さて
…まず、言語が統一された。
世界中の人間が同じ言語を使い「友人は旧アフリカ人」という人も今となっては珍しくもなんともない。
閉鎖的な国は排他され、現在は国境という概念すら存在しない時代…
その発端となった理由には、旧日本の有名企業の完全翻訳機が挙げられるだろう。
本来は便利なコミュニケーションツールとして開発されたものだが、それが世界平和をもたらすとは誰も思わなかった。
…理由は簡単だ。
誰も「友達とは喧嘩をしない」などと言う子供の絵空事を信じなかったから。
しかしそれは、ある一面から見れば真理だった。
国同士は翻訳機能の発展により、分かり合うことが出来るようになり、「歩み寄る」ということが可能になった。
心情すら伝えらるようになったことは、同情を買うことが出来るようになったことと同義で、不満を漏らすことすら、愚痴の一つと許容された。
首脳会談では笑顔が増え、虚勢を張る代表を笑ったり、貧困に喘ぐ代表に涙をこぼす姿を国際放送することに躊躇いがなくなった。
…しかし、それでも戦争はなくならなかった。
当たり前だ。
たとえ友達同士でも喧嘩くらいはする。
謝れば許してくれるようになったとは言え、意地を張って突っぱねれば行きつく先は総力戦。
人には譲れない所があるが、それは国も同じ。
信仰の違いで口論になることもあれば、貧富の差で羨むこともある。
この頃には多国間との交流は当たり前となったものの、言語が自然に統一された世界でもそれが故に争いは生まれた。
…しかし、それも長くは続かなかった。
国際機関が乱立する時代、世界各国が出資して作った世界科学機関、通称WSOが正式発表した「人類の終わり」は、僅か30年で世界中を侵食した。
次世代AIである「マザー」はシュミレート段階で仮想国を2万年、平和的に維持し続けることが出来た。
予期された天災等のイレギュラーに迅速に対応し、マザー本体の自己修復、複製までありとあらゆる問題をスタンドアローンで解決できる唯一のプログラム。
…人類はマザーを「新人類」と認定した。
指導者と位置づけされたマザーを受け入れたのは、旧オーストラリアだった。
マザーに政治を一任したオーストラリアは13年で世界中のどの国よりも繁栄した。
国の防衛から食料の生産、その全てが人間が治めている先進国を圧倒する結果になった旧オーストラリアは、人類で初めて労働と武器から解放された地となった。
楽園と呼ばれる旧オーストラリアに憧れた各国は、政治システムを一新することとなる。
その結果、国境は曖昧なものになり世界は10年の議論の末、7年で既存の国は全てマザーによる統治政治が浸透した。
食料などの生活必需品は全て供給。
その生産は全てコンピュータが自律で行っている。
…きっとこの時だろう。
人類がこのプログラムを「母親」と評したのは…
「人類は些末なことから解放されたのよ?喜ばしいことじゃない」
幼馴染の217が呆れるように俺に言う。
「…反抗期ってやつ?恥ずかしいわね」
「違うから。…ただ、こんな生活はつまらないと思わない?って話」
「どこが?」
217は眉をひそめて俺を咎める。
「私もアンタのせいで色々調べたけれど、旧世界は酷いものよ?人が人を殺してたの。生きるためだったり、豊かになるためだったり。…社会主義を主張した国は愚かにも崩壊したし、資本主義を掲げた諸国は富豪のために貧民が跪いていた。…アンタはそんな人生を送りたかったわけ?」
…そう言う訳ではないけど。
ここは正しく理想郷だ。
労働や教育などの義務から解放され、何をしても許される。
起きている時間の全てを読書に費やしてても何も言われない。
…旧世界の住人から見たら、まさに理想郷。
法律もなければ、義務もない。
…でもそれはまやかしだ。
数年前に起きた、国家体制に反逆しようとした組織は、マザーによってたやすく制圧された。
組織の開発した電子機器をダウンさせるEMP手榴弾もことごとく無力化され、反乱組織は無血解体。
しかもその組織のリーダーにさえ、罪を問わない。
まるで、子供の駄々に付き合う母親のように…
結局、その組織は楽園支持者達によってリンチに遭うわけだが、その全てを監視しているはずのマザーはそれすら黙認している。
…助けた命のはずなのに。
「217は放牧って知ってる?」
「ええ。旧人類が家畜を放し飼いにして管理していた飼育法でしょう?…私達もそうだって言いたいの?」
「あぁ。惨めだと思わないのか?」
「思わないわ。それで世界平和が実現しているのだから。旧世界の体制だって言葉が違うだけでやっていたことは同じじゃない。その癖、やっていることはマザーの足元にも及ばない陳腐なことばかり。指導者としては三流よ」
217が続ける。
「争う理由がない世界で、アンタは何で波風をたたせるの?…まさかエラーってわけではないでしょうね?」
217が身を固めながら後ろに引く。
「一緒にすんな。…ただ、この世界はおかしいって思っただけだよ」
思いを漏らすとほぼ同時に、217に口を塞がれた。
「アンタっ!考えて物を言いなさいよ!」
手を振りほどく。
「…ぷはっ。…何をそんなに慌ててるんだよ。マザーは子供の戯言じゃあ動かないって」
「馬鹿なの?マザーじゃなくて人間が動くの!…組織の人間がどうなったか忘れたの?」
真剣な面持ちで俺を見つめる。
「…はぁ。仮にアンタがここで私を犯してもマザーは黙認する。でも、その姿を周りの人間が見ていたらアンタは殺されるわ。エラーが現れたって…」
217が俺の両肩に手を置く。
「…結局、ここは楽園なんかじゃない。何をしても許されるわけじゃないし、不自由だ」
「我儘ね。…人間は環境に慣れると、より多くを求めるようになるって言うけれど、アンタは異質よ。これ以上、何を望むって言うの?」
217の問いに俺は明確に答えられない。
…だって、それは漠然としたものなのだから。
「…とにかく、それはあまり口にしないでよね。エラーだってばれたらここにはいられなくなるもの」
溜息混じりのその言葉に対しても、俺は何も言い返すことは出来なかった。
理想郷に住む人類は約30億人。
これはマザーが提示した、収容可能な人数の限界だ。
安定した供給、豊かな暮らしが出来る境界値で、マザーに頭を垂れた人類は楽園への加入に向けて最後の審判を受けることになった。
提示された条件はただ一つ。
「各国の人口の50%までなら受け入れる」
この言葉を皮切りに、人類は最後の戦争を行うことになった。
どの国も内乱、内乱、内乱で、当時100億人以上いた人類も過剰な殺戮が続き、最終的には30億人を下回った。
…マザーの演算能力は神の域にあると誰しもが悟る。
内乱により、荒れ果てた土地をマザーは僅か7年で回復させた。
合理的な独裁者の統治は完璧で、休息を必要としないアンドロイドが年中無休のインフラ整備を行い、7年後には21世紀初頭の生活レベルを世界各地で送ることが出来るようになった。
一人一人に配給される住居。
その全てには高カロリー補給液が出る蛇口が設備されている。
…人類は飢えからも解放された。
住居の点検は年に一度。
ライフラインは全て三重センサーで感知されているが、センサー自体の故障は否定できない。
マザーが管理する万能型アンドロイドが訪問し点検を行うことで、家の機能を恒久的に維持する。
「他に気になるところはありますか?」
定期点検を終えたアンドロイドが普段通りの質問をする。
…。
「…マザーはどんなの目的で人間を飼ってるんだ?」
こいつらはネットワークで繋がっている。
例え末端だとしても情報は共有されているはずだ。
「マザーと言うのは、「re2プログラム」のことで間違いありませんか?」
…re2プログラム。
確か、マザーの開発者達がつけた正式名称だったか。
「そうだ。…お前たちが人類を管理下に置くメリットとはなんだ?」
機械生命体とも呼ばれるこいつらにとって人間は不要な存在のはずだ。
捕食対象でもないし、エネルギー源でもない。
反旗を翻す可能性のある種族を生かす理由って…
「re2プログラムの製造理由は「人類の保護」です。そうプログラミングされた私達はメリットの有無で行動指針を変えることはありません。管理下に置く理由も保護しやすいから、としか言いようがありません」
代案があるのならばお聞きしますが?とアンドロイドが機械音で質問する。
…。
「…別にない。聞いてみただけだ」
質問に怯んで態度が少し荒くなる。
そんなことでコイツ等が目くじらを立てることはないけれど、それでも僅かに罪悪感が芽生えた。
「そうですか」
無機質な音が部屋に響く。
「それではバイタル検査に移行します。座ってください」
四角いアンドロイドは変形して椅子の形に変わった。
旧人類が死ぬ主な原因は主に三つ。
一つ目は他者によって殺されること。
故意であったり、無自覚であったりと様々だが、有史以来、人は人を殺して生きてきた。
食べ物を取り合ったり、相手が憎かったり、快楽目的であったり…
理由は様々あるが、それはマザーの統治する理想郷により激減した。
二つ目は自殺。
世界が豊かになるにつれ、人間は自らの手で死を選ぶ者が増え始めた。
それは高度で複雑な人間関係によるものであったり、健康問題であったり、経済的な理由であったり…
自殺による死は理想郷の住人であってもなくならず、僅かに増加傾向にある。
三つ目は病死。
大昔の不治の病であった悪性新生物による癌を克服した人類は、一つの疾患を除き、病気の全て克服した。
人類の死因の80%が老衰、18%が自殺。残りの2%が事故や殺人などの対人問題。