怪人オリバー・セルフリッジ調査ファイル
彼女、マーゼ・リーメは、表向きは王国経理部所属の調査員で、各部署が不正に経費申請していないか調査監視する役割を担っている事になっていた。が、それは表向きの仮の役職に過ぎず、本当は公安調査局に属する調査官で、怪しい人物の洗い出しや監視、調査などを任されていた。早い話がスパイ対策の為のスパイだ。ただ、スパイに限らず、広く国家に影響を及ぼすと考えられる人物や機関全般が彼女の守備範囲であるのだが。
彼女が現在、マークしているのは、オリバー・セルフリッジという名の国家資料室の管理権限を持つ公務員だった。管理権限を持っていると言っても、彼の地位は高くはない。むしろ低い。資料室の管理権限を持っているのは、彼の実務上の必要性からであって、彼に人事権の類は一切ない。つまりは下っ端だ。
セルフリッジに警戒するべき点があるとするのなら、“資料室の管理”という仕事の為、どの部署のどの人物がどのような資料を要望しているのかを知る事ができ、また、何処にどんな資料が置かれているのかを把握しているという点くらいで、他に特記すべき事項はない。仕事ぶりはいたって真面目で優秀、彼の上司は資料室の管理をほぼ彼に丸投げしてしまっているらしいが、それくらいなら“あるあるネタ”で、決して珍しい話ではなかった。怪しむべき点ではない。つまり彼は一介のただの公務員に過ぎない。
だからこそ、マーゼ・リーメはかつては彼の存在すら知らなかったのだ。
――彼女はそもそも、闇の森の魔女、アンナ・アンリの監視と調査を行っていた。そこからオリバー・セルフリッジの存在を知ったのである。
闇の森の魔女、アンナ・アンリ。
現在、王国は“国家が脅威とするべき個人”の認定制度を設けている。通称“化け物ども”と呼ばれているのだが、その認定を受けると王国はその個人に対し特別な対応を執る事が可能になる。代表例を挙げると“火山の主、魔王ロメオ・リメロ”や“不可視のネーズ”など。そして、闇の森の魔女もそのうちの一人だった。
化け物どもは、いずれもその名に違わぬ凄まじい力や能力を持っているのだが、そればかりでなく、王国にとって大きな脅威にもなっている。
火山の主、魔王ロメオ・リメロは、定期的に王国の近くで、天空に向かって凄まじい規模の威嚇砲撃を行うという挑発行動を繰り返しているし(本人はエネルギーの放出の為だと王国に通知して来ているのだが信じる者はいない)、不可視のネーズは文字通り知覚が極めて困難な正体不明の特殊能力者で、仮に彼が誰かを暗殺したいと思ったのなら防ぐ手段がない。彼らに比べれば、アンナ・アンリは控えめな印象で真っ当に交渉もできるし、実際に王国と取引を行ってさえいるのだが、だからこその不気味さがあった。彼女は魔力量が桁外れに高いのだが、真に恐れるべきなのはその魔法技術力の高さで、通常の人間社会の魔法とは別進化を遂げた独自の高度な魔法技術を多数持っている。
今まで、彼女は一般社会にあまり積極的に関わろうとして来なかったのだが、何故かつい最近になって急速に接近して来た。しかもそれは彼女が“アンチ魔女団体”から騙し討ちを受けた後の事だった。彼女を『病気を治療して欲しい』と頼んで誘い出し、多人数を治療後、彼女の魔力が尽きかけたところを襲ったのだ。なんとか彼女はその騙し討ちを逃げ延びたのだが、相当に酷い目に遭ったらしい。
――だから、普通に考えるのならば、一般社会に接近して来た目的はアンチ魔女団体への復讐だろうと思われた。がしかし、彼女はそこから特にアンチ魔女団体に関わろうとはしなかったのだった。何かしらの処分や法的措置を求めもしない。
不可解だ。
だからこそ、マーゼ・リーメに監視と調査命令が下ったのだ。闇の森の魔女が接近して来た目的を調査し、危険な兆候が表れたなら報告せよ、と。
調査を開始すると、彼女は一般に言われている事以外にも、闇の森の魔女には不可解な点がある事に気が付いた。
……実は闇の森の魔女、アンナ・アンリは、二代目である。
闇の森の魔女は、その名の通り、闇の森を根城にしている。だが、そこを根城にし、魔法の研究を始めたアンナではなく、ログナという魔女だった。
そこでログナは、無数の魔法疑似生命体を生み出し、そしてそれらを互いに競い合わせ、進化を繰り返させることで、新たな魔法を開発するという手法を確立したのだ。そしてそれ以降は生涯をその研究に費やし、夥しい数の一般社会の人間達にとっては未知の魔法を生み出した。だが、そのログナも年老いた死期を悟ったのか、孤児の中からアンナ・アンリを見出し、彼女を二代目として育て上げたのである。
ログナが後継者に興味を持っているというのは世間的には意外に受け止められ、また関心を惹いてもいたのだが、新たな商取引の為に現れたアンナ・アンリは醜い老婆の姿をしていたのだった。
“後継者なのに、こんなに年老いているのか?”
と、多くの者達は疑問に思っていた。“孤児を育てた”という情報と一致しないし、それにあまり長く生きられないのであれば後継者としては意味がないだろう。が、実はその姿は魔法で化けた仮のもので、本当はアンナ・アンリは20歳のうら若き女性であったのだ。そして、その姿を彼女は最近になってようやく見せるようになった。
彼女が醜い老婆の姿をしていたのは、身を護る為だと考えられている。実際、彼女がアンチ魔女団体の騙し討ちを逃げ延びられたのはそのお陰だったとも言わている。だから彼女が本当の姿を見せる理由は不明だった。わざわざリスクを取ってまで、仮の姿を捨てた理由は一体何か。
「彼女は男に興味を持って、世間に出て来たのじゃないか?」
一部の男性には、冗談のようにそう言う者もいた。
世捨て人のような研究者、ログナに育てられたのであれば、ほとんど人と接した経験はないはずだ。年相応に異性に興味を覚えたのが一般社会に接近して来た理由ではないかという訳だ。そうであるのならば、彼女が20歳の本当の姿を見せた理由にも納得ができる。
「僕の見立てでは、彼女は男に免疫がないぞ。しかも、きっと尽くすタイプだ」
女性関係で派手な噂のある、女癖の悪いある貴族の男は彼女をそう分析していた。
意外にも闇の森の魔女、アンナ・アンリは可愛らしい外見をしていた。歳よりはやや幼く見えるボブカットで、背は少し小さめ、胸はそれなりに大きかった。多くの男性の目に彼女は魅力的に映るだろう。が、本当の彼女の魅力はその可愛らしい外見にあるのではない。
もし、仮に彼女を恋人にする事ができたなら、国家が脅威と評価する程のレベルの高い魔法使いが自分の言いなりになる可能性があるのだ。女癖の悪い男の言葉を信じ、彼女をものしようと狙う男性が多く現れるのも道理だった。
がしかし、どんな男が言い寄って来ても、彼女はまったくなびかなかったのだった。やはり、彼女が一般社会にコンタクトを取って来たのは“異性に興味を覚えた”といった俗的な理由ではないのだろう。多くの者達はそう考えたし、マーゼ・リーメ自身もそのように考えていた。否、初めから馬鹿にしていたのであるが。
その日、闇の森の魔女、アンナ・アンリは社交パーティーに招かれていた。闇の森の魔女という名に相応しくない白のやや露出の多いドレスを身に纏い、少しだけファッションに背伸びをしている様が却って可愛らしく感じられた。
異性を意識しているように見える。
しかし、男達が彼女を誘っても彼女は冷たくあしらうのだった。決して相手にはしない。中には金持ちや顔の良い、いかにもモテそうな男達もいたが、全く興味がないようだ。
そこは地方都市にあるホテルの一つだった。パーティー会場は広々としていて、政財界の人間達が楽しそうに語らっている。公務員も集められているが、多くは雑務処理員だ。恐らくは人件費を浮かせる為に主催者が公務員達を利用したのだろう。けち臭い話だとマーゼ・リーメは思っていたが、お陰で彼女は楽に会場に入り込む事ができていた。「不正な経理の調査だ」と言ったら簡単に許可が下りたのだ。彼女の表向きの肩書きは、不正経理の調査員である。
有力者達が闇の森の魔女を社交パーティーに招く理由は色々とある。彼女と取引をすれば有用な魔法技術を提供してくれるかもしれないし、彼女が味方に付いているとアピールできれば各方面への圧力になるし、彼女にしか作れない魔法アイテムや素材も手に入るかもしれない。見逃せない大きなメリットだ。だから彼女はこのパーティーで厚遇を受けていた。
もちろん、闇の森の魔女にとっては有力者達との繋がりを作るチャンスの場であるはずなのだが、社交パーティーに参加する彼女にはあまり積極性があるようには思えなかった。彼女は既に何名かの有力者達と取引をしている。そのお陰で、魔女に否定的な連中が彼女には手を出し難くなっているのだが、彼女はそれで充分だと考え、新たな取引先を探すつもりはないのかもしれない。
――しかし、だとすれば、どうしてアンナ・アンリはこの社交パーティーに顔を出したのだろう?
マーゼ・リーメは頭を悩ませていた。
パーティ会場で、闇の森の魔女はつまらなそうにしていた。明らかに不機嫌だ。時々、好みの料理を見つけた時だけちょっと嬉しそうにしていたが、その他は特に何にも関心を示さない。
マーゼは壁にもたれるとグラスを傾けてワインを一口飲み、グラス越しに闇の森の魔女を見やった。
表情、仕草、視線の先。
怪しまれないように誰かを観察する技術に彼女は自信があった。そしてわずかに手に入れたそういった情報から彼女は相手の様々な心理を察する能力がある。しかも、彼女のそれは魔力に頼ってはいなかった。だからこそ、闇の森の魔女のような魔法技術に長けたターゲットを観察するのに彼女は適しているのだ。公安調査局からそう評価されていたし、本人もそう思っていた。
「監視されているのがバレたらまずいぞ。なにしろ、相手はあの闇の森の魔女だ。何をされるか分からない。気を付けろ」
この任に就くとき、彼女は同僚の一人からそう忠告を受けた。しかしその忠告を彼女は意に介さなかった。
「私の能力は知っているでしょう」
不敵に笑う。
同僚は肩を竦めた。頭を振って、こう続ける。
「驕るな。“観測者効果”を完全に排除する事なんかできない」
“観測者効果”という現象がある。
例えば、野生の鼠を観察する場合を考えてみよう。その場合、鼠は観察者である人間の存在を警戒するだろう。“観られている”と緊張するかもしれない。つまり、“観測”という行為が対象者へ影響を与えてしまうのだ。それにより、有りのままの“野生の鼠”の姿は捉えられなくなってしまう。当然ながら、鼠を理解する上で問題になる。
だから、有りのままのターゲットの姿を捉えたいと思ったのなら、この観測者効果をできる限り少なくしなければならない。ただし、どんなに工夫をしてもそれは決してゼロにはならない。気配は完全には消せないし、思いも寄らない死角から自分の存在に気付かれてしまう可能性だってある。それを同僚は心配していたのだ。
ワインの入ったグラスから口を離し、俯いた顔から眼だけを動かし、マーゼは闇の森の魔女を観察する。観察されている事に気付いている素振りはない。軽く彼女は微笑んだ。
“杞憂だったみたいね、やっぱり。バレてない”
闇の森の魔女、アンナ・アンリは恐ろしい魔法使いだ。ただし、それだけに魔法に頼り過ぎてしまっているきらいがある。だからこそマーゼのように魔力に頼らない技法には弱いのだろう。魔力を使わない高度な技術があるとは思っていない。
このまま観察を続ければ、いずれきっと何か分かる。
彼女はそう確信していた。そして、飲み終えたグラスをテーブルに置きに行ったタイミングだった。マーゼは闇の森の魔女の強い視線に気が付いたのだ。憎しみ、怒りを込めた表情。表情の変化は一瞬だけだったが彼女はそれを見逃さなかった。
闇の森の魔女の、視線の先を見やる。
すると、雑役に呼ばれた公務員の一人が空の皿を片付けていた。
背の高い、痩せた体型の男で、いかにも優しそうな顔をしている。“冴えない男”というのがマーゼの第一印象だった。
“こんな男を闇の森の魔女が気にするはずがない。視線の先に偶然いただけで、見ていたのは他の誰かだろう”
だからそう考えたのだが、それからも時々、闇の森の魔女がその公務員を気にしているのに彼女は気が付いたのだった。
“……なんだろう? やっぱり偶然じゃないのかしら”
そうしてしばらく観察していると、その公務員は外向きに凸型に伸びた、半小部屋のようになっているパーティー会場の一角に足を進めた。その場所には誰もおらず、テーブルの上の料理はほとんど食べ尽くされていたから、恐らくは食器を片付ける目的で入ったのだろう。酒の空き瓶もいくつかある。
彼がそこに入った瞬間、それを見た闇の森の魔女の表情が不意に変わった。そして、突然歩き出し、チャンスだとでも言うようにその凸型の一角に入っていく。
それを見てマーゼは確信した。闇の森の魔女はあの公務員を知っている。しかも、強い憎しみを抱いているようだ。
怪しまれないように彼女は中の様子がよく見える位置にまで移動をした。一体、どうしてあの闇の森の魔女が、あんな人畜無害そうな公務員を意識しているのか。或いは、今日、闇の森の魔女がこの社交パーティーに参加をしたのは、あの男がいるからなのかもしれない。いや、それどころか、最近になって闇の森の魔女が一般社会に近付いてきたのは、あの男が原因である可能性すらもある。
彼女は様々に思考を巡らせ、軽く興奮していた。
……果たして、闇の森の魔女は、あの男にどのような態度で接するのか?
彼女はその様を遠目から緊張した面持ちで観察した。
――が、そこで異変が起こってしまったのだった。
“なんだ? 認識ができない”
小部屋のような外に向かって飛び出した凸型の一角。大きなガラス戸からは、綺麗な星空が見えている。その下には二人の人影が。そこまでは分かる。だが、それが誰なのか、何をしているのかが分からない。見えてはいる。見えてはいるのに何故か認識できないのだ。
マーゼの頭は混乱したが、やがてそれが認識阻害魔法の類である事に気が付いた。恐らく闇の森の魔女が、結界か何かを張ったのだ。その所為で、闇の森の魔女とあの公務員を認識できなくなってしまっている。
彼女はなんとか意識を集中しようとしたが、どうしても二人を認識できなかった。片方が近寄ったのが分かる。抱きしめた? いや、分からない。
普段の彼女なら、さりげない仕草で観察している事を相手に悟られないように工夫をするのだが、その時はそんな余裕はなかった。懸命に凝視してしまう。
どれくらいの時が流れたのか、やがて糸が切れるように再び闇の森の魔女と、公務員の男の痩躯が視認できるようになった。そこでマーゼは我に返った。あまりの想定外の事態に混乱してしまっていたが、彼女らを監視している事を全く隠せてはいないと自覚する。慌てて取り繕ったがもう手遅れかもしれなかった。
闇の森の魔女と公務員は凸型になった一角から足を踏み出しており、何事もなかったような顔をしていたがどこか誤魔化しているように見えなくもなかった。公務員は片方の手に汚れた食器を重ねて持ち、もう片方の手には空の酒瓶を持っている。そのまま洗い場の方を目指して歩き始めた。どうやら単に使用済みの食器を回収しただけという態に見せようとしているらしい。やや逡巡した様子ではあったが、闇の森の魔女は反対方向に歩いていく。
“白々しい”と彼女は思う。
……一体、何があったのかしら?
マーゼは落ち着いて考える。
認識阻害の結界まで張ったのだ。何もなかったとは思えない。とにかく、二人を注意深く観察して、何があったかを推察するしかない。
やがて、痩せた公務員が汚れた食器を洗い場に置いて戻って来た。彼女は視界をできる限り広くし、片隅で闇の森の魔女を捉え、見るともなしに公務員を観る。
そこで彼女は、闇の森の魔女の熱視線に気が付いた。公務員をうっとりとした表情で見つめていたのだ。隠す気がないのか、それとも隠すのも忘れてしまっているのかは分からないが、その視線には間違いなく強い好意が込められてあった。
――つまり、さっきとは真逆。
“……なんだ? たったあれだけの時間で何があった? 何があればこうなる?”
それはマーゼにとってあまりに信じられない現象だった。説得でどうこうできるような事ではない。彼女に考えられる結論はただ一つだけだった。
“――洗脳?”
馬鹿なと頭を振る。
相手はあの闇の森の魔女である。魔法や薬の類が効くとは思えない。
“あの公務員、一体、何をしたんだ?”
公務員は何食わぬ顔で食器を運んでいる。その表情がまるで自分を挑発しているように思えて彼女は苛立った。が、何かを見つけてやろうとムキになり、しばらく公務員を観察して気が付く。
――闇の森の魔女が自分を見ている。
背筋にゾクリとした悪寒を覚える。視界の隅で闇の森の魔女をよく観察する。まるで地獄の闇の底に突き落とすかのような冷たい視線が自分を貫いていた。
「ヒッ!」
思わず小さな悲鳴を漏らしてしまう。彼女は命の危険を覚えた。それから慌てて場所を移動した。公務員を観察はできないが、闇の森の魔女に強く意識されてしまっている時点で彼女は任務に失敗している。もう監視調査の役割は果たせないだろう。これ以上続けるのは危険すぎる。
“しかし…… どうしてバレたのかしら?”
その場から逃げながら彼女は考える。どうしても納得ができなかったのだ。
闇の森の魔女が認識阻害の結界を張っている最中、確かに彼女は監視している事を隠すのを忘れていたが、それで仮に自分の存在がバレたとしても、あそこまでの敵意を向けられるはずはない。闇の森の魔女の性格を考えるのなら、気が付いていない振りをして何かに利用しようとするだろう。少なくとも、彼女の考える闇の森の魔女の行動パターンとは一致しない。
場所を移動し、闇の森の魔女から遠く離れた後で彼女は考える。
……まさか、あの公務員かしら?
あの公務員が自分の存在を教え、そして敵意を向けるように仕向けたのだとすればあの闇の森の魔女の視線にも納得ができる。
それからマーゼは落ち着くと、社交パーティーの運営スタッフに声をかけた。経理部所属の調査員という表向きの肩書きは教えてある。無駄遣いが行わていないか、不正経理がないかを調査する名目で、彼女はこの会場に入り込んだのだ。
「ちょっと今回雑務をする為に集めた公務員達の名簿を見せて欲しいのだけど」
そう掛け合うと、彼女の肩書きを知っている運営スタッフはあっさり名簿を見せてくれた。そもそも秘匿性の高い資料でないので当然と言えば当然だが。
「痩躯で高身長、いかにも優しそうな顔をした男がいるでしょう? 給仕の役割している」
目で例の公務員を示しながら「彼はどれ?」と尋ねる。
すると「ああ、」と若い女性の運営スタッフは頷いて「セルフリッジさんですね」と言って名簿を指し示してくれた。
“オリバー・セルフリッジ”
そこにはそのような名前が記されてあった。国家資料室所属。そこでマーゼ・リーメは初めて彼の名前と存在を知った。努めて表情を変えないように尋ねる。
「国家資料室なんて、そんな所からもパーティースタッフを引っ張って来たの?」
女性スタッフは困り顔で答える。
「はあ。あまりやりたがる人がいなくて、ですね、それであまり頼みごとを断らない人には大体声をかけたのです。何処の部署とか関係なく」
“あまり頼みごとを断らない人”
つまりはオリバー・セルフリッジは、見た目通りに人が好いと思われているという事だろう。もちろん、彼女はその話をそのまま信じたりはしなかった。絶対にこのオリバー・セルフリッジという男には何か裏がある。そうでなければ、あの闇の森の魔女が容易に洗脳などされるものか。
「ありがとう。もう分かったわ」
そう言うと彼女は名簿を返す。このパーティー会場ではもうあまり動きたくない。自分を敵視している闇の森の魔女が何をしてくるか分からないからだ。
それから長居するのは危険と判断した彼女は早々にパーティー会場を出た。
パーティー会場を出た後、マーゼは闇の森の魔女の監視をオーリアという別の調査官に頼むと、彼女自身はオリバー・セルフリッジの名簿に記されてあった彼の家の監視に向かった。仮にこの男に何かあるのだとすれば、闇の森の魔女を洗脳しておいて何もしないとは思えない。接触の機会はそれほど多くはないはずだ。
真夜中、彼が仕事を終えて帰宅してきた。一人だ。
しばらくは何事もなかったが、不意に違和感を覚えた。気配が二つに増えた気がしたのだ。危険だとは思ったが、近くに寄って気配を探るとやはり二人いるように思える。
プロの調査官である彼女の監視の目をかいくぐって、忍び込める者など限られている。
……闇の森の魔女か?
何をしているのかを知る為に意識を集中したのだが、何故かその後、二人の気配を察知できなくなってしまった。ただし、彼女はその感覚には覚えがあった。ちょっと前に味わったばかりだ。
――認識阻害魔法。
1時間程で元に戻ったが、その時はもう気配は一人だけになっていた。闇の森の魔女は帰ったのだろう。
次の日、彼女は闇の森の魔女の監視を引き継いだオーリアに、闇の森の魔女の様子を尋ねたのだが、パーティーの後、大人しく宿泊先のホテルに戻ったという事だった。もちろん、闇の森の魔女にとってみれば監視員に悟られず、ホテルをこっそり抜け出すなど造作もないだろう。
二日後、マーゼ・リーメは自分の失態を公安調査局の長官に報告した。
「すいません。闇の森の魔女に私の存在を知られてしまいました」
報告書に目を通しながら、初老の長官は眉をひそめる。深い皴、白い顎髭を豊富に蓄えた油断ならない人物である。
「オリバー・セルフリッジ? 国家資料室所属の公務員か」
「はい。その男にやられました」
俄かには信じ難いといった表情で、長官は彼女に語りかける。
「闇の森の魔女は、高名な魔法学者でも舌を巻く程の魔法技術を持っているのだぞ? このような下っ端の公務員風情に洗脳が可能だとは思えないのだがな」
それを素直に彼女は認める。
「はい。私も信じられません」
それから「――ただ、」と言ってから続ける。
「国家資料室の所属という点が気になります。あそこには多くの情報が集まって来ますから、或いはオリバー・セルフリッジは情報目当てに忍び込んだ何らかの組織の一員という線も考えられるのではないか、と」
「韜晦している、と」
「はい」
長官はため息を漏らす。マーゼは口を開いた。
「できるのなら、私にこの男の調査を任せてはもらえないでしょうか?」
それを聞くとジロリと長官は彼女を睨んだ。
「この報告内容を信じるのなら、お前はオリバー・セルフリッジに既に知られているのだろう? 危険ではないか?」
「いえ、むしろ、だからこそ適任だと私は考えています。今まで誰の目にも触れずにいた男です。生半可な事では尻尾を出さないでしょう。だから多少のリスクは覚悟で、餌を用意してやる必要があるのではないかと思うのです」
「つまり、お前自身が囮になると言いたいのか?」
「はい。或いは私の身に何かがあるかもしれませんが、その時はオリバー・セルフリッジは黒だと考えてください」
――マーゼ・リーメは、オリバー・セルフリッジに“してやられた”と思っていた。プライドを傷つけられた回復させる為、彼女は彼に拘っているのである。
長官はしばらくじっと彼女を見据えたが、やがて息を吐き出すように「分かった。そこまでの覚悟があるのなら任せよう」とそう返す。彼女は「ありがとうございます」と礼を述べたが、そこに長官は忠告を加えて来た。
「ただし、決して無理はするな。何か危険を感じたら直ぐに報告するんだ。お前は優秀な調査官だからな。失いたくはないのだよ。手に負えない相手かもしれない」
「はい。分かりました」と、彼女は返す。絶対にオリバー・セルフリッジの正体を暴いてやると心の中で呟きながら。
マーゼ・リーメがまず調査するべきだと考えたのは、オリバー・セルフリッジが所属している国家資料室での彼の挙動だった。自分の立場を利用して情報を手に入れ、独自に活用しているのではないかと考えたのだ。
彼の主な仕事は依頼のあった資料に閲覧許可を出す事と、その監視、また資料の管理と整理で、自ら資料を作成する事もあるらしい。
彼女は国家資料室に掛け合って彼の勤務報告書を閲覧させてもらう事にした。通常の資料を閲覧するのと同等の扱いで、閲覧用のスペースで目を通す。セルフリッジに要注意人物と頻繁に会っているような形跡はなかった。ただ、彼自身が資料の閲覧許可を出す以外にも、資料の格納場所をほとんど把握している彼は、他の職員からも頼られる場合が多いらしく、頻繁に仕事を手伝っていた。
それはつまりは、誰がどんな情報を欲しがっているのか、彼が非常に幅広く把握しているという事でもあった。
そして、もう一つ気になる点が。
「……オリバー・セルフリッジは、まとまった休みを取る事が度々あるようですね」
勤務報告書で二三日、場合によっては十日程も休みを取っている記録を見つけたので、彼女は彼女の閲覧の監視に付いていたセルフリッジの上司に当たる男にそう問いかけた。すると彼は面長の顔を億劫そうに動かしながら、間延びした妙なトーンの口調で答えて来た。
「はいー。彼は資料の格納場所をほとんど把握していますから休まれると痛いのですが、休みよるのですよ。お陰で作業効率が落ちてしまう。困った話です」
それを聞いて“自分か他の誰かが彼と同等のスキルを身に付ければ良いという発想はないのかしら”と彼女は思ったが口には出さなかった。
「彼がまとまった期間、休暇を取る理由は何なのですか?」
「旅行を趣味にしているのだとか」
口には出さなかったが、“生意気だ”とでも言いたげな口調だった。彼は独身で一人暮らしをしている。だから時間に自由がきくのだろう。
「旅行が趣味……」
それを聞いて彼女は考える。
「この資料室の閲覧履歴も観させてもらって良いですか?」
特に嫌がりもせず、彼は閲覧履歴も貸してくれた。彼女は再び閲覧スペースに移動しセルフリッジの勤務履歴とそれを突き合わせていく。
“一番、怪しいのは闇の森の魔女が騙し討ちに遭った時期とその直前よね……”
観ると、案の定、セルフリッジはその期間にまとまった休みを取っていた。そしてその少し前に闇の森の魔女に関する資料の閲覧履歴が残っていた。
闇の森の魔女に関する資料ならば、マーゼ・リーメは彼女の監視任務に当たる前に読み込んでいる。恐らく、それは彼女が読んだ資料と同じものだろう。
資料では、二代目闇の森の魔女であるアンナ・アンリは、一代目に比べれば随分とコミュニケーションが執り易いことになっていた。もっとも、頭が良く警戒心も強いから与しやすい相手という訳ではない。しかし、子供や病人…… 弱い立場にいる人間達には甘いという側面も持っている。闇の森の魔女の近くに住む子供が熱病に罹ったおり、偶然それを知ったアンナ・アンリはその子供を助けているのだ。アンチ魔女団体がその点を利用し、「治して欲しい病人がいる」と言って彼女を誘い出し、騙し討ちを仕掛けただろうことは想像に難しくない。
履歴に残っている闇の森の魔女に関する資料を閲覧した人物を見てみる。セルシ・ボイル。保安局所属。知らない名だった。アンチ魔女団体は国の内部にも賛同者や協力者が多数いるから、充分に団員の一人である可能性はあるのだが、彼女はその人物がアンチ魔女団体に所属しているかどうかを知らなかった。実力者や大物ならば彼女も把握しているのだが、アンチ魔女団体は今のところ公安調査局の監視対象には入っていないので詳しくないのだ。国にとっての脅威にならないと判断されているからだが。
「……これはアンチ魔女団体についても調べてみる価値がありそうね。一度、直接話を聞いてみるべきかも」
と、呟く。
だが、その前に、闇の森の魔女、アンナ・アンリの騙し討ち事件について改めて調べ直す必要があると彼女は考えた。闇の森の魔女の監視任務の為に、当然この事件も彼女は調べてはいたが、第三者の関与を想定してはいなかったし現地にまでは行っていない。何か見落としている点があるかもしれない。
認識阻害魔法の前、アンナ・アンリは、オリバー・セルフリッジに対して激しい憎しみを抱いているように見えた。騙し討ちに遭った際、彼女は彼から何かをされただろう可能性がかなり高い。彼はその期間、休暇を貰っているのだ。そしてそれはその後のアンナ・アンリの洗脳にも繋がっているのだろう。
闇の森の魔女、アンナ・アンリが騙し討ちに遭ったのは、闇の森からやや離れた位置にある多少は栄えたニゲルという街だった。都市化率は中の上といった程度。
近代に入るまで、都市化は経済発展にとってむしろ弊害になっていたと言われている。増えた人口を支えられるだけの食糧生産能力がなければ、人口の増加は社会の貧困化と荒廃をもらすし、一人一人に十分な教育を受けさせる事もできなかったからだ。人的資本が不十分になってしまうのである。
それが変わったのは、糞尿による肥料の発見と印刷技術や紙と鉛筆の普及だった。それにより食糧生産能力が劇的に向上し、人々は学校などの教育機関で十分に技能を伸ばす事が可能になった。そうして、人口の集中は経済発展を阻害するどころか、むしろ大きなプラス要因として作用するようになったのである。
……たがしかし、もちろんそれには負の側面もあった。
――白を基調とした美しい街並み、下水道施設も整っていて衛生面においても非常に優れている。訪れてしばらく街を観察したマーゼ・リーメは、ニゲルという街に好印象を持った。ただし、“表”を観ただけで人間の住む街全体を評価してしまうほど、彼女は浅はかではなかった。
裏通り。
繁華街から少し離れた場所を進むと、ニゲルの雰囲気は一気に変わった。街の景色から清潔な白の印象は消え、黄土色の壁面が続く。汚泥が道の真ん中に溜まり悪臭を放っていた。痩せこけた孤児達、ホームレスが小銭をせびり、中年の娼婦が客引きをやっている。彼女は少しその娼婦に気を取られた。恐らくは個人でやっているのだろう。以前は娼館で働いていたのかもしれないが、客を取れなくなって追い出されたか、或いは性病に罹ってしまったのかもしれない。
現役を引退した娼婦でも、立ち回りが上手ければ娼館でマネジメントや教育などの仕事を割り当てられて雇われ続ける場合もあるが、コミュニケーションが不得手で、何の技能もなければ大抵は追い出されてしまうのだ。
「聞いていた通りなら、ここね」
しばらく進むと、マーゼ・リーメは薄いピンクの建物が目立つ通りの前で立ち止まった。念の為、フードを深く被って直ぐには顔が分からないようにする。
裏通りの中でも、この街で取り分け異彩を放っている通称ベルベットロードと呼ばれる一角がある。ここはいわゆる性的な娯楽を提供する店が多く集まっていて、当然ながら娼館も豊富にある。しかも、多くが違法営業だ。
このベルベットロードを主に取り仕切っているのは、犯罪組織のナルガス一家とスターナイツ一味で、互いに勢力争いをしている。実はこの二つの勢力がアンチ魔女団体に協力をしていた可能性があるのだ。闇の森の魔女は、請われてこの街の病人達の治療に訪れ、騙し討ちに遭っているのだが、その際に彼女が治療した病人の実に七割以上がベルベットロードの娼婦達だったのである。
しばらくベルベットロードを歩くと、彼女はゴロツキの一人から話しかけられた。
「よー、お嬢さん。金に困っているのかい? もし良かったら、仕事を斡旋しようか?」
事前に入手していた情報が正しいのなら、その辺りはナルガス一家の縄張りのはずだった。
「私が金に困っているように見える?」
フードの奥から瞳を覗かせて彼女がそう尋ねるとゴロツキは肩を竦めた。
「見えないが、人は見た目じゃないからな。どんな特殊な事情があるか分かったもんじゃない」
舐めまわすような視線でゴロツキが自分を観察しているのが分かった。性的な目で見られているのだろうが、通常のケースとは少し異なっている。恐らくもし娼婦として雇うのならどれくらいの売り物になるのかを値踏みしているのだろう。
「そうね。確かに人は見た目じゃない」
そう言って深めに被っていたフードを少し上げるとマーゼは続けた。
「知ってる? 女が女を抱く場合だってあるのよ? お金ならあるわ」
それを聞くとゴロツキは「へー」と驚きを隠しもせずに声を上げた。その反応に彼女は目を細めた。
「女の客は駄目?」
紙幣を何枚か見せる。
「いやいや、話には聞いていたけどよ、俺は初めてだったから驚いただけだよ。いいぜ。女を紹介する。どんな女が好みだい?」
ゴロツキは表情をコロコロと変える。純粋に楽しそうにしていた。どうやら単純なタイプで信じてくれたようだった。彼女の見た目が中性的なタイプである点も説得力になったのかもしれない。
「相手の女の子の一番の条件は口が堅いこと。後は従順で妹タイプ。それと、病気を克服した人が良い」
「病気? 性病ってことだよな? なんで?」
「一度病気に罹った人は、免疫ができて二度と病気にならないって聞いたわ。だから」
「ああ、伝染されたら堪らないってことね。ま、そーだろーな、色々な意味で」
ゴロツキは数度頷いた。男の場合でも性病になったと分かれば何処で感染したのかが問題になるが、女ならもっと大事になる。追及されれば、下手すれば社会的に抹殺される可能性だってあるだろう。恐らく、そう考えて彼は納得したのだ。
「フツー、危なそうな客に良い子は当てないんだけどさ。あんたなら問題ないだろう。良いぜ、妹みたいな可愛い娘を連れて来てやるよ」
彼は嫌らしい笑顔を浮かべた。マーゼ・リーメの背筋に悪寒が走る。仕事だからやむを得ないが、本来ならばこのような男達と関わり合いにはなりたくはない。彼女は心の中で嘆息し“我慢、我慢”と自分に言い聞かせた。
それから彼女は案内されるままに近くの娼館へと入っていった。まだ昼だから客が少ないのだろう。直ぐに部屋に通された。上等とは言えないが、悪くはない部屋だった。しばらく待つとゴロツキが言ったとおりに妹のような可愛らしい外見の女性が現れる。髪を二つに結んで幼さを演出していた。
「こんにちはー! あたし、リリンって言います。今日は可愛がってくださいね」
ただでさえ可愛らしい外見なのに、わざとらしいほどに幼く振舞っている。ただ、注意深く観察すると化粧などで若作りをしているのが分かった。実際の年齢は見た目や振る舞いより五歳は上だろう。
「よろしくね」
どう応えれば良いのか分からなかったので、マーゼはとりあえずそう挨拶をした。ニコニコと笑いながらリリンは訊いて来る。
「それで、どんなプレイがお好みですか? それともお姉さんが色々と教えてくれますかね? 男の人の相手は慣れているけど、実は女の人の経験はそんなになくって」
照れた演技で可愛さをアピールしながら、媚びるような視線を送って来る。マーゼは軽く溜息をつく。
“これは、そういう客じゃないって早めに分からせてあげた方が良いかもね”
そう判断すると、紙幣を何枚かベッドの上に置いた。
リリンは「お金?」と首を傾げる。
「チップよ」
「チップにしては額が大きい気がしますけど。本番をお願いってことですか? お姉さんじゃ無理だと思いますけど」
紙幣を置いたベッドの上に腰を下ろすとマーゼは首を軽く左右に振った。
「違うわ。ちょっと話を聞きたいだけ」
「話?」
それを聞いて、リリンの表情が俄かに険しくなった。
「あなた、何者?」
鋭い口調に変わり、睨みつけるような視線を投げて寄越す。
「あら? そんな表情もできるのね。そっちの方が魅力的よ。私の相手はそんな感じでやって欲しいわ」
「茶化さないで。何者かって聞いているのよ」
「そう警戒しないで、私は王国経理部所属の調査員よ。警察じゃないから、違法行為を取り締まろうっていうんじゃないわ」
「経理部の調査員? 初めて聞く肩書きなんだけど」
「でしょうね。普通はこんな所にまで調査に来たりしないわ。大きな不正経理疑惑があってね、それで特別に調査しに来たの。闇の森の魔女の騙し討ち関連よ。あの事件にはここの娼婦達が関わっているでしょう?」
少し考えるとリリンは返す。
「不正経理の調査って、要はいかさまで経費を落としている連中の調査よね? つまり、この辺りの娼館を経費で落として利用している国の連中がいるかもって話?」
「そんなところ。その連中が闇の森の魔女の騙し討ちに関与している疑いがあってね。何か知らないかと思って」
もちろん、それは口から出まかせだった。何か聞き出せれば儲けもの、聞き出せなくてもリリンは本当のターゲットではないから別に良いと彼女は思っていたのだ。
それを聞くとまるで汚い物でも見るかのような目つきでリリンは彼女を見つめた。
「あたし達なら、簡単に客を金で売るって思っているの? 馬鹿にしないでよ」
「あら? 何か知っているの?」
「知らないわよ。知らないけどさ、あたしらだって信用商売なのよ。客を裏切ったりはしないわ」
「客って言っても不正をしているような連中よ? 自分達のお金じゃないの」
「知らないわよ。お金を払ってくれたら、それはもうあたし達の客。悪い事で稼いだお金だとしても関係ない。あたし達は客を裏切らない」
リリンの様子にマーゼはやや困った。“従順なタイプをお願いしたはずなのになぁ……”と思う。それから、“いや、従順なのは相手を客と認識している場合なのか”と思い直す。変にプライドを刺激してしまったのかもしれない。そして“なら、絡め手だ”と口を開いた。
「でも、闇の森の魔女を、あなた達は簡単に裏切ったわよね?」
「はあ?」
「あなた、闇の森の魔女に病気を治してもらったのでしょう? この仕事を続けられているのは彼女のお陰、いえ、それどころか下手すれば死んでいたのよ? そんな命の恩人を裏切っておいて“客を裏切らない”なんてよく言えたもんね」
それを聞いて、リリンは激昂した。
「違うわよ! 裏切ってない!」
その反応に微かにマーゼは微笑む。
“よし。当たりを引いたわね”
先のゴロツキに彼女が『病気を克服した人が良い』と注文を出したのは、闇の森の魔女に治療してもらった娼婦の方が都合が良かったからだ。当時の状況を詳しく知っている可能性が高い。
「あたし達は本当にただ彼女に治療をお願いしただけ。無料で病気を治してくれた彼女を騙し討ちになんかするはずがない! あの娘、いい子だったし」
「へー」と彼女はリリンの訴えに返す。
実は彼女はずっと気になっていたのだ。犯罪組織を介してとはいえ、街の娼婦達に協力させるやり口は、アンチ魔女団体の行動原理に反している。何故なら、アンチ魔女団体は娼婦達も魔女と同じ様に敵視しているからだ。
男系社会の場合、生まれてくる子供は男の血を継いでいなければならない。だから、女性に対して“貞淑さ”を強制する。夫以外の男性と交わるのを禁じ、もしその禁を破れば過酷な罰を科すのである。そうしなければ、生まれてくる子供が夫の血を継いでいるのか確証を得られないからだ。理不尽にも、それは強姦のような女性が一方的な被害者である場合にも適応されてしまう場合がある。
しかも、一夫一妻制を標榜しながら、その実、厳しい貞淑さを求めるのは女性に対してのみであり、男性の場合は許されるケースが多い。いや、それどころか性豪振りが武勇伝のように語られる場合すらもある。自慢話になるのだ。その理由はこのような“男系社会の都合”を考えるのならば理解できる。
そして、同じ理屈で、男系社会の価値観を強く持った人間達は娼婦という職業を蔑み、憎しみを向ける場合が少なくないのである。娼館も娼婦も、彼女達を買う男達がいるから経営が成り立っているという理屈は、彼らには見えないようだ。
アンチ魔女団体は、そのような男系社会の価値観を持っていた。娼婦達を騙して利用するのなら分かるが、協力を求めるのは考え難いと、だからマーゼは思っていたのである。
「私の調査に協力すれば、その闇の森の魔女を襲った連中が分かるかもしれないのよ。それでも協力してくれないの? 恩返しはしたくないの?」
マーゼの言葉を受けて、悩むような微妙な表情をリリンは見せた。言い返せない。多分、何かを隠していると彼女は考える。探りを入れるつもりで口を開いた。
「さっき“いい子”って闇の森の魔女を言ったわよね? という事は、闇の森の魔女の本当の姿を見ているのね。あの頃彼女はまだ普段は老婆の姿に化けていたはず…… あなた、逃げるのを手伝ったのかしら?」
迷っているような表情でリリンはそれを認めた。
「彼女が着替えている間、壁になっていただけよ。アンチ魔女団体の連中が襲って来て、変装しなくちゃだったから」
マーゼは軽く頷く。
「国はあなた達か、ナルガス一家かスターナイツ一味がアンチ魔女団体に協力した可能性を疑っているわ」
「それは勘違いね。
あいつらは、大して利益にもならないのに協力したりしない。そもそもアンチ魔女団体の連中は売春を毛嫌いしているしね」
「金で雇われた線は?」
「ないない。連中が払うはした金程度じゃあいつらはなびかないって。それよりも、弱った闇の森の魔女を捕らえて何かに利用しようとするに決まっているわ。その方が絶対に金になるから」
不満が溜まっているのか、自分達の雇い主の犯罪組織の話になってリリンは急に饒舌になった。興奮している。良い感じに乗せられたと思いつつ、彼女は尋ねる。
「という事は、あなた達は闇の森の魔女を逃がすのに彼らを頼らなかったのね?」
すると、再びリリンは声のトーンを変えた。
「まぁ、そうね。あいつらに裏切られて捕まったら、彼女、絶対に酷い目に遭わせられるから」
分かり易い。この娘は直ぐに感情が表情に表れる性質らしい。何かを隠しているようだ。誰か他に協力者がいるのか。ただし、あまり突っ込んで質問をすると警戒されると考え、それについては彼女は何も訊かなかった。代わりに「報告書は読んだけど」と断ってから「アンチ魔女団体は、どう闇の森の魔女を襲ってきたの? その場にいた人の話を聞きたいのよ」と質問をした。
ちょっと迷ったようだったが、リリンは話し始めた。
「闇の森の魔女…… アンナさんに病気の治療を頼んで並んでいたうちの一人、背の高い男だったけど、フードを深く被っていて顔はよく見えなかったわ。そいつが、彼女の前で突然刃物を振り上げて……」
“刃物を振り上げる”
それを聞いてマーゼは思った。
“なら、そいつは素人ね。プロなら、予備動作をつくらず、最小限の動きで急所を狙う。重要な仕事を素人に任せるだなんて考えが甘すぎるわ”
アンチ魔女団体の連中が軽率で闇の森の魔女は助かったとも言える。プロだったら死んでいたかもしれない。
そのまま、リリンは詳しく事件の様子を語った。
――夜中、
「キャー!」
と突然悲鳴が上がった。リリンは偶然にも近くにいてその光景を目にしていたのだが、その男はアンナ・アンリから「あなたはどこも悪くないですね」と指摘されると急に態度を変え、立ち上がるといきなり刃物を懐から取り出したのだ。
場所は中央広場に設えたテントだった。闇の森の魔女、アンナ・アンリが無料で怪我や病気を治療をしてくれるという話を耳にし、急遽設営したものだ。治療を希望する怪我人や病人達が近隣から集まって来ていて、夜中だというのにまだ長蛇の列を作っていた。そこには怪我人や病人以外の集まった人間目当ての人々も多く集まって来ていた。売店まで出ていて、まるで祭りのようだったという。中にはただ興味本位で訪れていた人もいたようだった。
男が刃物を振り上げたからだろう。アンナ・アンリは身をかわす事ができ、軽く肩を掠った程度で済んだようだった。しかし、明確な殺意の塊をぶつけられた彼女は、肉体的なダメージをよりも精神的なダメージをより深く負ってしまっていたようだった。
「何を……」
驚いた表情で男を見る。
それは彼女が治療を始めた三日目の事で、既に彼女はとても疲労し魔力も尽きかけていた。その間、多くの人達から感謝の言葉を貰っていた彼女はすっかりと油断していたようだった。襲われるとは思っていなかったのだ。ただ、防犯の為に何らかのマジックアイテムを装備していたらしく、再び彼女を切りつけようとした瞬間、勝手に男は弾け飛んだ。
男はアンチ魔女団体の一人だったのだろう。まるでそれを合図にするように、いつの間にか取り囲んでいた男達が、隠し持っていた武器を取り出すとアンナ・アンリに向かって駆け出していた。
その時、闇の森の魔女、アンナ・アンリが悲壮な表情を浮かべたのをリリンは目にしたのだという。恐らくは、どうして襲われているのか分かっていなかったのだ。嫌われる事も、憎まれる事も何もしていないのに、と。
その時、素早く動いたのは娼婦達だった。強盗や強姦魔、彼女達もいつ襲われてもおかしくない境遇で生きている。防具や安い防犯用のマジックアイテムくらいならば常に携帯していた。彼女らはそれでアンチ魔女団体に対抗して肉の壁になり、闇の森の魔女、アンナ・アンリを守った。そして、その間で闇の森の魔女は老婆の姿を解いて本来の20歳の姿に戻ったのだ。その姿を見ると、娼婦達の一人が着ていた営業用の衣装を脱いで彼女に着させた。つまりは、娼婦の振りをさせて逃がそうとしたのである。
「……それで、その後は仲間の一人に連れられて、彼女はこのベルベットロードにまで逃げて来たって訳。その後は客を取った娼婦の振りをして、宿に籠ってやり過ごした。
さっきも言ったけど、あたし達の雇い主は別にアンチ魔女団体に協力はしていない。でも、客を取った娼婦を襲おうとしたら、まぁ、やり合うことになる。連中も下手に手出しできなかったから、結果的に守ったような形にはなった」
そのリリンの説明にマーゼは納得した。アンチ魔女団体には犯罪組織と事を構える覚悟も準備もなかったのだろう。だから、売春宿に逃げ込まれてしまったら、どうする事もできなかったのだ。
ただリリンの説明に彼女は多少の違和感を覚えてもいた。
「でも、それ、闇の森の魔女が娼婦じゃないとバレた段階でアウトよね? 弱った魔女を犯罪組織は逃さない。さっきあなたが言っていた通り。闇の森の魔女なんて最上級の魔女ならなおの事。よく隠し通せたわね」
絶対にその騒ぎを犯罪組織も耳にしている。扮装していそうな怪しい娼婦がいたら疑って調べに来るだろう。
「そりゃ、あたし達はここを根城にしている娼婦だもの。いくらでも誤魔化せるわよ。それに、あいつらは闇の森の魔女のお婆ちゃんの姿しか知らなかったから。老婆だって思い込んでいたみたい。
アンナ・アンリは、可愛い顔をしていたからね。娼婦の衣装を身に纏っていたら、疑わないわよ」
「ふーん」
それを聞いてマーゼは少し考える。
所々に違和感はある。が、大筋では理屈は通っているような気がする。しかし、まだ腑に落ちない点が彼女にはあった。
“なんか、娼婦達の準備が良すぎるのよね。まるで予め襲われるのが分かっていたみたいに思える”
慎重に言葉を選びつつ、彼女は口を開いた。
「その件、本当に闇の森の魔女を逃がしたのはあなた達だけなの?」
「そうよ。他に誰がいるってのよ?」
世の中は広い。敵視されている魔女を守ろうという奇特な人間達も少数だがいる。ただ、もしそんな協力者がいるのだとすれば、リリンが言わない理由は何だろう? さっきの不正経理関連だろうか? 内心で首を傾げながらも彼女は口を開いた。
「ところで、売春宿に闇の森の魔女が逃げた後の事は、あなた達は知らないのね?」
「知らないわ。無事に逃げられたってことくらいしか。それが何か?」
「いえ……」
マーゼは考えていた。もし、仮に、オリバー・セルフリッジが、闇の森の魔女に何かをしたというのなら、その売春宿しか考えられない。
闇の森の魔女は疲労し魔力が尽きかけ、かなり弱っていた。その状態ならば、呪いをかけるなり薬を使うなりできるだろう。いずれにしろ、彼は彼女から酷く憎まれるような何かをし、彼女は彼に復讐をする為に一般社会へと出て来た。そして復讐を果たそうとしたところを返り討ちに遭い、どんな手段かは分からないが、洗脳されてしまった。
この筋書きが一番しっくりくると彼女は考えていた。
或いは、オリバー・セルフリッジは闇の森の魔女が売春宿に逃げ延びて来る展開を読んで、予め罠を張っていたのかもしれない。
「報告書では、闇の森の魔女は自力で逃げた事になっていたわ。国はあなた達が協力したとは思っていなかったみたい。多分それは、この街に住む魔女が、闇の森の魔女に治療を頼んだと知っていたからだと思うの。つまりあなた達が“闇の森の魔女を誘い出すのに協力した”と思われているのよ。だから詳しくその話を聞きたいのだけど……」
実はマーゼが本当に会いたいと思っていたのはその魔女なのだった。
また話すのをごねるかと思ったのだが、リリンは意外にも「それはナゼル・リメルね」とあっさり教えてくれた。
「ベルベットロードで、皆の治療を請け負っている魔女よ。医者代わり」
「あら、随分と素直ね」
「そりゃね。こっちは潔癖なんだもん。痛くもない腹を探られたくないわよ」
それはそうかもしれないが、それを言うのなら初めからそうじゃないのかと彼女は思った。が、口には出さなかった。
「そのナゼル・リメルに会うのには、どうすれば良いの?」
少し考えるとリリンは返す。
「ちょっと待って。手紙を書いてあげるわよ。それを今から言う家の郵便ポストに入れれば直ぐに会ってくれると思う」
突然妙に協力的になったリリンをやや不審に思いつつも、彼女はそれに感謝をして紹介状(?)を受け取った。ただ、その後で紹介料を確りと取られてしまったが。
ナゼル・リメルの家はベルベットロードの端にあった。普通の民家のようにも見えたし、個人経営のカジュアルなカフェのようにも見えた。かなり白色寄りの灰色の建物で、ベルベットロードの他の建物とは趣が違っている。つまり、娼館の類ではない事が一目で分かる。
リリンから言われた通りに、紹介状だと思われる手紙を郵便ポストに入れると、予想よりは少し待ったがドアが開いた。しかし、誰の姿もない。家の中は真っ暗で、まるでお化けに誘われているかのような気分をマーゼは味わったが、家の中に入って少し進むと明るくなり、小窓から日差しが入って来る小さな部屋に出た。大きな棚があり、そこには雑貨や薬草などが入った瓶がたくさん置かれている。
こんな場所で生活しているのか?と訝しんだが、生活空間はこの奥で、ここは診療所のような扱いなのかもしれない。
しばらく待つと何処からともなく質問する声が聞こえた。
「不正経理の調査をしている方ですって?」
姿は見せない。
用心の為だろう。リリンの紹介状に何が書かれてあったのかは分からないが、アンチ魔女団体についても触れてあって、マーゼ・リーメをその一人と疑っているのかもしれない。
「そうよ。闇の森の魔女騙し討ち事件に、不正経理をしている連中が関わっている可能性があってね」
「あの事件と、不正経理が関係あるとは思えないのだけど?」
「直接は関係ないわ。飽くまで関わっているというだけ」
「そう。でも、それなら、どうしてそんなに詳しく調べる必要があるのかが分からないわ」
その返答にマーゼは肩を竦めた。やはりリリンよりも頭が良い。いや、警戒心がより強いと言うべきか。それから彼女は名刺を取り出し、それを姿の見えないナゼルに見せるような動きで辺りに示した。
「そこまであなたが知る必要はないわ。あなたにとって意味があるのは、あなたがアンチ魔女団体と関わっていないと証明する事だけじゃない? 私の肩書きが王国経理部所属の調査員である事は本当、そして、国が闇の森の魔女の騙し討ち事件にあなたが協力したのではないかと疑っているのも本当。違うのならそれを説明すれば良い。それだけで完全に疑いが晴れる訳じゃないけど、それでも何にもならない訳じゃないわ。話に整合性があるのなら、疑いは弱くなる」
しばらくの間があった。物音がする。不意に部屋の奥のただの壁に見えていた箇所に黒い線が入ってそれが広がった。隠し扉だ。そして中から長身の地味な見た目の女性が姿を現した。衣服は清潔そうで医師のようだったが、とんがり帽子を被っているので魔女らしい雰囲気がある。ややちぐはぐな印象を受けたが、それが却って独特の魅力になっていた。
「あなたが、ナゼル・リメル?」と尋ねると「ええ」と返し、彼女はマーゼの目の前の椅子に座った。
「まずは失礼をお詫びするわ。わたし達を敵視している団体も多いので慎重にいかざるを得ないのよ」
「分かっているわ。気にしないで」
マーゼが返すと、ほぼ間を置かずにナゼルは尋ねて来た。
「それで、わたしは何を説明すれば良いのかしら?」
「闇の森の魔女、アンナ・アンリをこの街に呼んだ経緯を話して。あなたが呼んだのでしょう?」
「ええ」とそれにナゼル。
「わたしが呼んだ」
「オーケー。なら、まずはそもそもの疑問なのだけど、どうやってあの闇の森の魔女を呼んだの? 簡単に連絡が取れるような相手じゃないでしょう?」
それを聞いてナゼルは苦々しそうに表情を歪めた。
「多分だけど、わたしは騙されたのよ」
「騙された?」
「そう」
それからちょっとだけ言い難そうにしつつ口を開いた。
「……その晩、わたしは客を取っていたのだけど」
“客?”とそれを聞いてマーゼは思った。
これは患者の相手をしていたという意味ではないだろう。どうやら彼女はこの街で娼婦をやる事もあるらしい。少々意外だった。
「サービスが終わった後に、なんとなく世間話になったのよ。色街だから、当然、伝染病は付き物だけど、その時は特に酷かったのね。わたしの魔力では予防や治療が追い付いていなかった。そーいう話をしたの。とても困っているって。話し始めたのは相手の男だったけど、人が好さそうだったからつい油断をしてしまっていたわ。いえ、街に広がっていく病に、わたしは気が弱くなってしまっていたのかもしれない」
「なるほど」と、それにマーゼは返す。
「そこでその男から、闇の森の魔女との連絡方法を教わったのね?」
「そう」とナゼルは頷く。
「その男は闇の森の魔女と商取引のある数少ない商人を知っていたのよ。そして、“同じ魔女なら、手紙を書けば助けてくれるかもしれない”って言って来た」
マーゼ・リーメは考える。
恐らく、その男はアンチ魔女団体の関係者だったのだろう。ナゼルを利用して、闇の森の魔女を誘き出す策略だったのだ。
「その男はその商人を紹介してくれたわ。それでその商人に相談してみたら、手紙を渡してくれる事になって……」
ナゼル・リメルの言葉に嘘はない、と彼女は判断した。
――闇の森の魔女は浅はかではない。助けを求められただけで、直ぐにそれに応じるような簡単な相手ではないのだ。ナゼルの相談内容が事実だったからこそ、闇の森の魔女はそれに応じたのだろう。
もし仮に、アンチ魔女団体が直接闇の森の魔女を騙そうとしていたのなら、その嘘は容易に見抜かれていたはずだ。或いは、既にアンチ魔女団体は闇の森の魔女を騙そうとして何度か失敗をしているのかもしれない。だからこそ、ベルベットロードの娼婦達を利用しようと考えた可能性もある。
「分かったわ。それで闇の森の魔女は助けに来てくれた、と。まさか、本当に来るとはあなたも思っていなかったでしょう?」
「そりゃね。でも、実際に会ってみて納得したわ」
「納得? どうして?」
それを聞いて、ナゼルは言葉を止める。ただ直ぐに口を開いた。
「あの娘、寂しがっていたのよ。それにとても優しいみたい。想像以上にたくさんの人が治療や防疫をしてもらおうと集まって来ちゃったのだけど、文句を言いながらも結局は全員治療してくれたわ。しかも、無料で。
この街の人達も、彼女にはとても感謝している。だからアンチ魔女団体を快く思っていない人達も多いのよ」
「闇の森の魔女は、その時は老婆の姿に化けていたわよね? それでも寂しそうって表情が分かったの?」
「なめないで。わたしも一応は魔女よ。彼女の本当の姿も見えていたわ。と言っても、本人が本気で隠すつもりだったら分からなかったでしょうけどね」
「なるほど」
「とにかく、彼女は人を恋しがっていた。世捨て人みたいな生活を一代目の闇の森の魔女から強制されていた訳でしょう? 本人は本当はもっと人と関りたかったのじゃない?」
その説明に“ふーん。面白いわね”とマーゼは思う。そして彼女は、なんとなく“オリバー・セルフリッジは、その弱点を利用したのじゃないかしら?”と予想をしたのだった。
「面白い話をありがとう。疑っている訳じゃないけど、あなたが連絡を取ったという商人の名前を教えて。裏を取りたい」
それを聞くと、ナゼルは疑わしそうな視線を彼女に向けた。それで彼女は仕方ないと口を開く
「この辺りだと、ソルネットかしら? 高級ローブに使う特殊素材を闇の森の魔女から卸している」
「知っているのなら訊かないでよ」
「あのね、こっちは、王国経理部所属の調査員よ? 知っていて当然じゃない。言ったでしょう? 裏を取りたかっただけ。ま、その顔なら嘘はないみたいだけど」
その言葉に、ナゼルは何とも言えない文句を言いたそうな表情を浮かべたが、それに構わず彼女は立ち上がった。
「とにかく、ありがとう。お陰で色々とヒントを得られたわ」
ナゼルはまだ妙な表情を浮かべていた。その顔に向けて彼女は言う。
「安心して。闇の森の魔女を傷つけるような真似はしないわ。結果的にだけど、むしろ私は彼女の味方になると思う」
そう。
闇の森の魔女、アンナ・アンリを洗脳し、いいように利用しようとしているのかもしれないオリバー・セルフリッジを抑える事は、彼女を救う事にもなるはずだ。
それからマーゼ・リーメは、そのままナゼルの家を出て行った。
ナゼルの家を出て、しばらくベルベットロードを歩くとマーゼは自分の周りに怪しい男達が寄って来ているのに気が付いた。堅気ではないと明らかに分かる風貌。恐らく、犯罪組織の者達。ナルガス一家とスターナイツ一味のどちらか。或いはその両方だろう。やはり色街で女が一人動くのは目立ち過ぎたのかもしれない。
“面倒くさいわね。逃げようかしら?”
と、彼女は思ったが、少し考えると逃げるのを止めた。
“どうせなら、連中からも話を聞いてみるか”
そう考え直したのである。
彼女の方から男達の一人に近寄っていくと「何か用?」と話しかける。予想外の行動だったのだろう。その男は戸惑った表情を見せた。が、それでも「何をこそこそと嗅ぎまわっていやがるんだ?」とすごんで見せる。辛うじて、といった感じだったが。
「あら、よく気が付くのね。私が調査しているってどうして分かったの?」
「この通りで、女が女を買うなんざ滅多にないからな。噂が聞こえてくるんだよ。もし、本当に女を買うのが目的なら、ナゼルの店にまで行く必要はねぇ」
“そりゃそうでしょうね”と彼女は思い、そこで自分が娼婦達と話していた時に感じた違和感の正体に気が付いた。名刺を取り出すと「仕事熱心なのは感心するけど、余計な心配よ。私は王国経理部所属の調査員。あなた達に危害を加えるつもりなんかないわ」と説明する。
いつの間にか集まって来た男達は揃ってその名刺を覗き込んだ。肩書きに弱いのか、迫力が消えている。一人が説明を求める。
「王国経理部の調査ってぇのは……」
「時々“仕事で金を使いました”って言って自分の為に使ったお金を国に請求して来る不届き者がいるのよ。しかも、かなりの額。その調査。私は警察じゃないから、あなた達の犯罪には興味ない。警察に通報はできるけど、そこまでする義理はないし」
一人がそれを聞いて「縦割り行政ってやつか」と呟くように言った。「その通りよ」と彼女は返し、一呼吸の間の後でこう付け足した。
「でも、私がここで行方不明になったりしたら、警察は動くでしょうね。経理部には私の行く先は伝えてあるから」
もちろん、彼女は彼らを軽く脅したつもりだった。自分にもし手を出したら警察が動くぞ、と。慎重な男もいたようで、それを聞くと「具体的には何の調査をしていたんだ? それを聞くまでは安心できない」と質問をして来た。
「闇の森の魔女の騙し討ち事件を調査していたのよ。その件に関わった連中が、金を誤魔化している疑いがある」
男は彼女の説明を聞いても疑わしそうな表情を崩さなかったが、構わずに続けて彼女は質問をした。
「騙し討ちをされた後、闇の森の魔女は娼婦に案内されてこのベルベットロードに逃げて込んだって聞いたわ。あなた達は、彼女を探さなかったの? 彼女を捕まえられたら金になるでしょ?」
その質問に男達は顔を見合わせた。
「当然探したさ。噂は聞こえて来ていたからな」
「でも見つからなかった?」
「ああ」
それを聞いて彼女は考える。
女の二人連れはこの街では珍しい。女が娼婦を買う事なんて滅多にないから。この連中だって直ぐに気が付くはず。でも、闇の森の魔女は見つからなかった。
――という事は。
“……なるほど”と、彼女は思う。再び彼女は質問をした。
「ところでその事件の辺りで、背の高い痩せた男がこの街をうろついていなかった? 事件のちょっと前から来ていたと思うのだけど」
「そんな男、この街には山ほど来るよ。いちいち覚えていられるか」
ニヤリと彼女は笑った。
「ありがとう。参考になったわ」
「ちょっと待て。何が参考になったんだ?」
「私の調査している男が、闇の森の魔女の事件に関わっている可能性が高くなったのよ。きっと、闇の森の魔女はその男に嵌められたのだと思う」
娼婦達、特にリリンは何かを隠している気配があった。恐らく彼女達はオリバー・セルフリッジの存在を隠していたのだ。ただし、彼女達も彼に騙されている可能性が高いが。
その彼女の様子に疑わしそうにしていた男の顔が変わった。
「そいつはアンチ魔女団体か?」
王国の公務員の中にも、アンチ魔女団体に加入している者はいる。それを彼は知っているのだろう。
「違うと思う。一応忠告しておくけど、この件には関わらない方が良いわよ? 金にならない上に下手すれば危険だから」
その彼女の説明にようやく男は彼女を信用したようだった。嘘を言っているようには見えなかったし、嘘を言う理由もないと判断したのだろう。仮に本当に自分達の調査をしていたなら真っ先に逃げ出しているはずだと考えたのかもしれない。
「オーケー。分かったよ。俺らは金にならない事に興味はないからな。王国絡みも面倒くさい。だが、お前はもうこの街をウロウロするな。いいな?」
「言われなくても、出て行くところだったわよ」
その彼女の言葉を聞くと、男達は向き変えて解散していった。そして彼女もベルベットロードを出て行った。
「――話は承っております」
馬鹿丁寧な口調で商人のソルネットは頭を下げた。丁寧過ぎる所為で、マーゼはむしろ馬鹿にされているかのような気分になった。
マーゼ・リーメはベルベットロードを出るとその足で直ぐにソルネット商会を訪ねたのだ。港に居を構える中規模の商社で、主に貿易で利益を上げている。商会の建物はエキセントリックな雰囲気のある綺麗な外観をしていた。居心地が良い。
「王国経理部所属の調査員の方という事で、関連のありそうな資料は集めさせておきました」
そう言いながら、ソルネットは目の前に書類の束を差し出して来た。小太りで、いかにも人の良そうな男だった。この協力的過ぎる態度が服従の意思表示なのか、それとも単に厄介払いをしたいだけなのか、マーゼは計りかねていた。
「いえ、すいません。実は今回は経理関係の調査で来た訳ではないのです」
恐らく、その書類の束は王国との商取引の記録なのだろう。
その言葉にソルネットは首を傾げた。
「経理関係の調査ではない?」
王国経理部所属の調査員の肩書きを持つ者が訪ねて来て、経理関係の調査ではないと言われたなら不思議にも思うだろう。
「闇の森の魔女の騙し討ち事件。あの事件に不正経理を行っている連中が関わっている可能性がありまして。それで調べているのです。ベルベットロードの魔女に、闇の森の魔女を紹介したのはあなただと聞きました」
「はあ」
ちょっと考えるとソルネットは、目玉をくるくると回しながら「そうですね。確かにベルベットロードの魔女、ナゼルさんに、闇の森の魔女、アンナ・アンリさんを紹介したのは私です。が、ただそれだけで、他には何もしていませんが」と戸惑った様子で返す。或いは犯罪捜査か何かだと勘違いをしているのかもしれない。
「安心してください。ベルベットロードの魔女と話をしましてね、彼女の話の裏付けを取りたかっただけです」
「はあ」
まだソルネットは戸惑った顔を浮かべていた。
ただそれだけの理由でわざわざ訪ねて来るのだろうかと思っているようだ。
「もちろん、それだけではありません。闇の森の魔女、アンナ・アンリについても少々お聞きしたいと思っています。
彼女は最近になって急に社会に出て来るようになりました。そして、王国とも関りが出て来た。それで色々と調べなくてはならなくなったのですよ。彼女の為に割かれる予算もあります。先代から闇の森の魔女と取引のあるあなたなら、彼女の事を詳しく知っているのではないですか?
王国の資料室にも彼女の記録は残っていますが、量と正確性に難があります。できれば、あなたからも詳しい話をお聞きしたいのですが」
それでアンナ・アンリの弱点が分かれば、何をオリバー・セルフリッジが彼女にしたのかが分かるかもしれない。
「はあ。私も取引をしているだけですから、知っている事には限りがありますが」
「それで構いません。知っている事を話してください」
それからソルネットは、闇の森の魔女、アンナ・アンリについて話し始めた。
ソルネットがアンナ・アンリを初めて見た時、幼い彼女は興味深そうに奥の部屋から顔を覗かせていたのだそうだ。ただ、その顔は同時に怯えてもいた。
闇の森の出入り口には、外の世界との取引をする為の小屋がある。二部屋しかない上に、テーブルと机しかない簡素な小屋だ。
一代目、闇の森の魔女のログナは、生活範囲に他人が足を踏み入れる事を嫌っていた。単に人嫌いだったのか、それとも研究内容を盗まれるのを警戒していたのかは分からないが、とにかく交渉や取引の為にその小屋を用意したようだった。彼女と取引をする人間達にとっても、闇の森の奥にある彼女の屋敷にまで足を運ぶ労力がいらなくなるのでそれは有難かった。そこにログナはアンナを連れて来ていたのである。
「その時は、彼女は私に怯えていたのかと思っていたのですがね。もしかしたら、あれはログナさんに怯えていたのかもしれません」
と、ソルネットは言った。
ログナは“良い親”とは言い難い性格をしていた。気難しい世捨て人の魔法の研究者。それが世間一般のイメージで、そして恐らくそれは大きくは外れていない。
つまり彼女は“子育て”という言葉からはかけ離れた人間だったのだ。
ただし、それでもログナにも保護者として最低限の責務を果たすつもりくらいはあったようだった。その時ログナはアンナを呼び寄せると、ソルネットに挨拶をするように言い、彼を紹介した後に、
「この子に、私の闇の森の後を継がせようと思っていてな」
と、彼にそう説明して来たのだそうだ。
どういう子なのかと彼が尋ねると、孤児院で魔法の才能のありそうな子を見つけて引き取ったのだという。
「これからよろしくね、お嬢ちゃん」
と彼が挨拶をすると、アンナは人見知りをする性質なのか、上目遣いで小さく頷いた。ログナはそれを見てから、
「もう少し大きなったら、この子が取引をする事もあるだろう。よろしく頼むよ」
と彼に告げて来た。
それを聞いて、彼は少なからず安心をしたのだという。それは、ログナが引退か、寿命で死んだ後も仕入れルートを失わずに済みそうだと分かったからでもあったのだが、偏屈で老獪なログナに比べれば、アンナの方が交渉がし易そうだと思ったからだったという。
アンナ・アンリは可愛くて優しそうな女の子だったのだ。
そして、それから数年後、ログナの言葉通り、アンナが彼らとの取引に顔を出すようになった。大きく取引額が変動するような重要な時はログナが出てきたが、基本的にはアンナが彼らの相手をした。そうして何度も顔を合わせ、随分と打ち解けた頃になると彼女が外の世界に興味を示している点が如実に感じ取れるようになったのだという。自分と同年代の子供達がどんな事を学び、何をして遊んでいるのかを彼らに尋ね来る。強い憧れを持っているようだった。
「無理もないと思いましたよ」
と、ソルネットは語った。
魔法研究に取り憑かれているようなログナとは違い、アンナは普通の女の子に思えた。多少引っ込み思案で、内気なところはあるが、それでも年相応に同年代の子供達と友達になりたいという当たり前の気持ちも持っていたのだ。彼女は偶にしか街に出る事はなかったが、同年代の子供達と知り合いになる切っ掛けはほとんどなかった。それは彼女のコミュニケーション下手な性格の所為でもあったが、それ以上にログナが怖かったのかもしれない、とソルネットは語った。アンナが魔法研究以外の事に興味を示すのを、ログナは快く思っていなかったようなのだ。
「そして、ログナが死に、アンナさんが後を継ぎました。これでようやく彼女は自由になれた訳ですが、それまでの人生であまり人と関わって来なかった彼女は、どう他人と接すれば良いのかがよく分からなかったようです」
かつて普段、彼女が老婆の姿に化けていたのは、或いは身を守る事ばかりが目的ではなく、そんな彼女のコミュニケーション下手の所為でもあったのかもしれない。
そして、そんな彼女のもとに、ベルベットロードの魔女からの助けを求める手紙が届いたのだ。
「……そして、人との関わりに飢えているアンナ・アンリは、それに応じたという訳ですね」
そうマーゼ・リーメが言うと、ソルネットは頷いた。
「はい。友人……、いえ、もしかしたら恋人ができる事を期待していたのかもしれません」
それを聞いて、マーゼはアンナ・アンリがどうしてオリバー・セルフリッジに対して憎しみを持っていたのかを理解できた気になった。彼は恐らくその彼女の弱い部分を利用したのだろう。彼は“人と関わりたい”という彼女の気持ちを踏みにじった事になる。だとしたら、憎まれて当然だ。
「ありがとうございます。ご協力に感謝します。大変、有用な情報でした」
もう聞きたい事は聞けたと判断した彼女はそうソルネットにお礼を言った。
公安調査局には様々な情報が集まって来る。その中には、もちろん違法行為に関するものも含まれてある。が、彼らは警察ではない。だから、そのような情報を握っても、犯罪の取り締まりに活用するとは限らない。それら情報は彼らの調査の為に活用され、仮に調査に役立たない場合でも、“何かしらの使う機会”の為に保存されてある場合がほとんどだ。例えば警察との取引、或いは国内外の組織との交渉材料など。
そして、そういった情報の中には、アンチ魔女団体に関するものも含まれてあった。
「――闇の森の魔女騙し討ち事件。あなた達が関与しているという証言を取ってあるわ。立証されれば傷害罪ね。その他にも別件で、違法な呪具や魔法道具を使ったという証拠も出て来ている」
淡々とした口調で、マーゼ・リーメは無造作に資料の束を彼の前に投げ置いた。テーブルの上に投げ出され、散らばりかけた状態の書類の束を見もしないで、アンチ魔女団体の一人、ルル・サーベイは返す。
「おや、これは驚いた。何故、王国経理部所属の調査員であるあなたがこのような情報を握っているのでしょうか?」
もちろん彼は彼女の本当の所属が公安調査局である事を知っているのだ。
場所は王国の小会議室。ルル・サーベイはアンチ魔女団体の中での地位はそれなりに高い。大手企業にコネクションを持っており、彼らの活動を支えている。がしかし、王国組織の中では軍部研究部門の下っ端で、特に注目もされていない。だから、このようなアンチ魔女団体との秘密裏な交渉には都合が良いのだ。経理の聞き取り調査だと言えば怪しむ者はまずいない。
ルル・サーベイは三十代だが、見た目は随分と若く見える。20代前半と言われても疑わないだろう。中肉中背であっさりとした印象を受ける。
「茶化さないで。分かっていると思うけど、あなた達を警察に売るつもりはないわ。彼らもあなた達を敵視してはいないしね。ただし、犯罪の証拠を突きつけられれば、立場上、彼らだって動かざるを得なくなる」
それを聞くと彼は肩を竦めた。
「ハイハイ。大人しく、見返りなしで協力しろってことですね」
「その通り。あなた達にとってまずい情報を出せとは言わないわ。私達もあなた達とは敵対したくない」
「オーケー。言いましょう。こっちも意地を張る理由なんてないんでね。何を聞きたいんですか?」
サーベイはおどけたような態度だったが、構わずマーゼは淡々としたマイペースな口調で返した。
「オリバー・セルフリッジについて知りたいのよ」
“オリバー・セルフリッジ”という名に彼がピクリと反応したのが分かった。
「へー。公安調査局も彼にまで辿り着きましたか」
「という事は、彼は他の魔女事件にも関わっているのね。私は闇の森の魔女の件で、彼を知ったのだけど」
「ええ。まぁ、よく我々の邪魔をしてくれている男ですよ。もっとも、確証はありませんがね」
にやけた顔から鋭い眼光を覗かせつつ彼はそう言い、一呼吸の間の後で続ける。
「裏で魔女達が逃げるルートを確保し、巧みに情報を操って我々を攪乱する。あの男は主にそのような事を行っている。自ら動く事は稀ですね。つまり裏方の策士です。今一番我々が興味あるのは彼のバックにどんな団体がいるのかといった点ですかね。何か知りませんか?」
「もし、私達がそこまで知っていたら、わざわざあなたに訊きに来たりしないわよ」
アンチ魔女団体は、ただ単に魔女を敵視しているだけの団体ではない。いや、末端の構成員達はそのように考えているかもしれないが、彼らに資金援助をしたり、組織としての統率を取っているのは実は国の様々な利権団体なのだ。ただし“利権団体”と言っても、何処か特定の団体という訳ではなく、利権の確保にとって邪魔な魔女や魔法使いが現れると、何処かの利権団体が金を出し、彼らにその魔女を殺害、或いは排除するように依頼をするのだ。便利に使える衛星違法組織といったニュアンスが一番正しいかもしれない。だから何処の利権団体にとっても何の障害にもならなければ、魔女の類であっても彼らは放置している。“国家が脅威とするべき個人”の認定を受けている、火山の主、魔王ロメオ・リメロは威嚇砲撃を繰り返すという挑発行動を見せているが、アンチ魔女団体が彼を攻撃しようとしないのは、彼が何処の利権団体も脅かしていないどころか、むしろ軍事部門にとって予算増額の理由にできるので都合が良いからだ。
「つまり、バックに何がいるのか分からないから、軽はずみにオリバー・セルフリッジには手出しできないという事かしら?」
マーゼの指摘にサーベイは爽やかに笑うと、
「いえ、実は手を出そうとはしていたのです。その方が早いですからね。叩きのめして吐かせてしまえば良い」
さらっと過激な発言をした。
「“手を出そうとしていた”という事は、手を出せなかった何かがあったという事?」
「はい」
急に真面目な顔になると彼は続ける。
「闇の森の魔女の騙し討ち事件の後ですけどね、一か月程前、流石に捨て置けないと判断し、彼を狙わせたのですが、その者達が残らず記憶障害を起こし、そればかりか彼を狙う意欲を喪失させられてしまっていたのです。肉体的なダメージは一切ありません。精神をいじられたといった感じでしょうか?」
「精神系の攻撃を受けたのね……」
それを聞いて彼女は思い出していた。闇の森の魔女、アンナ・アンリはオリバー・セルフリッジによって洗脳されたとしか思えない状態にされてしまった事を。
「でも、そんな魔法や薬は聞いた事がないわ」
「はい。ですから、恐らくは未知の魔法か薬だと思われます。そんな技術を持っているのは闇の森の魔女くらいだと思いますが……」
「それはないわ。その頃、闇の森の魔女はむしろオリバー・セルフリッジを憎んでいるようだった。協力するはずがない」
一か月前ならまだ洗脳されていないはずだ。
「ほー、“その頃”ですか。まるで、今は違うような言い方ですね」
どうしようかと彼女は少し迷ったが、情報は共有しておいた方が良いと判断し、口を開いた。
「そうよ。今は違うわ。むしろ、彼女は彼に対して好感を持っているように思える。しかも、かなり強く」
それを聞いて「それはそれは……」と、サーベイは頭を掻いた。
「早い話が、彼の精神攻撃の餌食になったという事ですか。あの闇の森の魔女ですらも」
「その可能性が最も高いと思う」
悩ましげに彼は腕を組む。
「これは、益々我々が軽々しく手出しできる相手ではないという事になりそうですね」
その彼の言葉を聞いて、マーゼはふと思いついた。
“我々……、か”
確かに自分達が迂闊に手を出すのには危険な相手かもしれない。……が、しかし、それならば他の誰かに相手をさせれば良いのではないだろうか?
「……でも、このままじゃ埒が明かないのも事実よね? 何か動く必要はあるわ」
その彼女の含みのある言い方で察したのかサーベイは「おや、何か策がありそうですね?」と尋ねる。
「私達が彼に手を出すのは危険。なら、私達以外の何かに彼の相手をさせれば良いのよ」
「具体的には?」
「オリバー・セルフリッジに、火山の主、魔王ロメオ・リメロの対処……、ロメオが度々行っている威嚇砲撃を止めさせるように命じるというのはどう?」
「なるほど。どう動くかによっては、オリバー・セルフリッジの能力の正体も分かるし、場合によってはバックにいるだろう存在も判明する、という訳ですね」
「その通り。あなた達も協力してよ。ただの資料室員にするような命令じゃないわ。それなりの情報操作が必要になって来る」
「了解しました。こちらとしてもメリットがありますからね。協力しましょう」
サーベイはにやりと笑う。先程までの作り笑いではなく、本当に笑っているようだった。悪巧みに快感を覚えるタイプのようだ。この男も油断ならない。
オリバー・セルフリッジが“魔王ロメオ・リメロの対処”という命令に大人しく従うとは限らない。いや、むしろその可能性は低いだろう。が、それでも、何かしらボロが出るのはほぼ確実だと彼女は考えていた。
“そこで尻尾を捕まえてやるわ。待ってなさい、オリバー・セルフリッジ!”
彼女は心の中で気合を入れていた。
オリバー・セルフリッジに“火山の主、魔王ロメオ・リメロの威嚇行動に対する対処”の命令が下った。国家資料室に所属し、様々な情報に精通している彼にならば、魔王ロメオ・リメロと巧く取引ができるだろう…… というのが表向きの理由だった。もちろん、かなりの無理があるのだが、強引なゴリ押しで話は通ってしまった。
セルフリッジは、その命令を一応は受けたらしい。
「可能かどうかは分かりませんが、チャレンジしてみます」
というのがその時の彼の言葉だったという。それ以降、彼は資料室で調べ物をし、また不足している情報があると主張し、魔王ロメオ・リメロの住む火山近辺の新たな情報を集めさせてもいた。真面目に取り組んでいるように思える。
――が、それら全てをマーゼ・リーメはブラフだと考えていた。彼には火山の主、魔王ロメオ・リメロを何とかする気などなく、対処しているような振りをしているだけだと彼女は判断していたのだ。彼が集めさせている情報の中には近年の火山活動の記録まであった。火山活動が低下している可能性があるのだそうだが、ロメオ・リメロと交渉する上でそんな情報に何の意味があるのだろう? きっといずれ「やはり無理だった」と言って来るに違いない。
だが、彼女達にそれを認めるつもりはなかった。半ば嫌がらせに近いが、強引に圧力をかけるつもりだ。そうして追い詰められたなら、彼は自らの特殊能力を使うかバックにいる何らかの組織を頼るかして危機を脱しようとするだろう。そこを捉えるのである。いずれにしろ何らかのヒントは得られるはずだ。もしかしたらとんでもない正体が明らかになるかもしれない。
しかし、それからオリバー・セルフリッジは彼女の予想外の行動に出たのだった。
――国家資料室。
オリバー・セルフリッジが勤務している職場だ。今も彼はそこで働いている。ただし、通常の業務は減らし、主に魔王ロメオ・リメロの対処の為の作業を行っているはずだった。
当然ながら、マーゼ・リーメはその資料室を監視している。彼がいつ何時行動を起こすか分からないからだ。
そして、ある日の昼下がりだった。異変が起こった。その資料室を闇の森の魔女、アンナ・アンリが訪ねたのだ。正確には彼女自身かどうか分からない。が、正体不明の女性の影が、資料室のドアに吸い込まれるように入っていくのを彼女は目撃したのである。その時、ドアは開かなかった。実体を影に変化させ、わずかなドアと床の隙間から入っていったように彼女には思えた。管理されている王国の施設内で、そんな魔法を使える者は数えるほどしかいない。闇の森の魔女である可能性が最も高い。
資料室内に入って確かめるべきだろう。が、彼女は疑いを持った。
“罠かもしれない”
ただ、オリバー・セルフリッジがそのような事をする理由は思い当たらなかった。何故なら、彼女の存在を知られている時点で既に手遅れだからだ。その気になりさえすれば、アンナ・アンリを自由に動かせる彼にならば、彼女をいかようにもできるからだ。捕らえる事も、殺す事すらも容易い。
「……迷っていても、何も答えは出そうにないわね」
マーゼは意を決すると、資料室の中に足を踏み入れた。職員が出て来て彼女の相手をしようとする。セルフリッジの姿は見えない。一応彼女は質問してみた。
「あなた、さっき黒い女性の影がこの資料室に入って来るのを見なかった?」
職員は首を傾げる。覚えがないようだ。
それに彼女は「そう」と返すと「オリバー・セルフリッジさんに用があるの。彼は奥かしら?」と言って奥に足を進めようとした。職員が止めようとして来たので、彼女は王国経理部所属の調査員の名刺を見せる。法的な効力は一切ないが、それでも効き目はあったようで「どうぞ」と言って職員は道を開けた。
そこで彼女は奥の部屋を観察した。「奥にはセルフリッジさんの他には誰もいない?」と尋ねる。「はい」と職員は答えた。
薄暗い資料室の奥の部屋には、大量の蔵書が見える。いかにも古臭い、重厚そうな本だ。不気味な程に静かだった。仮に先の影が闇の森の魔女であったのなら、彼女もそこにいるはずだ。
“いきなり危害を加えて来る事はないはず”
そう言い聞かせると、マーゼはゆっくりと慎重に資料室の奥の部屋に向かった。かびの臭いが強くなるのを感じつつ、部屋に足を一歩踏み入れる。するとその瞬間、周囲の空気が変わった気がした。驚いて振り返ると部屋の外が暗くなっていた。光が乏しくなったと言うよりは、黒が濃くなった印象。
瞬時に彼女は理解した。結界を張られたのだ。冷や汗が浮き出てくる。
“まずい……、か?”
そこで声が聞こえた。
「公安調査局所属の調査官、マーゼ・リーメさんですね? 僕の監視を担当している」
資料室の最奥に声の主はいた。オリバー・セルフリッジだ。彼女は懐に忍ばせていた護身用のナイフに手を触れた。そのナイフには特殊な魔法加工を施してあり、切れ味が鋭く、少しでも傷を付ければ相手の頭が混乱する効果が付与されている。これで先に攻撃さえできれば充分に勝機はある。間合いを計った。
ところが、その動きで彼女に攻撃を意思があるのを察したのか、セルフリッジは両の手の平を彼女の方に向け落ち着くように示しながら慌てた口調で言った。
「ちょっと待ってください。勘違いをしないでください。戦うつもりはありません。僕は誤解を解こうとしているだけです」
懐のナイフを握りながら彼女は尋ねる。
「誤解?」
「はい。アンナさんから呪符を貰って、この部屋に結界を張っていますが、それは他の人に聞かれない方が良いと配慮したからに過ぎません」
いかにも人の好さそうな顔を歪ませて、必死に彼は彼女に訴えていた。
「まず、僕には何の力もありません。恐れる必要などまるでないのです。戦闘力は皆無ですから」
マーゼはその言葉を聞くとナイフを強く握りながら言った。
「何の力もない人間が、私の本当の所属を知っているはずがないわ。それに、私があなたの担当をしている事を知っているのもおかしい」
「あなたの所属を僕が知っているのは、あなたがアンナさんをずっと監視していたからです。王国経理部所属の調査員が、アンナさんを監視しているのはおかしいですから、本当の所属は別なのだと直ぐに察しました。あなたが僕を担当していると思ったのは、あなたがあの時パーティ会場にいて、アンナさんの態度の変化を観ていたからです。それであなたは僕に何らかの特殊な力があると勘違いしたのではないですか? 他の人はそんな話は信じないでしょう。だから、あなた自身が提案して自ら監視の役割を担ったのではないですか?」
それを聞いてマーゼは難しい顔をする。
「それだけの情報で断定したの? 無理があるわ」
「はい。正確にはそれだけではありません。アンナさんが街に出てくれば、恐らくは監視が付くと僕は踏んでいました。そこで疑わしい人物がいないか気にしていたんです。すると時折あなたの姿を見かける。それからあなたに関する資料を漁りました。資料に関してはプロですからね。すると恐らくは名目上だろう王国経理部所属の調査と重なるようにして、別の事件の記録も出て来た。それで大体は予想できました。諜報活動系のお仕事をしているのだと。
そして、アンナさんの担当に就いたという事は、魔力に頼らない技能を持っているのだと予想できます。表情や仕草から、相手の心理を敏感に見抜けるような。なら、パーティ会場でのアンナさんの態度の変化を読み取れるだろうとも判断できます」
まだ彼女は彼を疑っていたが、それでも理屈は通っていると考えた。しかしまだ安心はできない。だからといって、この男が白だと決まった訳ではないからだ。
“どうであるにせよ、このナイフで行動不能にしておいた方が良いわよね”
またナイフを強く握る。本当に戦闘能力が皆無なのだとすれば、ナイフで傷を付けるくらい容易いはずだ。
が、そこでセルフリッジはこう言うのだった。
「とにかく、僕には何の力もありませんし、あなたと争うつもりもありません。意味のない事はやめましょう。それに、もし仮に僕を傷つけてしまったら、アンナさんが怒ると思いますよ?」
それで彼女の動きが停まった。
「脅すつもり?」
「そんなつもりはありませんが、事実なので」
どのような経緯でそうなったのかは不明だが、この男に闇の森の魔女が強い好意を抱いているのは確実なのだ。あの女を怒らせるのはまずい。何をされるか分からない。
懐のナイフから手を放すと、彼女はゆっくりと口を開いた。
「……随分と闇の森の魔女、アンナ・アンリから好かれているようだけど、何をどうすればそんな事が普通の人間に可能なの? 彼女は“国家が脅威とするべき個人”の認定を受けた“化け物ども”の一人なのよ?」
それを聞くとオリバー・セルフリッジは何故か悲しそうな顔を見せた。
「確かに彼女は凄まじい力を持っていますが、それでも、優しい普通の女の子ですよ? 誰かに好意を抱くくらいします」
“少なくとも普通ではないでしょう”と、彼女は思ったが口には出さなかった。
「じゃ、訊くけど、どういう切っ掛けで彼女と知り合ったのかしら?」
しばし彼は動きを止める。やや迷っているように思えた。が、やがて慎重な様子で口を開いた。
「まず僕は、アンナさんに限らず、多くの魔法使い達が逃げる手助けをして来ました。度し難い理由で魔法使い達が危害を加えられるのを見過ごせなかったのです」
「魔法使い達の手助け? 普通の人間にできる事じゃないわよね? それに、どうやって魔法使い達のピンチを知ったの?」
「この資料室で働いていれば、多くの情報が入ってきますからね。誰がどんな情報を欲しがっているのかもそれで大体予想ができるようになったのです。そして、その中には、アンチ魔女団体も含まれてありました。
僕は狙われる危険のある魔法使いなどにその情報を伝えていたのですよ。時には逃げる手伝いや、情報撹乱などもしていましたが、いずれ特殊な能力は必要ありません」
その説明でマーゼはアンチ魔女団体のルル・サーベイの言葉を思い出していた。彼はオリバー・セルフリッジを“裏方の策士”と表現していた。話の内容は一致するように思う。大きく一呼吸した後で彼女は口を開いた。
「……それは充分に特殊な能力だと思うけど、まぁいいわ。とにかく、あなたはそれで闇の森の魔女も助けた訳ね? 何があったのか具体的に話してもらえるかしら?」
それにあっさり「はい」と返すと、彼は語り始めた。
「キャー!」
「誰が警察を呼べ! 賊だ!」
「逃げてー!」
悲鳴や、騒ぎ声。
闇の森の魔女、アンナ・アンリが治療する為の場として設けられた、テントの方から聞こえて来た。ベルベットロードへと続く道の始まりで待機していたオリバー・セルフリッジは、その声に緊張で身を固くする。
もし、アンナ・アンリがアンチ魔女団体から襲われたなら、娼婦達が彼女を庇って彼のいる場所まで逃げて来る手はずになっていたのだ。
しばらくすると、以前打ち合わせの時に見た娼婦が、別の女性を連れて駆けてくるのが見えた。その女性も娼婦の衣装を身に纏ってはいるが、彼は会ったことがなかった。恐らくは彼女がアンナ・アンリなのだ。彼が想像していたよりもずっと若く、また可愛かった。
“ちょっと予想外ですね……”
ベルベットロードを取り仕切る犯罪組織にとってもこれは予想外だろう。逃げるのには都合が良い。しかし、それでも彼は少しばかり困っていた。
娼婦とアンナは彼がいる少し手前で森へ続く藪の中に入った。通行人達は彼女達が森に逃げたと思っただろう。だが少し経つと暗がりの中から女性が現れた。セルフリッジはその姿を確認すると手を握った。アンナ・アンリだ。森へ逃げる振りをして戻って来たのだ。影になっているから光は届かない。衣装も森の中で別のものに着替えている。彼を注視している者はいないだろうから、通行人達からは待ち合わせをしていた娼婦がいつの間にか現れたように見えただろう。
「アンナ・アンリさんですよね? 良いですか? このまま売春宿まで行ってそこに隠れます。それでアンチ魔女団体からは、犯罪組織が守ってくれるはずです。もっとも犯罪組織にもあなたの正体がバレてはいけませんがね」
小声で早口に彼はアンナにそう説明した。彼女は何も反応をしなかったが抵抗もしなかった。それから彼は彼女の肩を抱くようにしてゆっくり歩き始めた。急ぐと疑われる危険があるし、その方が傍目からは、娼婦を買った客が身体の感触を愉しんでいるように見えるだろう。それにアンナ・アンリは疲労困憊しているはずだった。身体を支えてあげたかったのだ。
売春宿の前まで来る。いかにも安そうな宿だ。中に入るとナルガス一家の一員だろう男が現れて入り口を塞いだ。無言のまま目で促して来る。
「彼女は流れの娼婦で、リーズさんの紹介です。ここを利用するのは、この額で良いと聞いています」
そう言ってセルフリッジは、その男に金を渡した。それなりに高額で、当然ながらこの安そうな宿の宿泊料には相応しくない。売春をやる為のみかじめ料だ。
男は疑わしそうな顔をアンナに向けながら言う。
「どうして女の方が渡さない? 商売をしているのはそっちだろう?」
「彼女、既にかなり酔っていましてね。だから僕が代わりに」
そう彼が言うのを「フンッ」と跳ね除けるようにすると、男はアンナの顔を乱暴に掴んで強引に自分に向けさせた。彼女の疲労している顔はちょうど酔っているように見え、また“闇の森の魔女”とは思えない彼女の可愛らしい顔立ちに納得をしたのか、男は「ま、いいか」と言うとそれからぞんざいに「部屋は2階の一番奥を使え」と言い放った。
その言葉にホッとした所為か、アンナが少し体勢を崩した。それをセルフリッジは支えると、やや急ぎ足で2階の自分達の部屋に向かって歩き出す。
それを見て男は「おい。あんた」と話しかけて来た。
その声に、セルフリッジはビクッと震えた。もしやアンナの正体がバレたのでは、と不安になったが、それから男はこう続けた。
「上手くやったな。随分と上物だ。本来はもっと高いぞ」
どうやら男は彼が彼女を強引に酔わせて買ったと思ったらしい。「ハハハ」と彼は乾いた笑いで返して誤魔化した。
指定された2階の奥の部屋は狭かったが、あまり汚れてはいなかった。しかしそれはベッドと机と椅子以外は何もない殺風景な部屋だからそう感じただけかもしれない。小さな窓が一つあり、辛うじて窓の外が見えたが、近くに中を覗き見できそうな建物はなかった。部屋に入って直ぐ灯したランプの光が、仄かに部屋の中を照らしている。
オリバー・セルフリッジはアンナ・アンリをベッドの上に座らせた。その時に肩の辺りに触れると「痛っ」と彼女は軽く悲鳴を上げた。それで彼は心配そうに声を上げた。
「もしかして怪我をしているのですか? 見せてください」
腕を出させると、乱暴に巻かれた包帯に血が滲んでいるのが見えた。先に藪の中で慌てて娼婦が手当したのだろう。この処置では不十分だと判断した彼は、リュックの中から大きな水筒と蜂蜜、包帯を取り出した。彼女が負傷する可能性を考慮して、予め用意しておいたのだ。
「あの…… この程度なら大丈夫です」
と、アンナは言ったが、彼は「こういう傷を甘く見てはダメです。放っておくと化膿する恐れがあります」と言って傷口を水で洗い、その後に「殺菌、保湿効果があるんです」と説明しつつ傷口に蜂蜜を塗布し、それから包帯を綺麗に巻いた。
「これで良いですかね」
自らの処置に彼は満足そうにする。そんな彼を見やりながらアンナは口を開いた。
「あなたは何者です? 一体、何がどうしてこうなっているのか、説明をしてもらえますか?」
疑わしそうに目を細めている。
やや困った表情で彼は口を開いた。
「僕は国家資料室に勤務している公務員です。あなたがアンチ魔女団体から狙われていると知って助けに来たのですよ」
信じてもらえるか自信がないのだ。
「国家資料室の公務員? どうして、そんな人にわたしが狙われていると分かるのですか?」
「さっきあなたを襲ったアンチ魔女団体のメンバーは、国の組織の中にもいましてね。その人達が、あなたに関する資料を集めていたのです。それであなたが次のターゲットなのだと予想できました。そして、調べてみたら、この街の人達の病気をあなたが無料で治療する予定なのだと言う。それだけ分かれば、彼らがそこを狙うつもりでいると容易に想像が付きます」
それを聞くと、まるで非難をするような目で彼女は彼を見た。その視線の意味を直ぐに彼は察した。
「すいません。本来はこんな危険なイベントは止めるべきでしたし、あなたにも伝えるべきでした。ですが、この街の女性達に懇願されてしまいまして。彼女達は病気や怪我で酷く苦しんでいまして、あなたにどうしても治療をしてもらいたかったみたいで…… あなたに伝えたら、治療をしてもらえないのではないかと不安になっていたみたいで」
「なるほど。だから、彼女達は念のために護身魔法アイテムを装備するようにわたしにしつこく言って来たのですね」
それから憎々しげに彼女は包帯を巻いた肩の傷をさすりながら続けた。
「それを教えてくれさえいたら、もっと身体全体をカバーするように身を護っていたのですがね。お陰で傷を負ってしまいました」
それを聞くと彼は再び謝罪をした。
「すいません。恩を仇で返すような事になってしまって……」
「別にあなたが悪い訳ではないでしょう。取り敢えず、あなたに敵意がない事までは信用しました。もっとも、まだ裏があるのではないかと疑ってもいますが」
それを聞くとセルフリッジは「無理もないです」と言って優しそうな顔を歪ませ、それからおずおずと口を開いた。
「あの…… どうか、この街の女性達を許してあげてください。彼女達も騙されたようなものなのです。困っているのを、アンチ魔女団体に知られて利用されてしまった…… あなたを傷つけようとして呼び出した訳ではないのです。彼女達は彼らの計画を知らなかったのです」
「許さないとは言っていません。好意も抱けませんけどね」
彼の説明で、彼女は多少は機嫌が良くなったように見えた。続けて質問をする。
「……それにしても、よく彼女達はあなたの言う事を信用しましたね。あなたが悪だくみをしている可能性だってあったでしょうに」
「それは多分、僕の実績のお陰です」
「実績?」
「はい。僕は今までにも何度かアンチ魔女団体に狙われた魔法使いの方々が逃げるのを手助けしていまして。それをこの街の魔女のナゼルさんも知っていたんです。あなたも会っているでしょう? あなたに助けの手紙を送った方ですが」
それを聞いて彼女は「ああ、あの方ですか」とポツリと言った。何を想っているのか、まるで拗ねているように見える。言い訳をするようにセルフリッジは説明を続けた。
「治療をしてくれる恩人であるあなたに万一の事があってはいけません。だから、先にあなた自身が言ったように護身魔法アイテムを装備してもらい、それから襲われた時の準備もしていました。
この街の女性達が壁になって暴漢からあなたを守り、その間で服を用意し娼婦に扮して逃げてもらって、後は僕がこのベルベットロードまで連れて来てあなたを匿う計画を立てていたんです。念を入れて、あの会場から逃げるのと、このベルベットロードまで逃げるのとで着替えもそれぞれ用意して。彼女達があなたを懸命に守ろうとしていたのが分かるでしょう?」
彼としては彼女を宥めるつもりだったのだ。すると彼女は不貞腐れたような顔で「分かっています」と返した。それで“もしかしたら”と彼は思った。疲労と襲われたショックの所為で機嫌が悪くなっているだけかもしれない。
「もう休みましょう。多分、あなたに今最も必要なのは休息です」
そう言って彼は椅子に腰を下ろす。それを見てアンナは「あなたはそこにいるつもりですか?」と尋ねた。
「はい。一緒に寝る訳にはいかないでしょう? 狭いベッドですし」
それを聞くとまるで抗議をするように彼女は言った。
「この部屋は鍵がありませんでしたね?」
「はい。残念ながら。ただ起きて見張っているので心配しないでください」
「そうじゃありません。なら、いつ部屋を覗かれるとも限らないじゃありませんか。あなたはわたしを買った態でこの部屋に泊まっているのに、そのあなたがベッドに入っていないのでは怪しまれます」
「それはそうですが…… でも、」
セルフリッジが困っていたのは、闇の森の魔女、アンナ・アンリが思っていた以上に可愛かったからだった。どうしても意識してしまう。そんな彼の心中を知ってか知らずか、彼女は彼にこう告げる。
「構いません。馬鹿にしないでください。一緒にベッドで寝るくらいで大騒ぎするような女ではありません」
そこまで言われては反対はできなかった。彼が「それでは」と言ってベッドに近付いていくと、彼女は彼のスペースを空ける姿勢で横になり、彼が隣に寝るとブランケットで二人を覆った。
狭いベッドなので、自然身体が触れ合う。彼女は何も言わなかったが、息遣いから少しだけ緊張している様子が感じ取れた。
アンナ・アンリの身体は、彼が想像していた以上に華奢で頼りなかった。先に肩を軽く抱きながら一緒に歩いて来た時も感じ取ってはいたのだが、よりそれが実感できた。か細い骨、柔らかい肉体、必死に隠してはいるが怯えている。ただのか弱い女の子。世間から恐れられている闇の森の魔女とはとても思えなかった。気丈に振舞ってはいるが、本当は怖くて堪らなかったに違いない。
“この人を、守らなくては”
オリバー・セルフリッジは強くそう思い、同時にそれまで意識していた劣情が引いていくのを感じていた。
それからしばらくすると、彼女の身体が大きく弛緩するのが分かった。どうやらようやく安心をしてくれたようだった。心地良さそうに眠っている。
これは後になって彼女自身から聞いた話だ。
この時は、まだ彼女は彼に対して好意を抱いていた訳ではなかったのだそうだ。むしろ警戒していた。だからこそ、一緒にベッドで眠る事を提案したのだ。
彼女には人の気持ちを感じ取れる魔法がある。わずかに残った魔力でも、身体を密着させればそれが可能であるらしい。
つまり、彼女はオリバー・セルフリッジに何か裏があるのかを、同衾する事で確かめようとしていたのだ。彼に敵意や害意がない事は、ここに来るまでの間で触れ合い感じ取っている。しかしまだ安心はできない。自分を利用するつもりでいるのかもしれない。
彼女はそう思っていたのだそうだ。
がしかし、その“確認”が彼女が彼に好意を抱く決定的な原因になってしまった。
“この人…… 優しい。それに、本気でわたしを心配している”
服越しではあるが、触れ合っている身体から感じ取れる彼の気持ちは、彼女を安心させるのに充分過ぎる程の善意に満ちていたのである。
そして、
――自分を心から想ってくれている、心優しい人間に触れている事は、とてつもなく心地良かったのだった。
彼女は今まで味わった事のない優しく温かい気持ちに包まれて眠りに就き、そしてその感覚は夢の中でも一晩中続いた。
朝になって目覚めると、すっかりとアンナ・アンリのオリバー・セルフリッジに対するとげとげしい態度は消えていた。代わりに、遠慮がちではあったが、彼に甘えるようになっていた。
「……なるほど。それで闇の森の魔女は、あなたに好感を抱くようになった、と」
話を聞き終えると、マーゼ・リーメはそう言った。
ベルベットロードの娼婦達は、オリバー・セルフリッジの存在を必死に隠していたようだったが、それは彼が今話した内容と一致する。アンチ魔女団体に知られないようにする為だろう。知られたら、彼は動き難くなってしまう。もっとも、いつのタイミングかは分からないが、今は既に知られてしまっているようだが。
また、彼女が調べた闇の森の魔女の半生に照らしても、闇の森の魔女が彼に好意を抱くのは納得ができる。
隔絶した森の中で暮らし、孤独に苦しんでいた闇の森の魔女は、人との繋がりを求めて治療する話を引き受けたはずだ。ところがそこで襲撃を受け、彼女を守ろうとしたとはいえ、娼婦達も彼女に危険がある事を伝えてはいなかった。つまり、闇の森の魔女、アンナ・アンリは交流を期待していた人々から裏切られてしまったのだ。恐らく酷く傷ついただろう。
そこに彼、オリバー・セルフリッジが現れた。彼の話を信じるのなら、彼は真心から彼女を心配していた。その気持ちに触れて、彼女が癒されたのは想像に難しくない。
人は不安状態においては親和欲求が高まるのだと言う。誰かと仲良くなりたいと思う気持ちが強くなるのだ。魔力が枯渇した状態でアンチ魔女団体に襲われて怯えていた彼女が、安心できる相手と親密になりたいと思うのは自然な心理でもある。
話の整合性は取れているように思えた。
が、それでもマーゼ・リーメはオリバー・セルフリッジの話を疑っていた。
「――でも、だとすればおかしいわね。あのパーティ会場で、闇の森の魔女はあなたを酷く憎んでいた。あなたに強い好意を抱くようになったのは、認識阻害魔法の結界が張られた後の事よ」
強い視線で彼を見やる。
何かしら彼が嘘を言っていると考え、彼女は彼を追及しているのだ。それを聞くといかにも人の好さそうな顔を困らせながら彼は言った。
「……いえ、あの、その件も誤解があるんです。あの時、アンナさんは確かに怒っていたのですが、別に僕を敵視していた訳じゃなく、ちょっとした行き違いがありまして……」
「行き違い?」
「それも説明します」
そう言って、彼はあの時パーティ会場の認識阻害結界の中で、何があったのかを話し始めた。
パーティ会場で給仕をしていたオリバー・セルフリッジは、凸型に外に伸びている場所に入っていった。その一角には人はおらず、飲み干したグラスや酒瓶、食べ尽くされた後の食器が放置されてあったからだ。
食器を片付けようと手を伸ばして、彼は誰かが自分の背後に迫っている事に気が付いた。
振り返る。
そこには闇の森の魔女、アンナ・アンリの姿があった。彼女は怒りを滲ませた表情を彼に向けていた。
……ただ、その表情からは、怒りよりも悲しみをより強く彼は感じ取っていたのだが。
頬を震わせながら彼女は言う。
「認識阻害の結界を張りました。この一角には誰も入れないし、誰もわたし達を認識する事もできません」
――それが、彼女が一般社会に出て来てから初めて彼にかけた言葉だった。
その三か月ほど前、騙し討ち事件の後、アンナ・アンリがオリバー・セルフリッジと別れてから一週間ほどが過ぎた辺りの事、彼女は闇の森の中に籠るのを止め、仮の醜い老婆の姿を解き、本来の自分の姿で外の世界、一般社会へと出て行った。それは理性による判断などではなく、気持ちが抑えられなかった事が主要因だった。
“セルフリッジさんに会いたい”
それは外の世界に対する憧れではなく、彼女の頭の中にあるのはただただオリバー・セルフリッジの事だけだった。そしてその為に、彼女は初めての人間社会を立ち回ったのだ。彼は国家資料室に勤務していると聞いていたから、比較的容易に彼の居所は突き止める事ができた。彼の暮らす地域にいる人間達と契約をし、彼と出会う機会がありそうなイベントに顔を出す。ただ、彼女は彼に自分からコンタクトを取るような真似は避けていた。
「アンチ魔女団体に、僕が何をやっているのかバレる訳にはいかないのですよ。ですから、ここでの出来事は内密にお願いします」
そう、セルフリッジからお願いされていたからだ。
闇の森の魔女である自分が、一介の公務員に過ぎない彼に話しかけるのはいくらなんでも不自然だ。その程度の事は、彼女にも判別が付いていたのだ。
だが、それでも彼の近くにいれば、いずれは彼の方から話しかけてくれるものだと彼女は思っていた。理由は適当に捏造できる。彼は国家資料室に勤務していて、資料を自ら作成する事もあるそうだから、その為に彼女に取材をしたいという態にしても良いし、単純に彼女が可愛いから誘ったという事にしても良い。実際、彼女に声をかけてくる男は少なくはなかったのだ。
が、いつまで経ってもセルフリッジは、アンナに話しかけようとはして来なかった。
“無視されている?”
既に何度か顔は見ている。だが、彼は彼女を見ようともしなかったのだ。もしかしたら、既に誰か恋人がいるのかとも疑い、使い魔に監視をさせたりもしたが、そんな様子もなかった。一度、使い魔が彼を狙う暴漢を発見したので撃退したくらいで、それ以外は何もなかった。多少の危険は承知で、自分から話しかけても良かったが、その頃になると彼女も意地になっていた。
“絶対に彼から話しかけさせてみせる!”
ただ、やはりいつまで経っても彼は自分にコンタクトをして来ない。やがて彼女は自分が疎まれているのではないかと疑心暗鬼になり始めた。
――自分が嫌いなら嫌いで構わない。でも、だからって、こんな陰湿な手段に出る事はないではないか。はっきりと言葉で言ってくれれば良い。
ネガティブな感情に支配された彼女は、そんな風に思うようになっていた。
……そして、ある日、彼女は今度開かれるパーティで、彼が給仕として参加する事を知ったのだった。
それは彼女にとって出席する必要のないパーティだった。しかしオリバー・セルフリッジが来る事を知った彼女は出席を決めた。今まで彼の顔を見た時とは場の雰囲気が違う。パーティ会場ならば、彼も自分に話しかけ易いのではないかと考えたのだ。
が、パーティが始まっても、彼は普通に給仕の仕事をこなすだけで、やはり今までと同じ様に彼女を見ようともしないのだった。
“やっぱり、無視されている!”
そして、そこに至って彼女の我慢は限界を迎えた。それでセルフリッジが一人誰もない場所に食器を片付けに向って行くのをチャンスだと考え、二人だけで話せるように認識阻害の結界を張ったのだ。
アンナ・アンリは、涙を滲ませ、怒りの表情でオリバー・セルフリッジを見つめていた。
“どうせ、面倒くさい女だとでも思っているのでしょう!”
誤魔化すのか、呆れられるのか、文句を言われるのか。
どんな言葉を投げかけられても自分は酷く傷つく。その予感に怯えながらも、それでも彼女は彼に背を向けられなかった。
彼が寄って来る。彼女は身体を竦ませた。
彼の表情は見えなかった。いや、彼女は怖くて見られなかったのだ。
何を言われるのか……
自分が彼に過剰に執着している自覚はあった。きっと変なのは自分の方なのだ。悪口を言われる覚悟をする。
しかし、それから彼は、
「すいません。随分と辛い想いをさせてしまったみたいで」
と言って彼女を抱きしめたのだった。
彼女に伝わって来たのは、彼女に対する嫌悪感などではなく、あの晩と寸分違わない自分に対する優しい気持ちだった。彼には身体が触れ合えば自分には相手の気持ちが分かるのだと教えてあった事を思い出す。そしてその瞬間、彼女の中にあった彼への感情が一気に反転した。親愛の情、肌の温もり。心と身体を満たしていく快感。今度は安心感で涙が滲んだ。
彼女は自然と彼を抱きしめ返していた。そして、自然と口を開く。
「どうして、無視なんかしていたんですか!? わたしがどれだけ苦しかったか……」
文句ではあったが、その言葉はどちらかと言えば甘えに近かった。それを分かっているのか彼は落ち着かせるように彼女の頬を撫でながら返す。
「すいません。本当は僕も直ぐに話しかけたかったのですが、監視されていたものですから」
それにキョトンとした表情を彼女は見せる。
「監視?」
そして少し考えると思い当たる点があったのか、
「ああ、あの人達ですかね。あなたを狙っている人達がいたので、暴漢の類かと思い、撃退し、行動を封じておきましたが」
などと返したのだった。
「――ちょっと待って」
そこまでのセルフリッジの話を聞いて、マーゼ・リーメは彼を止めた。確認したい事があったのだ。
「それって、もしかしたら、アンチ魔女団体の連中のこと? あなたを狙って返り討ちに遭ったって言っていたけど」
頭を掻きながら彼は返す。
「ああ、やっぱりそうだったのですか。バレていたのですねぇ、僕の存在は。少々彼らを侮っていました」
呑気だ。
そんな彼の様子にこめかみを押さえながら彼女は続ける。
「つまり、闇の森の魔女……、アンナ・アンリが突然闇の森から一般社会に出て来たのは、あなたに会いたかったからだって言うの? 仮の醜い老婆の姿を捨て、本当の姿をさらしたのも、好意を抱いている異性に醜い姿を見せたくないっていう乙女心?」
「恐らくは」
彼女は男達がしていた闇の森の魔女に関する話を思い出していた。闇の森の魔女は、男に免疫がない。だからアプローチをされれば簡単になびくに違いない。彼女はその男達の予想を“そんなはずがない”と内心で馬鹿にしていたのだが……
――正しかった訳だ。
ただし、彼らには予想外の事があった。彼女は既にオリバー・セルフリッジに落とされていて、そして思いの外、一途なタイプだったのだ。そう考えるのなら、あのパーティ会場でアンナが綺麗な白いドレス…… しかもやや露出の多いドレスを着ていた事も納得ができる。あれは、オリバー・セルフリッジただ一人に見せる為に選んだドレスだったのだろう。
「……でも、まだ分からない事があるわ。あなたは一体どうしてアンナ・アンリを無視していたの? 彼女があなたを追って来たのなら、いいえ、仮に追って来たのでなくても、そんなエピソードがあるのなら、声をかけて当然でしょう?」
その質問に彼は困ったような顔でにっこりと笑うと、
「その理由は実にシンプルです」
と返した。
“シンプル?”
と、彼女は疑問に思う。そしてそれから彼は彼女を指差しながらこう続けたのだった。
「その原因はあなたですよ、公安調査局所属の調査官、マーゼ・リーメさん」
“――へ? 私?”
それを聞いた彼女の頭の上には大きなクエスチョンマークが浮かんでいた。それからセルフリッジは、再びアンナ・アンリとの話の続きを語り始めた。
アンナ・アンリから、自分が暴漢に狙われていたという話を聞いて、オリバー・セルフリッジは驚いた様子で返す。
「なんと暴漢から守ってくれていたのですね。ありがとうございます。でも、その話とは別です。監視をされているのは僕ではなくて、ですね……」
アンナはその言葉に首を傾げた。
「セルフリッジさんではない?」
では、一体、誰なのだろう? と思っているようだった。
「はい。アンナさん。監視をされているのはあなたなんですよ」
その言葉に、彼女は驚いた顔を見せた。
「え? わたしを監視って、本当ですか? 何の魔力も感知していませんが」
彼はそれに数度頷く。
「それはそうでしょう。監視担当者は魔力を使っていませんから」
そう言うと彼はパーティ会場の方を目で示す。その視線の先には、クールでいかにも仕事ができそうな女性がいて、不自然にこちらを凝視していた。
「彼女の名前は、マーゼ・リーメ。表向きは王国経理部所属の調査員ですが、恐らく本当の所属は公安調査局の調査官です。相手の微妙な表情の変化や態度から心の動きを察する術を身に付けていると考えた方が良いでしょう。
多分、今はアンナさんの認識阻害結界に混乱している所為で、はっきりとこちらを凝視してしまっていますが、いつもはもっとさりげなくアンナさんを監視していたはずです」
その彼の説明にアンナは納得したような顔になる。
「ああ、そう言われてみれば、よく顔を見るような気がします」
「はい。何処で彼女がアンナさんを監視しているか分からなかったので、僕はあなたにコンタクトを取れなかったのですよ。表情から心理を読み取る能力に優れているのなら、アンナさんと目を合わせただけで僕らの関係を勘繰られてしまうかもしれませんし」
その彼の説明で、自分の苦しみを思い出したのか、アンナは「なるほど。全て、あの女の所為なのですね」と憎らしげに言った。その反応に彼は慌て彼女を宥める。
「いえ、あの、彼女も国に命令されて仕事で監視していただけですから、どうか穏便に」
すると彼女は少し顔を膨らませて、「分かっています。子供じゃないのですから。ただちょっと思い出してムカついただけで」と返す。
「でも、僕ももう少し工夫をするべきでした。アンナさんには、まるで僕が無視をしているように思えたのでしょう? アンナさんも僕に話しかけて来る素振りを見せていなかったので、大体の事情は察してくれているものだとばかり思っていたもので」
それを聞いて、まるで言い訳をするように彼女は返す。
「……それは、慎重に行動した方が良いとは思っていましたから。アンチ魔女団体に、あなたが何をしているか知られてはいけないっていうのは聞いていましたから」
ただ、それから思い直したのか、直ぐに「嘘です。慎重にしようと思っていたのは最初だけで、本当はちょっと意地になっていました」と正直に白状した。そして表情を急に明るくすると、彼に抱き付いて彼女はこう告げた。
「とにかく、あの女…… と言うか、公安調査局にバレないようにすれば、あなたに会いに行って良いのですね?」
キョトンとした顔でセルフリッジは返す。
「はい。それはもちろん。でも、可能なのですか?」
「わたしを誰だと思っているのです? 闇の森の魔女ですよ? それくらい容易いです」
そう言った彼女は心の底から嬉しそうだった……
“……私がアンナ・アンリを監視していたから、この男は彼女に近付けなかった?”
オリバー・セルフリッジの話を聞き終えて、マーゼ・リーメは軽く赤面していた。
“これは、もしかしたら、……、いえ、もしかしくても、観測者効果だわ!”
観測する事で、観測対象に影響を与えてしまう現象。彼女はそれを充分に排除できていると思っていたのだが、どうやらそれは慢心であったらしい。闇の森の魔女の任務に就く前に受けた「驕るな」という同僚の忠告の言葉を彼女は思い出していた。充分に気を付けているつもりだったが、どうやらその通りであったらしい。
ただ、それでも多くの謎が解けて彼女はスッキリした気分にもなっていた。彼の話でどうしてアンナ・アンリが自分に怒りの視線を向けていたのかが理解できた。あれは洗脳ではなかったのだ。アンナ・アンリは感情型の人間に思える。理屈ではマーゼを恨むべきではないと理解しながらも、割り切れてはいなかったのだろう。
「納得していただけたようですね」
表情から彼女の心中を察したのか、セルフリッジはそう言う。軽く溜息を洩らすと、彼女は返す。
「ええ、まあ。少なくとも国家資料室に勤めるただの公務員に“化け物ども”クラスの能力があるという話よりは説得力があるわ」
明らかに自分の判断ミスだ。そう返しながら彼女は、これからどうこの件を処理をしようかと頭を悩ませていた。
「それは良かったです」とそれに彼。笑っている。
「それで、できれば僕としては、あなた達とは良好な関係を築いていきたいと思っているのですがね」
彼の言わんとしている事は彼女に直ぐに伝わった。“アンチ魔女団体に、この事を伝えてくれるな”と言うのだろう。そして、アンチ魔女団体とではなく、自分達と協力していこう、と。
“さて…… どうしようかしらね?”
と、彼女は考える。説得するつもりか、彼が口を開いた。
「僕はただの何の力もない公務員です。ですが、もちろん、アンナさんは違いますよ?」
言われるまでもなく、彼女にもそれくらい分かっていた。
闇の森の魔女、アンナ・アンリ。
彼女の協力を得られるようになるのは公安調査局にとって大きいだろう。そして、社会的影響力の強い相手と取引関係にあるアンナは既にアンチ魔女団体から狙われ難くなっているが、それでも公安調査局と協力関係を結ぶ事は彼女にとってもメリットがあるはずだ。
――そして、オリバー・セルフリッジ。
彼はまだアンチ魔女団体から狙われる魔法使い達を助ける気でいるに違いない。だから公安調査局を敵に回したくないのだ。
お互いの利になる。
そう彼は判断しているのだろう。
「そうね。それについては少し考えさせてもらって良いかしら? 上と話さなくちゃ何とも言えないし」
実を言うと、マーゼ・リーメはオリバー・セルフリッジを軽く馬鹿にしていた。闇の森の魔女を怒らせさえしないのであれば、彼と協力関係を結ぶ事に価値などないと思っていたのだ。
少し考えると、彼を軽んじる意味も込めて彼女は続ける。
「……でも、とにかく、あなたに任せた“火山の主、魔王ロメオ・リメロの威嚇行動”への対処依頼はどうにかして取り下げないとね。対処できるはずがないのだもの」
が、彼はそれにまるで何でもない事のようにこう返すのだった。
「あ、ご心配なく。その件なら、既に片付けましたから」
“――はい?”
と、それを聞いて彼女は目を丸くする。彼の発言は俄かには信じ難く、何かの勘違いだと彼女は考えた。
「“片付けた”って、どういう意味? 威嚇行動を止めさせたって事?」
「はあ。そもそも威嚇行動ではなかったのですが、そうなりますかね?」
やはりその言葉を彼女は信じられない。
少し考えると口を開いた。
「闇の森の魔女を頼ったの?」
闇の森の魔女、アンナ・アンリならば或いは可能かもしれないと思ったのだ。
「いえ、アンナさんと僕の関係を知られたくはなかったので頼りませんでした」
「じゃ、どうやって?」
頭を軽く掻くと彼は口を開いた。
「まず、ロメオ・リメロさんは、定期的に王国の近くで、天空に向かって凄まじい規模の威嚇砲撃を行うという挑発行動を繰り返している…… という事になっていましたよね? ですが、本人はそうは言っていないのですよ。エネルギーの放出の為だと通知して来ているじゃないですか」
「いや、でも、そんな通知をそのまま信じられるはずが……」
「ええ、まぁ、これが国同士のやり取りならば、そのまま信じるなんてあり得ないでしょう。政治家や官僚はそういった建前をよく使いますからね。
でも、ですね、彼はそういう類の人種ではないのですよ。僕が調べた限りでは、火山を利用した魔法研究に熱心な方のようで…… どうもログナさんの影響を強く受けているようなのですが、そういった研究者の一人です」
それにマーゼは反論する。
「でも、だったらどんな理由で、砲撃なんて!」
セルフリッジは冷静に応える。
「だから、さっきも言ったように、彼は通知して来ているじゃないですか。“エネルギーの放出の為だ”と」
彼女は動きを止める。思い出していた。彼が火山活動の記録を調べていた事を。
「ロメオ・リメロの棲む火山の活動が低下している可能性があるって話は聞いていたけど、まさか、それって……」
「はい。ロメオ・リメロさんが、火山活動のエネルギーを吸収しているからですよ。そしてそれを魔力に変換して蓄えていた。ただ、火山活動のエネルギーは膨大ですからね、貯蔵可能量には限界があります。だから、ある程度溜まると、彼はそれを影響が少ないだろう場所を選んで放出していたのです。
手紙でやり取りしたのですがね、空に向かって撃っても、自然環境に影響を与えてしまうそうで、どんな場所でも良いってもんじゃないらしいです。それが偶然、王国を威嚇するような場所になっただけのようです。
でも、なら解決方法は簡単です。他にそのエネルギーの使い道を用意してやれば良いのではないですか?」
それから彼は何らの設計図のようなものを取り出した。水車のように見えるが、少し違っている。
「これは灌漑設備用の装置の一つで、水を強制的に流す能力があります。このインフラを整えれば、今まで農業が不可能だった多くの地域で田畑を拡げられるようになると期待されているのですが、現状では、魔力不足で不可能だと言われていました」
そこまで聞けば、彼の計画が彼女にも容易に分かった。
「つまり、その装置の活用の為に、魔王ロメオ・リメロに魔力を分けてもらおうという話?」
「はい。これも手紙でやり取りしたのですが、彼としても余分な魔力を有効活用する事に異論はなく、快く了承してもらえました。今まで無駄に天空に向かって放出していたエネルギーは、今後は灌漑設備の運用の為に使われます。これは国としても有難い話なのじゃないでしょうか? 農業が栄えると思いますよ」
あっさりと応えるセルフリッジを、マーゼは驚いた顔で見つめていた。
「それだけの事を、あなたはたった一人で考えたの?」
「はい。実は以前から、疑問に思っていましてね。ロメオ・リメロさんが国に喧嘩を売る理由がありませんから、どうしてあんな砲撃を繰り返すのだろう? あのエネルギーを有効活用できたら面白いのに、と」
それを受けて、彼女は思っていた。
“そんな常識破りのアイデアを簡単に出したって事? ひょっとしたら、この男は本当に怪人なのじゃないかしら?”
何にせよ、公安調査局にとっても、オリバー・セルフリッジと協力関係を結ぶ価値はありそうだった。