26:街に溶ける
26:街に溶ける
山を越えた先に広がる小さな街は、昼過ぎにもかかわらず活気に満ちていた。
行商人たちの掛け声、鉄製のカートを引く音、熱気と喧騒が通りを満たしている。
ロイスは一度立ち止まり、周囲を確かめるように視線を走らせたあと、リリコに小さく頷いた。
「市場の角……あの服屋に入る」
二人は言葉を控えながら、雑踏の中を縫うように進む。
目的はただ一つ――“軍服を捨て、街に溶け込む”こと。
政府軍の紋章が縫い込まれたままでは、どれほど振る舞いを偽っても目を引いてしまう。
とくにリリコの制服は最上位カーストの証。刺繍の色と意匠が、その存在を誰の目にも明らかにしていた。
◇服屋の奥にて
店先で呼び込みをしていた老齢の店主は、二人の姿を見るや否や口を閉ざし、周囲を見渡してから手招きした。
「……店の奥へ。ここじゃ目立つ」
布を入り口にかけて二人を奥へ通すと、店主は声を潜めて言う。
「代金はいらん。その代わり――お嬢さん、その軍服を置いていってもらおうか」
リリコの肩が、かすかに揺れる。
「……それを渡すのが条件?」
「ああ。あんたの軍服にあるあの紋章、街の者なら誰でも知ってる。
それを見れば誰が通ったか、どこへ向かったか、俺が話すまでもない」
「つまり……私を売るため?」
「いいや。俺は戦争なんぞごめんだ。ただ、信用ってやつが欲しいだけさ。
服を捨てた兵士が、どうなるかは自分で決めな。俺は黙ってる。それだけだ」
沈黙のなか、リリコは少しだけ視線を伏せてから、深く息を吐いた。
「……いいわ。もらって」
ロイスが無言で頷く。
二人はくすんだ灰色のマントと、古びたシャツとズボンを受け取った。
無個性なそれは、街に溶け込むには十分すぎる“匿名性”を備えていた。
ジンも簡素な頭巾と腰巻を受け取り、少しだけ首を傾げながら袖を通す。
◇喫茶店にて
通りの角にある喫茶店。看板には「珈琲」の文字が掠れて浮かんでいる。
リリコが示さなければ、ロイスもジンもただの倉庫だと見過ごしていたに違いない。
中に入り、三人は木のテーブルについた。
「……喫茶店ってのは、つまり、何する場所なんだ?」
ジンが椅子に座るなり訊ねてくる。
「座って、飲み物を飲むの。作戦会議にも使えるでしょ」
ロイスは入口側の席に腰を下ろし、外の通りに目を向けたまま黙っている。
小さなカップに注がれた濃い飲み物――コーヒーが置かれると、ジンは一口飲んで顔をしかめた。
「苦っ……! なんだこれ、毒でも入ってるのかよ」
「慣れないと飲めないわよ。でも、クセになるのよね」
リリコが笑いながらカップを回す。
ロイスは一口だけ口をつけ、脇にあった紙ナプキンにルートと時間の計算を描き始めた。
◇静かな決意
「私たち、ここに長くは居られないわ」
リリコがぽつりと呟く。
「こんな服着てても、リリコはリリコだしな。目立つよ」
ジンが軽く茶化すように言ったが、その目は真剣だった。
ロイスは紙ナプキンを指で軽く叩き、静かに口を開く。
「このまま北を回って、解放軍の拠点へ合流する。時間はかかるが、三日あればたどり着ける」
「じゃ、ここで一泊して、夜明けに出るってことでいいの?」
リリコが尋ね、ロイスが頷いた。
その旅路には、今も多くの危険が待っている。
だがこの日、リリコは軍服を脱ぎ捨てた。
あの布を外した瞬間から、彼女にとって“戻る場所”はもう、どこにもなかった。




