、持っていた小銭を一枚、ジンの部屋の窓の方向へ投げた。
――カランッ!
夜の静寂に、金属の乾いた音が響く。
一瞬、男の視線が動いた。その隙を突いて、リリコは机の上に置いていたグラスを投げつけた。
ガラスの割れる音。男は即座にロイスではなく、音の方に意識を向けた。
そして――
「っち、遅せぇな……」
ジンが、窓を蹴破って飛び込んできた。
「騒がしいんだよ、夜中に」
手には“紫焔”。その刃は、月明かりを反射して蒼白く光っていた。
男は反応するも、ジンの一撃をまともに受け、窓の向こうへ吹き飛ばされた。
その体は数メートル先の屋根に叩きつけられ、ようやく“人間ではない動き”で受け身をとった。
ジンが苦々しく吐き捨てる。
「……ロイスに似てんな、こいつ。いや、あいつより野犬っぽいか?」
リリコは息を整えながら、壁際に寄りかかる。
そして、ベッドの上ではようやく、ロイスがゆっくりと目を開ける。
「……音がした」
「遅いのよ、ほんと……!」
屋根の上で、ジンと敵の男の戦闘が始まる。
だが、その最中、街の遠くから複数の足音と炎の匂いが漂ってきた。
リリコはそれに気づき、思わず呟く。
「ロイス……あなたの言った通りね。……ここ、ほんとに燃える」
ロイスはその声に微かに頷いた。
「なら、そろそろ出ようか」




