第9話 帝国に向かう馬車の中で
その照れ顔にユーリアのほうがドキッとしてしまった。
クロードはバーバラの見舞いでは切ない表情を見せていたが、通常は感情を露わにしない。
元々端正な顔立ちだがいつも穏やかなのだ。
しかも今日は薄い銀色の長髪を後ろできちんと束ねて、久しぶりに騎士服を身に着けている。
その両方が相俟って凛々しさを際立たせていた。
そんなクロードが(少しだけだとはいえ)今は顔を赤らめている。
(いやいやその顔は反則でしょ。婚約者のバーバラにだって、あなたがそんな表情を向けてるところなんて見たことないわよ。って、今の婚約者は私か。とにかく役得なことは確かね)
ユーリアが一人わたわたとしていると、彼は今度はふっと笑みを漏らして少しだけ表情を崩した。
「やっと君らしさが戻って来たね。よかった。バーバラが戻ってきてからこっち、ずっと表情も硬くて、いつも肩に力が入っているように見えたから」
その言葉と表情に「そっちはクロードらしさが戻ってきてないわね」と心の中で突っ込んでいると、決して広くはない馬車の中、クロードの顔が思いのほか近く、低めの声が甘く耳元で響く。
「だいじょうぶ?気分悪いとか、ない?」
(ええっ。近い近い。全然大丈夫じゃない。あなた、何がしたいの)
思わず「クロード」と咎めるような声音で呼んでしまった。
ユーリアにはクロードの考えていることなどわからない。
それでわからないなりに話題をずらそうとして彼の目を何気なく見た。
(あっ)
「ん?」と応える彼の薄緑の瞳は小刻みに揺れている。
ユーリアは幼馴染の瞳の揺れが彼自身の不安や戸惑い、迷いや緊張を表していることを知っていた。
(さっきの言葉もそんな気持ちから言ったってこと?クロードはこれから何か言おうとしているってこと?)
もしそうだとしたらいきなり話題を変えるのは不自然だ。
だいじょうぶかと聞かれたのだからそれに答えればよい。
クロードの不安や緊張が解けるように。
それにユーリア自身もこれから続く長い道程、面倒なことを引き起こしたくない、穏便に過ごしたいといった気持ちもある。
「だいじょうぶよ」
ユーリアが先ほど礼を言った時と同じかそれ以上に微笑んで見せると、クロードは「かわいい」と漏らした。
(へっ?あなた、言う相手を間違っているわよ。確かに顔はあなたの婚約者、もとい元婚約者と瓜二つだけど)
心の中ではそう思いながらも、何か不安があるらしい彼をこれ以上不安定な気持ちにさせてはいけないと婉曲的に表現する。
「ありがとう。私とバーバラはそっくりだものね」
ところがクロードは目を見開き、目はさらに激しく揺れた。
(いかん、失敗した。逆効果だ)
ユーリアはなすすべもなく黙る。
(気まずい)
けれど口を開いたクロードの言葉は意外なものだった。
「えっと、何か勘違いしているかもしれないけど、ぼくからすると君とバーバラはあまり似てないよ。バーバラはきれいだけれど、かわいいと思うのは君だけなんだ」
(ちょ、ちょっとこの男は何を言い出すのよ。今の私はバーバラの身代わりで表向き隣国の皇子の花嫁よ。も、もちろんユーリアはあなたの婚約者だけれども、、)
混乱しながらも言い返す。
「何を言いたいのかよくわからないけど、軽々しくそんなことを言ってはだめよ。あなた、バーバラの婚約者だったでしょう。バーバラが好きだったから婚約してたのではないの」
クロードは両手で頭を掻きむしりながら、溜息をついて呟いた。
「なんでユーリアと話すときはこんなふうになってしまうんだろ」
幸い(というべきか)その言葉は彼女には届かなかったようだ。
彼女は素知らぬ顔で乱れてしまったクロードの髪に触れてそっと直した。
「幼かったころはよくこうやって直してあげたわね」
懐かしそうに言いながら、付け加える。
「とにかく、きれいだとか、かわいいとかいう言葉は婚約者に言ってあげて」
クロードはと言えば頭を触られてまた少し顔が紅潮したものだから下を向いてユーリアの視線を避けた。
「やっぱり天然なんだよな」とぼそっと呟いてから
「言ってるよ、君が婚約者だろ」
とおどけてみせたが、ユーリアには通じないようだ。
「間違えた、好きな人に言ってあげて」
ユーリアが勢いに任せて言うと、クロードも同じ勢いで言ってしまう。
「だから。だから君に言ってる」
(と、とんでもないことを言い出したわ)
「あ、あなた、バーバラが好きだったのではないの。だから婚約してたのではないの」
ユーリアは照れ隠しに先ほどと同じ問いを先ほどよりも声高に発した。
「しっ、馬車の外に漏れるよ」
しれっとクロードはユーリアを窘めてから、声を潜めた。
「どうしてぼくの婚約者を簡単に変更できたと思う?バーバラからユーリアにすぐ変更できたのはそれが正式な婚約じゃなかったからだよ」
クロードは王弟の息子、すなわちユーリアたちの従兄に当たる。
彼が言うには、自分たちの親たち、すなわち王と王弟らの間で自分たちの結婚について話がついていたという。
つまり、もともと王女のうちどちらかをクロードと結婚させるということが最優先事項で、どちらと結婚させるかについては白紙だったらしい。
それを姉のバーバラに決めたのはクロードに言わせれば「とりあえず」の処置だったのだ。
(もう、何。わけがわからない)
姉とクロードが仲睦まじいと思っていたユーリアは当然のことながら憤慨した。
「そうは言うけどバーバラのあなたを見つめる目は愛しい人へのまなざしだったわ」
それに、と付け加える。
(この男のほうも姉を愛していたはずよ)
「あなただっていつも穏やかに応じていたでしょう」
だがそう言って、はっと気がついた。
彼の「穏やかさ」は感情を表に出さないための仮面であって、本当に愛する人とともに笑い、時に怒り、というものではなかったのだ。
(なら、それならあのときの切なげな表情は?)
ユーリアはバーバラとクロードがお互いに好き合っていたということをなんとか証明したくて、クロードに問うた。
「でも、バーバラが傷だらけで戻ってきたとき、あなた、バーバラの隣でずっと項垂れて心配してたじゃない。私が部屋に入ったのも気がつかないほど。あれはバーバラを愛しているからこそではないの」
だがクロードはゆっくりと首を振る。
「幼馴染でも友人でも、大切に思う人が瀕死の状態でいれば君も同じように心配するだろ?たとえ恋人じゃなくても」
それは確かにクロードの言うとおりだ。
(でもバーバラは。バーバラはそれでいいのかしら)
「バーバラの気持ちはどうなるの。あなたのことを好きだったはずだわ」
その問いにはクロードのほうが意外そうな顔をした。
「ユーリア、君、バーバラと将来のことを話し合ったことはないの。彼女は内政や外交に興味を持っていて、ぼくとはその話をしていたんだよ。自分が誰と結婚するにしてもそうした方面で役立つかたちでって言ってたんだ。僕と結婚すれば内政を支えることになったんだろうけど」
バーバラは知識量も多いし、幼い頃から判断力や分析力に長けていた。
(じゃあ私はどうなんだろう)
ユーリアの顔が自然と俯く。
それをクロードがそっと両手を添えて持ち上げた。
「混乱させてごめん、ユーリア。ぼくは大好きな君の婚約者になって小躍りしたいくらいなんだ。本当に君が好きだよ。この先帝国でどんなことがあろうと、君を守るよ。護衛だからね。これまで言葉を足さずにいたぶんこれからいっぱい伝えるから、僕の気持ちを受け止めてくれるよね」
(えっと、なんでこうなったの。というか、クロードは私が好きってこと?このあと私はクライス殿下と結婚するのに?)
ユーリアは馬車に揺られながら、混乱する気持ちを整理していた。