雨降って地固まる
土砂降りの中、絵里から絶縁の宣告を受けたあの日から早1週間が経とうとしていた。
あの時抱いたわだかまりも、徐々にではあるが薄れつつあり、まるであの宣告で全てが清算されたかのように感じていた。
勉学の方は順調...ではないが、これから努力することとしたい。交友関係も...うん、これからだ。
ちなみに、言うまでもないが、例のホワイトケイオスなるオタサーには、あれ以来二度と近づこうとはしていない。
そもそも、大学で友達を作るのは難しい。他のコミュニティが必要だ。試しに、アルバイトでも始めてやろうかな。
そんなことを思いながら、いつも通り生協でカップ麺を買って啜っていた。もちろん、絵里が働くレジの列は避ける。
飯を食い終わると、教科書とレジュメを読み込むことにした。
やはり数十分もしない内に集中が途切れる。
息抜きがてら、スマートフォンを手に取ると、間違って動画サイトアプリに指が触れてしまい、諸星メルルのアーカイブが画面に映る。
あんな大々的な引退宣言をしておきながら、絵里はまだチャンネルを残していたのだ。
なんだ、まだ未練があるんじゃないか。俺が心の中で、そんな軽口を叩いた時だった。
「やあ。」
聞き覚えのある声だった。
数週間前のことだから、顔も覚えてる。例のオタサーの代表、茶髪メガネだ。
俺の表情を一瞥した茶髪メガネは、「そんな顔しないでよ。」と苦笑いする。
俺自身俺の顔を見ることはできない。しかし、顔が引き攣ってるのが分かる程度には、表情筋が強張っているのを俺は感じた。
「なんでしょうか。」
俺は、茶髪メガネに応じる姿勢を見せておく。
「いやあ、あの新歓の最中に突然いなくなっちゃったから、体調でも悪くなったかと心配したけど、元気そうで何よりだよ。」
相変わらずニコニコとした表情で、茶髪メガネは俺を気遣ってくれるような発言をする。
「ところでさ、秋山くんは、ウチに入る気はあるの?」
「・・・。」
俺は沈黙するしかなかった。
「まあ、こんなことをSNSに書いてるようじゃ、そんな気はないだろうね。」
そう言うと、茶髪メガネは、自らのスマートフォンを取り出し、画面を俺に見せた。
「オタサーとか言いつつ、陽キャノリなの、マジでクソ。新歓、途中で抜け出してやったわ。」
俺のSNSアカウント「厭世的なオタク」の投稿であった。
あの日、公園で泣きながら書いたものだ。それを見せつけられた俺は、全身から汗が吹き出そうになった。
「いやあ、たまたま、見つけちゃってね。」
そう言いながら茶髪メガネは薄ら笑いを浮かべる。
「まあ、ウチのサークルには君みたいなタイプ、正直・・・こちらから願い下げって感じだよ。」
茶髪メガネは溜めるようにそう言った。俺の心臓が一つズキンと大きな脈を打った。
「君は人との繋がりを求めてウチの新歓に来たんだろ。でも、こんな周りのことを心の奥底で見下すような人間が人と繋がれる訳ないよね。過去の投稿も見させてもらったけど、この投稿だけじゃないよね。こんな風に周囲のことを見下したようなことを言っているのは。」
そうやって、茶髪メガネは淡々と俺の矛盾を指摘した。
「そうそう。大事なことを言い忘れてたけど、君、ウチの1年の女の子が君の陰口言ってるのを聞いて、あの場から逃げ出したんだろ?あれは、全部俺の差し金なんだ。女の子達の名誉のために言わせてもらうけど。あのアカウントの持ち主が君だってことは、来る前から分かってたよ。あの図書館で中指立ててる投稿あったでしょ?ちょうど君が図書館前で中指を立てているところを見かけてね。調べてみたら、君のアカウントが出てきた訳だ。」
茶髪メガネの追及に対して俺は抵抗する意思などなく、すっかり身体の力は抜けてしまっていた。
「全部、最初から君を排除しようと思ってやった訳。」
茶髪メガネはそうやって締めるようなセリフを最後に述べた後に一呼吸入れる。
もういい。やめてくれ。いっそのこと、この場で殺してくれ。懇願するような眼差しで俺は茶髪メガネはを見つめる。
しかし、茶髪メガネの口撃は留まることを知らない。
「しかし、ところで、君のお気に入りのこの諸星メルルってVtuber?君のアカウントでアーカイブのリンクをよく貼り付けてたから
僕もちょっとは見させてもらったよ。君みたいな周囲から浮いてるオタクは好みが独特だね。
チャンネル登録者数は1000人と多くないし、やっている企画は代わり映えもないし・・・。こんなコンテンツの何が良いんだろう。」
絵里は関係ないだろ。
そう思った途端、俺は歯を食いしばり、力が抜けきっていた拳に力が入り始めた。
「大体、背景に絵を貼ってあるだけだけで、全然モデルが動かないし、そもそもこんなのVtuberと言えるのかな。
全然、基礎ができてないし、正直本人にやる気が感じられないよ。」
そう言われた瞬間であった。俺の中で抑圧されていたものが、湧き上がるような気がして、
「馬鹿にするな・・・。」
と無意識に声に出していた。
「え?」
俺はスゥーッと大きく吸い、
「俺を馬鹿にしていいけど、メルルを馬鹿にするな!」
と周囲の空気が振動するような怒声を茶髪メガネに投げつけていた。これまで出したことのないような、腹の底から出した声であった。
「確かに、クオリティは低いかもしれない。俺も最初はそう思った。でも、沢山見ている内に、一生懸命やってるのを見て、俺は応援したくなったんだよ!
ちょっとしか見たことないようなヤツが、馬鹿にするな!」
気がつけば、俺は茶髪メガネの胸ぐらを両手で掴んでいた。
「悪かった。少し言い過ぎたよ。」
辺りを気にしながら、茶髪メガネは謝罪の言葉を述べた。茶髪メガネは離してくれと言わんばかりに俺の両腕をポンと掴む。
ようやく俺は周囲の視線がこちらに向けられていることに気がつく。我に返った俺は、茶髪メガネを掴んでいた両手を離す。
「まあ、でも、そういうことだから。金輪際ウチのサークルには近寄らないでくれ。」
そう言いながら掴まれた襟の部分を正すと、茶髪メガネはその場を去っていった。
俺は辺りを見渡すと、衆目の中から見覚えのある大きな瞳が、こちらを見つめているのに気がついた。
絵里だ。目が合うと、絵里はバツが悪そうな表情をして、こちらに背を向け、去っていった。
俺は家のベッドの上で悶えていた。
「メルルを馬鹿にするな!」
頭の中で俺の痛々しいセリフがこだまする。
なぜあんなセリフがあの場所であの大声で出てきたのか。勿論茶髪メガネに煽られて衝動的にというのは分かっているのだが、抑えられただろ。
大体、何が馬鹿にするなだ。ついこの間まで馬鹿にしていたのは俺の方だろ。一人虚しくツッコミを入れるが、むず痒さが消えることはない。
顔から火が出るとかそんな月並みな言葉では到底今の状況は表せない。顔が焦げ付きるとかそんな感じだ。
もう考えるのは、やめだやめ。頭の中を他のもので埋めようと試行錯誤しているときであった。
スマートフォンが鳴る。画面を見てみると「早川絵里」からのメッセージの通知であった。
「カーテンを開けて」
カーテンを開いて、窓の方を見ると、隣家の絵里が窓からこちらを見ていた。右手に何かを持っている。
ゆっくりと窓を開けると、絵里が右手の物をこちらに投げつける動作をする。
白い物がゆっくりとこちらに向かってくる。紙飛行機だ。
ゆらゆらとこちらに近づいて来る。
俺は慌てて窓を開けて、こちらの窓の高さにギリギリ届くか届かないかくらいの高度の紙飛行機を下からすくうように手で取る。
絵里は一瞥してこちらの様子を確認すると、カーテンを閉じた。
これは、5年前まで送られてきた絵里からの”合図”だ。
何か俺に伝える時にチラシの裏にメッセージを書いて紙飛行機にして投げつけてくるのだ。
とすると・・・。
紙飛行機を広げると、不動産屋のチラシの裏に
「19じ いつもの公園にて待つ」と書き殴られたような文字があった。
決闘の申込みような文言に俺は震えるしかなかった。
さて、チラシの裏に書かれていたとおり、19時に「いつもの公園」に来た。
先週、絵里に詰められた場所だ。
待ち構えていたかのように、絵里は腕を組みながら仁王立ちしていた。
前回はビンタされたけど、今回は殴られるのではないだろうか。
まあ、無理もない。あんな大声で自分がやってる活動について衆目に晒すような言動をすれば、本当に冷やかしてるとしか思えないだろう。
おそるおそる絵里の方へ歩を進める。
絵里は絵里でこちらを伺うような感じで俺をみつめていた。
公園には対峙する俺達しかいない。しばらく沈黙が続いた。
しびれを切らした俺は何か声をかけようかとすると、
「あのっ!」と絵里の方が声を出した。
「ごめん・・・。アタシ、アンタにきつく言い過ぎた。」
絵里は、さっきまでまっすぐこちらを見つめていた視線を、左下へと反らす。
ん?殴られるんじゃないのか?いやいや、謝るべきは寧ろ俺のほうだろ。
そう思った俺は、
「いや・・・。」
と声を出すが、それを遮るように絵里が
「・・・れしかった」
と何だか落ち着かない様子でボソボソと話す。
「え?」
俺は素っ頓狂な声で聞き返すと、
「嬉しかったって言ってるの!あの茶髪野郎がアタシの悪口言ってるのに対して、アンタが言い返してくれたことに!」
と絵里はハッキリと大声で俺に伝える。
「1年近くもやってると、アンチみたいのも出てくるのよ。今日、あの茶髪野郎が言ったみたいにクオリティが低いとか。評論家気取りで本当ムカつく。」
絵里は、毒舌で日頃の鬱憤をあらわにする。
「応援してくれるファンもいるんだけどさ。やっぱり、コメントだけだと寂しかったというか。勿論、コメントは嬉しいんだけど、でも、ああやって声として応援してくれる気持ちが聞けて嬉しかった。」
絵里は、頬を赤らめながら右手で左肘をさするような仕草をする。5年前と全く変わらない。照れている絵里だ。思わず俺は頬が緩んでしまった。
「何笑ってるのよ。」
絵里は頬を膨らませる。これは怒っている絵里だ。
このまま俺の最初の発言が無かったかのように終わればいいと一瞬甘いことを思ったが、
絵里にどうしても最初の発言を謝らないといけないと思った。
「最初、何も考えずにVtuberは楽そうだとか言って、俺こそ悪かった。ごめん。」
俺は頭を下げた。
「私も久しぶりにアンタに会って緊張してて、ツンケンしちゃってたもの。お互い様よ。それに、あの後沢山動画見てくれたんでしょ。」
「なんで分かるんだ・・・。」
「だって、チャンネル登録者にアンタの名前が乗ってて、それに最近全然見られていない色んなアーカイブの再生数もちょこちょこ上がってたから、もしかしたらアンタが見てるんじゃないかって。」
そういえば、普段使っている本名のアカウントでチャンネル登録したのであった。爪が甘いというか何というか。
「最初は冷やかしなんじゃないかと思った。でも、その割には色んなアーカイブみてるなって思ってて、今日のアンタのセリフで確信した。」
そう言うと絵里は大きく息を吸いながら、
「『諸星メルルを馬鹿にするな!』って。」
と絵里は邪悪な笑みを浮かべながら、ワザとらしく俺の恥ずかしいセリフを大声で周囲に響かせるように言う。
やれやれ、勘弁してくれよ。俺は頭を抱えた。
絵里はキラキラとした眼差しで真っ直ぐこちらを見つめながら、
「久しぶり。真宏。」
と俺の名前を呼び、右手をこちらに差し出す。
「ああ。久しぶり。絵里。」
俺もそう言いながら応えるように右手を差し出し、俺達は互いの手を強く握り合い、5年前のように笑いあった。
「あ、そうだ。アンタの『Vtuberは楽そうだ』って発言を許す代わりに、お願い聞いてくれる?」
あれ、さっきの謝罪で許してくれたんじゃないのか。一瞬そう思ったものの、さっきの謝罪だけで罪滅ぼしができたとも思っていない。
「おう。何でも言ってくれ。」
俺は快諾した。後で思えば、この時、俺は易易と要求を飲んでしまったものだ。
「じゃあ、諸星メルルのプロデューサーやってみない?」
え?
続く