吟露草
朧の雲間より、青白く光をまといながら、月は姿をあらわした。その身の輝きの衣は、散り散りとなる暗雲を淡くにじませ、遠くの星の地表をもやさしく包み込む。
十三夜の月光を浴びながら、吟露草の草達は、ほのかに閉じられたつぼみを天へと向け、透き通るような白の花弁を次々と開いてゆく。
地にゆだねる根元に、青々と張ったつがいの双葉。一本に伸びた茎の頂に、五芒の星を形どる花びら。
その全身全霊を賭して、夜空に喉をふるわせる。
吟露草は月夜の晩に花開き、三日三晩かけて歌をうたう。
この三日間が吟露草の生きている命の証であり、うたい続けた三日後に花は萎れ、露のようなその短い命は、幕を閉じる。
月の奏でる光に合わせ、吟露草達は命の歌をうたい出す。
照らし出された闇の中で、最後の吟露草が花を開いた。他の吟露草に比べると、ひときわ小さく、華奢で、葉が片方にしか付いていなかった。
片葉の吟露草は、周りの吟露草達の歌に倣うように、夜空に向かって声を響かせる。だが、喉から出てくるのは声にならぬ無音の空気だけで、聞こえてくるのは他の吟露草達の美しい歌声だけだった。
どんなに喉をふるわせようと、どんなに声をふりしぼろうとも、片葉の吟露草の口から、歌は流れてこなかった。
辺りの吟露草達は、いぶかしげに見たり、憐れみや嘲笑の混じった目で、うたうことのできない片葉の吟露草を少し見たあと、また自分の生まれてきた意味を証明するかのように、命を謳歌する。
『私はなぜ、声が出ないのだろう。他の草達はあんなに美しい声でうたっているのに。
私はなぜ、うたうことができないのだろう』
片葉の吟露草は、そう思うとむしょうに悲しくなってきて、涙があふれて止めることができなかった。 それでもいつか声が出るのではないかと、声なき声を出し続ける。
片葉の吟露草は泣きながら無音の歌をうたい続けた。
太陽は青空の中心で命の力を放ち、すべての生命を包み込んでいた。
微塵の時間の海を泳ぐ雲と共に吟露草の歌を聞き、あたたかく見守っている。
光を輝かせる歌声の中で、片葉の吟露草は一人口を閉じ、うなだれていた。
一晩かけて出ない声を出し、涙も涸れ、いつの間にかうたうことをやめていた。
片葉の吟露草の耳に、刹那の一瞬一瞬を輪舞する永遠の歌が、遠くで聞こえていた。
『私はなんのために生まれてきたのだろう。なぜここにいるのだろう。
うたうことのできない私は、なんなのだろう。
このまま死んでいくことに、何か意味があるのだろうか。
もう私には、何もわからない』
片葉の吟露草は、自分の音のない声を呪い、自分以外の美しい歌声を聞いてしまう耳を疎ましく思い、もう何も考えないようにしようと、思考を止めることにした。
「よう」
吟露草の、その双葉の陰で、声が聞こえてきた。
「お前はなんで他のやつらのように、うたわねぇんだ?」
吟露草が葉をどけると、そこに一匹の毒虫が這いつくばっていた。
吟露草は黙って毒虫を見つめる。
「なんだ、だんまりか」
片葉の吟露草は首を横に振って応える。
「声が出ないのか? それでうたうことができないのか」
吟露草は耐えられなくなって、目を伏せる。
「お前ら吟露草にとっちゃ、たまらんな」
『あなたに何がわかる』
「まあおれもこの姿だ。時にたまらなくなるわな」
『だがあなたはいずれ蛹になり、飛び立つことができる』
「地面這いつくばって、皆に忌み嫌われて。
おれは蝶になったり蛾になったりって、しねえ種なんだ。
だから一生このままさ」
『・・・・・・・・』
「だがおれはこんな自分に誇りを持っている。
なんの根拠もねえ誇りだ。
なんで生まれてきちまったかはわからねえが、生きてる以上、そうやって生きねえとな」
毒虫は一人で勝手にしゃべり、吟露草の葉の上まで這い登った。
「おれはお前に何もしちゃやれねえ。
だが最後までこうしてお前の傍にいてやる。
だからお前は独りじゃない」
三日目の晩は雲一つなく、星々が踊るように瞬いている。
狂いのない円を描く望月は、自らに放つ光を金色で染め、吟露草達の歌に耳を傾けていた。
その月夜の調べに交じり、あきらかに不調和な音律がひときわ目立って響いていた。
いつからか、あの毒虫がうたっていた。
毒虫のだみ声を耳に、近くにいた吟露草がたまらずに言い放った。
「あなたのそのヘタクソな歌、とても耐えられませんわ!
私達迷惑なので、少し黙ってて下さるかしら!」
「うるせえ! でめえこそ黙ってろ!
おれはこいつの代わりにうたってるんだ。
おれがこいつの声代わりだ。
文句のあるやつぁ、食っちまうぞ!」
それだけ言って、毒虫はまたうたい出した。
『ああ、この虫の歌は、なんて美しいのだろう。
風のささやき、森のざわめき。波のさざめきまでもが今の私には聞こえてくる。
私の耳に入ってくるこの星の音は、なんと美しいのだろう。
この星は音楽に満ちている。
ああ、私はうたいたい。
声がなくともうたえるはずだ』
片葉の吟露草は、あらん限りの力をふりしぼり、天に向けて叫んだ。
『声なんかなくとも、歌はうたえる。
歌は声でうたうんじゃないんだ』
片葉の吟露草は誇りを持って、高らかにうたった。
『この空の向こうにある宇宙には、音が存在していないという。
だけど私の歌は音でうたっているんじゃないんだ。
私は声が出なくとも、声が出せるんだ』
片葉の吟露草は、自分の、ありとあらゆるすべてをつかって、歌をうたった。
『私のこの声よ、宇宙までとどけ!
私の歌よ、はるか銀河の彼方にまでとどけ!』
片葉の吟露草は、命をうたった。
自らの命を歌にして、この星に、天上の星々に、太陽や月に、歌をきかせた。
忘れることのないであろう命の歌を宇宙にうたってきかせ、宇宙もまた命を奏で、すべての子供達にうたい返すのだった。
【終わり】