下らないこと
「昨日、パパにドッキリを仕掛けたんだ」
学校からの帰り道、同級生の悠斗は言った。
「ドッキリ?」
「ママと妹の3人で隠れて、パパが家に帰ってきた時に『ワッ』ておどかしたんだ」
「悠斗のパパ怒ったんじゃない?」
「いいや。
凄く驚いてたけど、その後笑ってたよ」
正樹は口をポカンと開けて、悠斗の話を聴いた。
◆◆◆
正樹は、父が笑っているところを見たことがなかった。
正樹の父は、息子に大変厳しく接し、一切の娯楽を許さなかった。「下らない。そんなことする暇があったら勉強しろ」が彼の口癖だった。
母は目の前で強く反発するようなことはしないものの、父の考え方に賛同していなかった。おかげで、父が仕事や出張で家にいない時ならば、正樹はアニメやゲームを人並みに楽しむことが出来た。
◆◆◆
その夜、正樹は悠斗の話を母にした後「自分もやってみたい」と相談した。
「どうして?」と母は尋ねる。
少し考えてから答えた。
「お父さんの笑った顔が見たいから」
◆◆◆
ドアを開ける音がした。
二人は居間のソファの陰に隠れた。
「おい、帰ったぞ」居間に父が現れた。
正樹と母は「わーっ!」と飛び出した。
「なっ!?」
父から、聞いたことのない声が出た。
母がパチっとリビングの照明を点ける。
父の目の前には、穴を開けたゴミ袋を頭から被り、ピエロのように口を赤く塗った正樹が手を広げていた。
「お帰りなさ……」
正樹が言い終える前に、父の掌が飛んできた。
「下らないことをするな!」
父は物凄い剣幕で正樹を怒鳴った。
「殴らなくていいじゃない! ただの悪戯よ!」
母は正樹を起こしながら言った。
「うるさい! 早く顔を洗って寝ろ!」
父は鞄や上着を床に投げ捨て、風呂場へ向かった。
母は黙ったまま、台所で正樹に顔を洗わせた。
◆◆◆◆◆◆
棺桶を見つめながら、正樹は父に殴られた日のことを思い出していた。
あれ以降、父と会話することがほぼ無くなり、進路や就職や結婚も、母を介して伝えた。
生前父は「一番安くて小さい斎場にしろ。こんな下らないことに金も時間も費やすな」と何度も言っていた。だが母は、2階が宿泊スペースになっている斎場を一晩貸し切りにした。この辺りは宿泊施設が近くにない。遠方から来る高齢親族達への配慮だ。
それでも反対されそうだが、もう父は何も言えない。
1階のホールでは、ロウソクの灯と線香を絶やさないように、一晩中親族が見張り番をすることになっている。高齢の親族達は、早々と2階の広間で就寝した。正樹のいとこ(母方の伯父の子)一家4人が、わいわいとトランプを広げて笑っていた。
「下らないことをしてないで、黙って見張りをしろ!」と父なら言うだろうなと正樹は思った。
「正樹、次お風呂に入って」
母が1階に降りてきた。2階にあるバスルームを、皆で順番に利用しているのだ。
「分かった」
正樹と母は、賑やかな声を背に階段を昇る。
「絵菜ちゃん、2階でぐっすり寝ているわ。梨子さんもお通夜大変だったでしょうね。明日の火葬が終わったら、二人を先に帰らせてあげたら?」
「分かった。梨子に言っておくよ」
◆◆◆
正樹はシャワーを済ませ、階段を降りた。
1階のホールは静かで明るかった。並べたパイプ椅子の上で子ども達は眠り、いとこ夫婦はスマホを眺めていた。
「ヒロ兄ちゃん達も休みなよ。俺、見てるからさ」
「そしたらマー君が寝れないだろ。
子どもを2階に行かせたら交代で仮眠しよう」
「ありがとう」正樹は微笑んだ。
「あ、悪いけど線香を新しいのに替えてくれない?」
ヒロ兄ちゃんが指差しながら言った。
残り短い線香の先から煙が昇っている。正樹は棺桶に近付いた。
すると棺桶の裏から人影が飛び出した。
「うわっ!?」
普段出すことのない音程の声を出た。
「お父さ……?」
正樹は混乱した。目の前に立っている男の姿は、子どもの頃の記憶にある父そのものだった。
「マー君、大きくなったなぁ!」
男は軽快に笑い出した。
「君達、ご協力ありがとう!」
正樹が振り返ると、いとこ一家は手を振っていた。
「どうしたの?
あら、康介さん、いつ来たの?」
母が2階から降りてきた。
「さっきね。そちらのご家族に扉を開けてもらった」
この男は父の弟だと、正樹はようやく理解した。変わり者と呼ばれていた彼に、正樹は会った覚えがなかった。
年齢は知らないが、とても若々しい。いや、父の方が実年齢よりも老け込んでいたのかもしれない。
康介は気さくに母達と会話している。父も笑ったらこんな感じなのかもしれないと正樹は思った。
「随分と質素だね。花もほとんど飾られてないし」
「派手にするなってあの人がしつこく言ってたのよ」
「兄貴らしいな。
さっきのドッキリも『下らないことをするな!』って言いそうだ」
康介は遺影をじっと見つめた。
「ガキの頃、二人で親父を驚かしたら、親父が激怒してさ。兄貴だけがめちゃくちゃ殴られたんだ。『長男のお前が何を下らないことやっているんだ!』って。
そっからだな。兄貴がカタブツになったのは」
康介の話を聞きながら、母が正樹の方を見た。
「アンタが高校生の時にお祖父ちゃんが亡くなったでしょ。その時、あの人言ってたわ。
『正樹にかわいそうなことをした』って。
でも、今更弁解なんて下らないこと出来ないって」
正樹の中で、堰き止めていたものが溢れ出しそうな感覚が生まれた。
「後で替わる」といとこに伝え、正樹はホールを出た。
◆◆◆
外は少し肌寒かった。
夜の空に重そうな雲が乗っかっている。
缶コーヒーを一口飲み、正樹は思った。
自分に散々「下らないことをするな」と言っていた父が一番「下らないこと」に縛られていたのだと。