XXⅤ【女騎士、幸福で腹を満たす】
セフィロード王国の空に帳が降りる。
王都中の建物の窓から温かな蝋燭の光が暗い夜道を照らす。
そんな王都の治安を護る王都警備騎士団の屯所の自室で深い眠りにつく新人騎士のアリス。
小さな寝息を立てて気持ち良さそうに眠っているアリスの静寂に満ちる部屋に、外から軽快にノックする音が響く。
思わず眠っていたアリスもベッドの上で上半身を速やかに起こした。
「は―――はい!」
アリスの声を聴き、扉の向こうの人物が明るい声で部屋の中のアリスに声をかけた。
「起きてるかーい? もう夕飯の時間だよ」
「あ、すみません! すぐ行きます!」
アリスは軽くついた寝癖を手櫛で直し、皺の付いた服を正して急いでドアを開けた。
ドアを開けたそこに居たのは、バンダナとエプロンを身に着けた膨よかな体系の女性。
年齢は凡そ四十代と言った所だろう。
その佇まいだけでも、その女性が何者なのかすぐに理解出来た。
そもそも事前に聞いていたルークの話では、この屯所にいる女性は自分ともう一人しか居ないのだから。
「おはようさん。よく眠れたみたいだね?」
「はい。お陰様で…」
「そいつは良かった! 女の子の入隊なんて初めてだから心配したんだよ? けどその様子なら大丈夫そうだね」
「お気遣いありがとうございます。えっと……女将さん、ですよね?」
アリスが半信半疑で尋ねると、目の前の膨よかな彼女は満足気に笑みを浮かべた。
「あぁそうだよ。王都警備騎士団駐屯所専属料理人兼料理長。皆大好き“女将さん”のリディアン・バムセだ。よろしくね!」
「今日から騎士団に入団しました。アリスです。こちらこそよろしくお願いします」
そう言うと、リディアン・バムセ―――女将さんは女性にしては大きな手をアリスの前に差し出した。
アリスはそれに応える様に、自らも右手を差し出して、女将さんの右手を握り返す。
ぎゅーっと強い力で女将さんはアリスの手を更に握り返すが、痛みは無く、寧ろ気を許しているからこその容赦の無い力加減だと受け取れた。
見た目通りに器の大きな女性だ。
「アリスだね。こんな綺麗な子が入団してくれるなんて嬉しいよ。お腹は空いてるかい?」
「えぇ。ペコペコです」
「それじゃあ案内も兼ねて、この女将さんが直々に食堂へ案内してあげようじゃないか。ついておいで!」
女将さんの後に続いて、アリスは食堂へ案内された。
基本的に部屋には扉が備え付けられている駐屯所の中で、唯一扉が設置されていない大きな部屋に連れて来られた。
扉の代わりに白い暖簾が垂れ下がり、その隙間からえげつない程食欲を掻き立てる匂いが容赦無く鼻腔を擽って来た。
「良い匂い…。お腹空いたぁ…」
「アッハハハ! そりゃあ良かった。空腹が一番のスパイスってね。さぁ中に入んな。席は自由だよ」
「はい!」
そう言って、女将さんは先に暖簾を潜り、食堂の中へ姿を消した。
アリスもその後に続いて暖簾を潜る。
暖簾越しで遮られていた団員達の談笑の声が一気に大きくなる。
食堂の中いっぱいに均等な間隔を取って並べられたテーブルとイスに適当に座って、並べられた食事を口に運ぶ他の団員達。
団員達が手を伸ばしている料理はどれも大盛で尚且つ美味しそうだった。
それを見たアリスは口の中に溢れ出た唾液をゴクリッと飲み込む。
―――マズイ…。お腹空き過ぎて限界…!
アリスは腹の虫が盛大に鳴き出す前に席に着く事にした。
何処か開いている席が無いかとキョロキョロと辺りを見渡していると、少し遠くから自分の名を呼ぶ声が聴こえた。
「おーい、アリス。コッチコッチ!」
「あ」
その声は、もう今日一日で大分聞き慣れてしまった声だ。
「ローグ」
「おう。席探してんだろ? ここ開けといたぜ」
「ここ」と言いながら自分の隣の席を指さすローグ。
アリスは迷わずその席に向かって腰を下ろした。
「ありがとう」
「随分とぐっすり眠ってたみたいだなぁ?」
「何で分かるのよ?」
「髪跳ねてる」
「えっ」
ニヤッと笑みを浮かべながらローグは自分の髪をツンツンと指さす。
アリスはギョッとしてすぐさま手櫛で髪を撫でつけた。
すると指摘したローグが肩を震わせて笑いを堪え始めた。
「フッ…クックック…悪ぃ、冗談だッ…」
「………」
アリスは髪を直す手を止め、テーブルの下でローグの足を踏みつけた。
「いてっ!」
「ふん」
「わ、悪かったって…」
アリスは水の入ったポットを手に取って、空だったコップに水を注いだ。
一口飲みながら不機嫌そうに顔を逸らしたら、ローグが手を合わせながら謝罪してくる。
「わ、詫びって訳じゃないが、一人紹介したい奴が居るんだ。今ちょっと席を外してるが、俺等と同じ今年入団したばっかりの同期だ。歳も同い年だし、結構気の良い奴なんだよ。お前も歳の近い団員仲間がいた方が気が楽だろ?」
「……まぁ。そうだけど」
確かに詫びって言える話じゃないが、ローグ以外にも普通に話せる関係が出来ると助かるのは間違い無い。
「同い年って、ローグって幾つなの? 私より年上?」
「俺? 俺は今年で十五だ」
「……え」
―――まさかの同い年だった。見た目が大人っぽいから普通に年上かと思った。
「私も十五歳だけど…」
「マジで!? 俺等同い年じゃねぇかよ! つー事は学年も一年か?」
「うん。時季外れで編入する事になったんだけど、一年生ならまだ皆と殆ど環境は変わらないよね?」
「そうだな。まだ最初の一ヶ月なんて、学園の規則やら各教科の教師やその他教員やらの紹介ばっかりで、それほど深入りした授業内容には入ってねぇな」
「そっか」
アリスはここで、先程訓練中に過った疑問をローグに投げかけた。
「ねぇ。今日って普通に通学日だよね? ずっと訓練してたけど、ローグは学園に戻らなくて良かったの?」
「あ? あーそっか。その説明まだ受けてねぇのか」
ローグは察しが良く、アリスの疑問に正直に答えた。
「大前提として、騎士団は歴代国王陛下の勅命の許で形成された組織だ。それ故に、国の惨事ともなれば最優先で動く事が義務付けられている。それに伴って、国内外で少しでも治安の乱れが生じた際には原則として事件発生後三ヶ月間は、騎士団員は即時出動出来る様に国内の巡回や屯所での訓練を強化させられる。まぁ昔に比べれば大分柔和にされたが、巡回や訓練の強化期間は団長の指示で決行される。今はその期間内って事だ」
「国内外での治安の乱れ?」
「お前は関係あったはずだぜ。ほら、山賊の件」
「あ…」
なるほど。
それで今、騎士団員は学業そっちのけで訓練に精を出してるのか。
「一応学生の騎士団員には別途で補修日が用意されてるから、然程勉学で他の奴等と差が付く事は無いだろうけどよ」
「そうか。それでローグや学生の団員達が通学日関係無く訓練出来たって訳ね」
「まぁ一日訓練や巡回がある場合は、前日に団長から指示がある。今日は何も言われてねぇから、明日は早朝訓練の後は学園に行って良いはずだ。まぁ俺は訓練やってる方が楽しいんだけどなぁ」
「私も訓練の方が好きだけど、推薦状も貰ってるし、ルークが学園案内してくれるらしいから、明日に限っては訓練が休みで良かったよ」
学園の制服も実は楽しみだったりして。
何より、明日はルークと一緒に行動する時間が多い。
それを考えただけでも、早く明日になってほしい気持ちが胸の奥で込み上げる。
アリスが嬉しそうに笑みを浮かべ、皿に盛った料理を美味しそうに口に運ぶ。
そんなアリスとは裏腹に、ローグは面白くなさそうに目を細める。
「………なぁ、アリス。お前と殿下って、ぶっちゃけどういう仲―――」
ローグが何か気になる様な事を言い掛けた。
しかしローグが全て言い切る前に、その言葉を第三者の声が遮る。
「―――ごめん、ローグ君! 使用人の話が長くなって…!」
「あ。遅ぇぞ、カミーユ!」
食堂の暖簾の奥から慌ただしく食堂の中へ駆け込んで来る人影。
強めの癖でクルクルに跳ねた金髪、エメラルドの様な澄んだ緑色の大きな瞳。
アリスより若干背が高いが、同年代の男子にしては小さめの体格。
眉毛をハの字に下げて申し訳無さそうに困った顔で駆け寄って来るその姿は、何故か小動物に見えてしまった。
「はぁ…はぁ…ご、ごめん。こんな長話になるはずじゃ……―――あ」
「ど、どうも…」
自分とローグが座る席に近付いて来たその男子は、アリスと目が合った瞬間、全身に力が入って固まった。
「あー、アリス。紹介するぜ。俺等の同期で俺のクラスメイトのカミーユだ」
「カ…カミーユ・スペンデッツです! スペンデッツ侯爵の甥で、今年から騎士団に入団して、高等部に進級した一年です! よろしくお願いします!」
「ア、アリスです。こちらこそ、よろしくお願いします…」
自己紹介しながら体を直角に曲げて頭を勢い良く下げたカミーユ・スペンデッツ。
その大袈裟な動きに圧され、思わず敬語で挨拶し返したアリス。
と言うか……
―――声、大きい…。
見た目からは想像出来ない程大きな声で挨拶するものだから、今まで食堂で談笑していた他の団員達も話を止めて此方を凝視した。
物凄く気まずい…。
「と、とりあえず……座る?」
「あ、はい…」
アリスに促されて、カミーユ・スペンデッツはそそくさとローグの正面の席に座った。
その様子を見てアリスは意外に感じた。
失礼だが、見た目からも自身が無さそうなカミーユ・スペンデッツと、常に自信に満ちた態度でいるローグ。
この二人の仲が良いとは、不思議でならない。
「二人は何時からの付き合いなの?」
「あぁ。コイツの家とは昔から付き合いがあってな。うちの新作を持って屋敷に訪問する機会が多かったから、その時にな…」
「うちの新作?」
「スペンデッツ侯爵夫人へドレスやらアクセサリーなんかの新作をな。俺の家は祖父の代から社交界の物品を扱ってる商人組合のトップなんだよ。今の会長が俺の父親だ」
「それってつまり…」
「成金」……と言い掛けて、アリスは呑み込んだ。
聞き手によっては失礼と思われるかもしれない。
「まぁそんな感じで、祖父と父の功績でヴィスマン紹介は王都一の商会へ。そして宰相のスペンデッツ侯爵夫妻に気に入られ、今はうちのお得意様って訳だ」
「じゃあ二人は小さい頃から?」
「はい。ローグ君とは所謂、幼馴染です…」
カミーユが肩身を狭そうにしながら付け足す。
「あのさ? 敬語じゃなくて良いよ。同い年なんでしょ?」
「あ、はい…じゃなくて。うん…」
「そうそう。それにしても宰相の甥だなんて凄いね? 私の方が敬語使わなきゃダメじゃない?」
「いやいやそんな事絶対しないで! 僕なんて宰相の甥って肩書だけで色んな人に変な期待を寄せられるけど、実際は全然取柄の無い平凡な男だよ…」
「騎士団に入ったのは両親の意向?」
「いいや。伯父に強制された……『お前は特に才能も無い平々凡々な子だから、せめて護衛術ぐらいは身に着けておきなさい』……ってさ。さっき使用人が来てたのも、七日に一度直接近状報告を聞きに来てるんだ。根を上げて帰って来ないように監視してるんだよ、きっと…」
「そ、そう…」
カミーユは肩を落としながら言った。
彼の入団理由を聞いたアリスは何処か申し訳ない気持ちに苛まれ、思わず隣に座るローグに視線を送った。
しかしローグは苦笑いを浮かべて首を横に振る。
下手に批判や同情をしない方が彼のためだと言いたいのだろう。
明らかにネガティブ思想っぽいし…。
「そ、それより! 君の家はどうなの? 団長からは最果ての田舎村出身って聞いてたけど、とてもそうには見えないよ?」
気まずい空気が三人の周りだけ充満してしまい、カミーユは咄嗟に話を替えようと明るく振舞った。
「そうかな? 母には基礎の勉学を教わったりしてたけど、まだ右も左も分かってない田舎者だよ」
「いいや。勉学はそうなのかもしれないけど、驚愕なのはやっぱりあの剣技だよ。世界に名の知られる剣術指南役に稽古されてる上流貴族の剣技を見た事あるけど、君ほどのキレの良さは無い。相当な集中力が無いと、あんなに綺麗な剣筋にはならないよ」
「私に剣を教えてくれた人が言ってた。『ただ剣の型を確認するだけでも、集中するのとしないのとでは完成に大きな違いが出る。最も人を惹きつけ、尚且つ相手から一本取るには、集中力が持続する短時間で決めるべきだ』―――てさ」
「それであの初見殺しか。反射神経と動体視力が優れてねぇと、一瞬で決められる訳だ」
現状、唯一この世界でアリスの初見殺しを回避したローグが納得した様子で頷く。
同い年のローグに必殺技を見破られた以上、今後は更に手練れの相手と戦う機会に見舞われる覚悟をしておかなければならない。
「もっと精進せねば」とアリスは心の内で密かに決意を固める。
「凄い師匠だね。あの最果ての村にそんな手練れが居ただなんて、どうして今まで騎士団に召喚されなかったんだろう?」
「そ、それは…」
―――言えない。師匠が前世の実父だなんて……言えない。
「い……今は、更に剣の道を究める為に遠方に旅に出ちゃって。私はもう会えないと思ってる」
数日前にギルバートにも吐いた嘘で乗り切る事にした。
前世ではまず間違いなく疑われてしまいそうな話だが、この世界には剣士は勿論、冒険者も存在している。
剣技を極める修行に出たと言っても、大半の人間は納得してくれるのだ。
そう―――
「す、凄い覚悟だ…! その人が国内にいる間に会ってみたかったなぁ!」
「お前が剣習ったのって長くても十年やそこらだろ? おまけに幼少期からここまで実力付けさせられる剣豪なら、王都は指南役としても確保したかっただろうなぁ」
「だ、だよねぇ…アハハハ…」
この二人の様に、すんなり受け入れられる。
「てっきりご実家が剣術道場してるのかと思ってた」
「ううん。うちは牧場。乳牛のミルクや、そのミルクで作った加工品を売ってる」
「マジで?! 全然予想と違ったわぁ…」
「逆にどんな予想してたのさ?」
「村一番の金持ちの娘で村中の男を侍らせ―――ってぇ!」
「………」
冗談なのは分かってる。
けど「男を侍らせる」なんて風評が広まったら堪ったもんじゃない。
アリスは冷たい視線を向けて、テーブルの下でローグの足を思いきり踏んだ。
痛みで涙目になるローグを他所に、再び食事に手を伸ばすアリスと、ローグに哀れみの視線を向けて冷や汗を流すカミーユ。
暫くの間、三人で談笑を続けていると、厨房の奥から女将さんが湯気の立つ料理の入った器を三人のテーブルに持って来た。
「はいよ。これも良かったら食べて」
「ありがとうございます。良い匂い…」
少し底の深い器に入って来たのは、ミルクとチーズの香りが漂うシチューだった。
シチューが届く前にテーブルの上に並べられた料理を食べていたが、それでも食欲を駆り立てられる。
「うわ~おいしそ~!」
「チーズ入りのシチューとは贅沢だなぁ!」
「そうだろぉ? 前に王都にミルクを売りに来てた商人に美味いシチューの作り方を教わってね。試してみたら、すっかり人気の一品になったんだよ」
「王都にミルクを……」
アリスは女将さんの言葉に反応した。
王都にミルクやチーズを売りに来る商人なんて、そう多くはない。
「あの……これに使ったチーズを見せてもらえませんか?」
「あぁ良いよ。ちょっと待ってな」
アリスに頼まれて、女将さんはすぐに厨房へ戻り、チーズを抱えて戻って来た。
「ほらよ」
「ありがとうございます」
アリスは使用済みで微かに断片が残ったチーズを受け取った。
懐かしい香り、滑らかな表面の微かなざらつき、一欠けら手にして口に運ぶと、癖の少ないまろやかで繊細な味わいが後を引くチーズだ。
これは正に、アリスの実家のチーズだった。
「これ……うちの実家で作ってるチーズです」
「え? そうなのかい?」
「はい。加工は父がして、商品の名付けは母がしてます。『白い幸せ』って名前のチーズでは?」
「そうそう。そんな名前だったよ! 良かったわぁ~。人気が出てから消費が激しくて、このチーズまた買いたかったんだけど、そうしょっちゅう王都に出て来ないだろ? もし良かったらコッチに多めに融通してもらえないかい?」
「分かりました。父に手紙を送っておきますね」
「ありがとう! お礼にた~んと食べておくれよ。お友達も一緒にね」
「「ありがとうございます!!」」
ご相伴に与るローグとカミーユと共に、熱々のシチューをスプーンいっぱいに掬って口に運ぶ。
途端口の中に広がるチーズの香りと濃厚なミルクの味。
―――……母さんの味だ。
母さんのシチューも絶品だった。
父が女将さんに教えた美味しいシチューの作り方というのは、母のシチューの作り方だろう。
―――まさか、騎士団の屯所でも母さんのシチューが食べられるなんて……。
アリスは二口目を口いっぱいに頬張った。
ローグとカミーユもこのシチューの味に感激して目を輝かせながら何度もシチューを口に運ぶ。
そんな二人の様子を嬉しそうに見つめ、アリスも再度シチューを食す。
幸せが口の中から胸の内を、腹の底を満たす。
「「「ご馳走さまでした!!!」」」
三人同時に食事を終え、それぞれ部屋に戻る。
アリスはすぐに父と母に手紙を書いた。
ルークと再会した事、騎士団に無事入隊出来た事、友人が出来た事、女将さんからの要望…。
そして最後に―――『私、王都に来て本当に良かった』と添えた。




