第17話 薔薇の名前
「王女殿下のお部屋にご案内いたします。私はスイフトと申します」
クライスにベルで呼ばれた文官のいでたちの若い男はそう名乗り、ユーリアを先導した。
年齢はユーリアよりもかなり上、きっちりと撫でつけた髪と眼鏡から実直そうな印象を受ける。
二人は扉から出て、入った時とは反対の向きに廊下を歩き始めた。
(あら)
ほどなく、ユーリアは彼の歩みが歩き始めとは少し異なっていることに気がついた。
(これは、スイフトが歩幅を合わせてくれているのね)
先ほどまでのクライスらとのやりとりで少々心が擦り減っていたせいか、そんなちょっとした気遣いが素直にうれしい。
(将来の妃への応対とすれば当たり前のことかもしれないけど、皇太子たちがあんななだけに城の人から冷たい仕打ちをされる可能性もあったわ。でも、この人を見るにサリカウッズの人がみんなあの二人と同じというわけではないのね)
スイフトは自分からは何も言わなかったが、ユーリアらの問いかけには丁寧に答えてくれた。
「お部屋は遠いのかしら」
「いいえ、この先の外廊下の突き当たりを曲がればすぐでございます」
スイフトが「この先」と言った通り実際すぐに外廊下に出た。
外廊下から見渡せる景色にユーリアは目を瞠る。
「まあ、すてき」
目の前の光景に思わず声が出た。
城についたときに全景を見た時は荘厳だが重苦しく暗い場所のように見えたが、今ここで目にしている景色はあまりに開放的で。
そしてなんともいえず居心地のいい空気、心地よい風。
しかも今この場を真上から照らす陽の光はまさしく昼時の明るさで、ユーリアは今度は一瞬目を細めた。
少し身を乗り出せば、ちょっとした公園かと見紛うほどの広々とした庭の隅には本格的な温室が見え、ところどころにベンチが置かれている。
温室とは反対側の庭の隅を見ればやはりところどころにベンチが置かれ、四阿もあった。
四阿は遠くから見ても凝った彫刻がほどこされているのが窺え、優美さも感じられる。
(意外ね。クライス殿下からは風流とか趣とかを全く感じなかったし、そうしたことに関心をお持ちであるとは思えなかったけれど)
ユーリアは目を凝らす。
白くあるべきところは白く、全体を見てもくすんだところはなくて手入れが行き届いていることも見てとれた。
誰かが定期的に使用しているのだろうか。
(確か皇妃さまは五年ほど前に亡くなられたと聞くけれど)
「あそこは今もよく使われているの?」
スイフトはいったん立ち止まり「はい」と肯定した。
そして懐かしそうに頬を緩めて、再び歩き出す。
「皇妃さまがお元気だったころは、仲のよい方々とよくあそこでお茶会を開いていらっしゃいました。気さくな方で、私も侍女たちと一緒に何度かお招きいただきました」
スイフトはさしさわりのないエピソードを交えて語ったあと、一拍置いて付け加えた。
「それに、お亡くなりになったあとも殿下が時折使っていらっしゃるのです」
ユーリアは何の気なしに聞く。
「えっとそれは、お茶会に?」
「どなたかとご一緒の時もございますが、お一人でお過ごしになることも多いと思われます」
「…お一人で」
「はい、読書をなさったり、庭仕事の合間に休憩をおとりになったり」
「庭仕事」という言葉を意外に思い、ユーリアは「あの」と言いかけるが、スイフトはそう言ったあと小さく「あ」と声を漏らして庭の一角を掌で指し示した。
色とりどりの薔薇が満開に咲き乱れ風に花を揺らしている。
「あちらの薔薇も殿下が」
その中心に黄色の薔薇がとりわけたくさん植えられているのを認めて、ユーリアの胸は少しだけ締め付けられた。
(ああ、あれは私のいっとう好きな薔薇)
「あの薔薇は、『色褪せぬ思い出』」
知らずユーリアの足が止まり、薔薇の名前が口をついて出る。
品種を思い出すと、その特徴は一気に頭に下りてきた。
でも、自分の気持ちは理解できない。
先ほどの、締め付けられるような胸の感触も。
(なぜ、、長いこと、黄色い薔薇が好きなことなんか忘れていたのに。ましてそんな薔薇の名前なんか、、)
その呟きをスイフトが拾って、わけ知らず当惑するユーリアのほうを驚いたように振り返った。
「よくご存じでいらっしゃいますね」
ユーリアは戸惑いを悟られないように「ええ」とわずかに微笑んで「庭に下りても」と尋ねた。
「少しの時間だけでしたら」
スイフトにエスコートされて花の近くまで行く。
微かだが華やかな香りが鼻をくすぐり、なぜだかわからないが懐かしい気持ちがこみ上げてきた。
(私がこの花を一番好きなのはなんでだっけ)
理由は思い出せない。
肉厚の花弁、大輪で多花なのになぜか可憐。
そんな花そのものへ抱く印象はもちろんだが、自分と薔薇に纏わる何らかのエピソードがあるのかもしれない。
「色褪せぬ思い出」
今すぐは思い出せないけれど、文字通り「色褪せぬ思い出」が。
少しばかり優しい気持ちになって傍らに立つスイフトを振り返った。
「この品種は稀少で入手しづらく、根付くのも難しいと聞いているわ。けれど一度成功し手をかけてやれば、ずっと咲き続けるのだと。ここまで見事に咲かせるには本当に手間も暇もかかったことでしょうね」
生真面目な表情に戻って案内していたスイフトがまたふっと笑顔になった。
「実はクライス殿下のご命令で苗を入手し、御自らお世話をなさっています」
そして思い切ったように
「…王女殿下、ぜひ殿下に今仰ったことをそのままお伝えください」
と言う。
「そ、そうなの。わ、わかったわ」
(皇太子自ら庭仕事!あの、あの男が。うーん、この違和感はなんだろう)
ユーリアはまたしても意外な気持ちになるが、それはさっき直に彼と会った印象に由来するものだ。
彼女の兄のディレクからはクライスのことを「穏やかで思いやりのある男」と聞いていたのである。
(少し気持ちの整理をしたい)
「このまま少し庭を散策しても?」
遠慮がちにスイフトに聞いてみる。
が、尋ねたものの、すぐに思い直した。
(よく考えれば、いや考えなくても、今は客室に案内されている途中だったわ。スイフトだって、そこまで暇ではないだろうし)
案の定、スイフトは眉を八の字にして
「そうして差し上げたいのはやまやまなのですが、お部屋ではすでに昼食の用意がはじまっているのです」
と少し申し訳なさそうに微笑み、ユーリアの頼みをやんわりと断った。
それで彼女は今の自分の気持ちに執着するのをやめた。
それよりも「昼食の準備」と聞いて、クライスとの対面からさほど時間が経っていなかったと気がつく。
(そう言えばここに着いたのは昼前だったわね。すごく長い時間が経っていたように感じていたけれど)
再び歩を進めるスイフトに合わせてユーリアもついて歩く。
スイフトは萎んだ彼女の表情を気にしたのか、慰めるように言った。
「昼食の後でしたら、庭を散策なさって大丈夫ですよ。あ、これからはこちらにお住まいになるのですから、いつでもお好きな時にごらんになれますね」
(これからこちらに住む、、そっそうだった!)
先ほどまでクロードと一緒にいたものだから、なんとなくまた帰る気持ちになっていた。
(クロードにはずっとクライス殿下に嫁ぐって宣言してたのに!)
わたわたしているユーリアに気づかぬふうをしてスイフトが「着きました」と足を止める。
「こちらが王女殿下のお部屋です」
客室にしては大きな扉を開けた。
「えっ、これ、客室じゃないわよね」
一目見て、ユーリアが大きな声を上げる。
奥行きのある広い空間にはゆったりと大きな家具が置かれ、その家具の上には気の利いた調度品が配置されていた。
そのどれもがきらきらと輝いて見えた。
別に宝石などがちりばめられているわけではないのに。
スイフトが生真面目に答える。
「客室にご案内するはずがありません。ここは皇太子妃のお住まいになるお部屋です」
(そっそうだった!)
またしても頭から抜け落ちていたが、今ここにいるのはサリカウッズに嫁ぐノーランスの王女という立場だ、自分にしてもバーバラにしても。
でもこんなに混乱しているのは、、
(クロードのせいね)
生真面目なスイフトはもはやユーリアには頓着していない。
「まもなく昼食となります。もう一度呼びに伺います。それまでお寛ぎください」
と言って部屋を辞そうとする。
「ちょっと待って。一緒にいた護衛は」
慌てて聞くと
「客室にご案内いたしました。護衛はわが国でご用意いたします。やがて参りましょう」
と言い残し、そそくさと退出した。
取り付く島もない。