歴史修正委員会
西沢雪絵。享年35歳。1996年4月17日、没。
彼女は著名な芸能人でもなければ、政治家でもない。けれども、彼女の死は連日ニュースで放送されていた。今この日本で知らない人はいない。単なる田舎の主婦が、一躍有名人になってしまった。
本来の歴史では2016年まで生存していたはずの存在。それが、死んでしまったから。
ファーストイレギュラーの発生は、タイムリープした日本国民全員の心臓に刃が突き刺さったように、風穴を開けた。2016年の記憶があろうとも、イレギュラーな死が訪れる。それは、20年間の命の保証がなくなってしまったのと同義であり、歴史がすでに狂い始めていることの証左でもあった。
彼女は一体何故死んでしまったのか。誰が殺したのか。
本当はそこを追求するべきなのに、みんながみんなして歴史の修復は可能なのか、彼女の死による影響はどれくらいのものなのか。そんなことに夢中になっている。
これによって、歴史遵守保護法を違反した者に対する罰則が設けられたが、歴史の歪曲を止める手段にはなり得ない。もうすでに、遅いんだ。手遅れなんだ。
だって……何故そうなったかオレは知っているから。
西沢雪絵の死と同時に、西沢真帆の生存がすでにイレギュラーになっているから。歴史は確実に変わる。
「これで良かったんだよな……オレ?」
自室のベッドで仰向けになりながら、オレは独り言を天井に向けて呟いた。
「いや、良かったに決まってる。西沢真帆は生きているんだから。あの子を殺す存在がいなくなった今、あの子は死なない。でも……」
西沢のお母さんが死んでしまった。彼女は本来なら、55歳まで生きていたはずだ。
オレはもしかしたら、西沢真帆の生存の可能性と引き換えに、西沢雪絵の存在を消してしまうという選択肢を選んでしまったのかもしれない。
オレが、歴史を変えようだなんて思わなければ、こんな事態にはならなかった?
オレは……間違えたのだろうか。
「裕太! お友達が来てるわよー。ほら、今ニュースで話題の西沢さんとこの……」
母親がノックもせずにドアを開けて入って来た。
「母さん、ノックしてくれよ。で、西沢は?」
うちの母親というのは、基本的にデリカシーがない人だ。中学生の時、ベッドの下にしまっておいたオレの宝物を勝手に捨ててしまうという暴挙を平然と犯したんだからな。
ちなみに宝物の内容は、その年頃の男子ならみんな持っているブツであるとだけ、言っておく。
「お外で待ってるって言ってたわ。家に上がってもらおうかと思ったんだけど、ここでいいって頑なに言うもんだから」
「わかった。すぐに行くよ」
部屋を出て、階段を降りる。一歩一歩。一段一段が重い。
オレが西沢のお母さんを殺したわけじゃないのに、責任の一端がオレにもあるような気がして、申し訳ない気持ちがあったから。
「田中くん……おはよう」
「ああ、おはよう」
扉を開けてすぐ、西沢と目が合った。オレが出てくるのをずっと待ち続けていた様子で、驚いた表情が一瞬で満開の笑顔になる。
そのあまりの眩しい笑顔に、オレは目を背けた。
「ごめんなさい。もしかして私、忙しいところに来ちゃった?」
オレの罪悪感からくる後ろめたさに西沢は気付かぬ様子で、逆に自分に非があるのではないかと、申し訳なさそうに謝ってきた。
母親を亡くしたばかりの10歳の女の子に、気を遣わせてどうするんだよ田中裕太30歳。
「いや、急に来るとは思わなかったから、ヒゲ剃り忘れちゃってね」
「田中くん、まだ10歳なんだから、ヒゲなんて生えてないじゃない。ふふ」
「そうだったよ! オレ、まだ10歳なんだった! 子供になって不便ばかりじゃないんだな」
誤魔化すように笑いながら頭をかくが……まあ、見透かされてるな。オレが何か隠してること。それが彼女にまつわる問題であることに。
「お母さんの葬儀が終わって、ようやく一息つけたから、田中くんとどうしてもお話がしたくて……来ちゃった」
「わかった。家に入りなよ」
「うん。お邪魔します」
家に入り、自分の部屋に西沢を招き入れる。
「あ、お茶入れてくる。ちょっと待っててよ」
二人きりになった気まずさから、オレはお茶を入れるのを言い訳に部屋を出ようとした。
「私が死ねば良かったのかな?」
「え」
ドアノブに手をかけた瞬間、小さな声で西沢は呟いた。
「ママ……2016年まで生きてたんだよね? 本当なら、死ぬはずじゃなかった……」
部屋を出ようとした態勢のまま、オレは固まった。動けない。首を動かすこともできない。一瞬息ができなくなり、呼吸が困難になった。
「ねえ、田中くん。死ぬのは私だったんじゃ……じゃない?」
「違う!!」
その悲痛にみちた呟きはオレの心臓を波打ち、動けなかった体に熱い何かを注ぎ込んだ。
「君は……生きる。大人になって、クラスの同窓会に参加してみんなでお互いを懐かしむんだ」
振り返ると、オレは西沢の右手を強く握った。
「誤魔化さないで!」
けれど、オレの手は強く振りほどかれた。
「聞いちゃったの! 親戚のおばさんがお母さんの葬儀の時、ヒソヒソと話してるの、聞いたの! 『本当なら真帆ちゃんが死ぬはずだったのに』って! だから……ママは死ぬべきじゃなかったんだよ! 死ぬのは……私の方だったんだ!」
「違う。違うよ、西沢……」
本来の歴史では、君はお母さんに殺される運命だったんだ。でも、誰がそんな酷いことを言える?
「聞いて西沢。歴史は、確かに違うモノになりつつあるんだ。君のお母さんは、オレの知る未来では存命されていた。でも……亡くなられた。殺され……たんだ。誰かに。君のせいなんかじゃない!」
「じゃあ、私は? 私は田中くんの知る未来で死んでるんでしょ!? 私は誰に殺されたの!? きっとそいつがママを殺したんだよ!」
「いや、それは……」
言葉に詰まる。西沢を殺したのは西沢の母親だ。だが、西沢の母親を殺したのが誰かんてわからない。いや、それ以前に彼女は自分が本来死ぬはずであった歴史を知ってしまった。
「西沢」
どう答えるべきだ? オレは、どうしてあげるべきなんだ? この少女にどう真実を打ち明ける?
どうすれば一番傷が浅くて、済む? オレが君のお母さんを殺した犯人を捕まえてみせる? どっかの名探偵じゃないんだ。ガキじゃあるまいし、それは警察の仕事だろ。
「もういいよ。田中くん、ごめんね。私、帰る」
「あ、西沢!」
言葉に詰まっていると、西沢はオレを押しのけて急いで出て行った。
追いかけなければ。でも、オレの足は意思に反して全く動こうとしない。
母を失ったばかりの少女に、どれだけ慰めの言葉を送ったところで心が救われるだろうか? 下手な同情はかえって逆効果だろう。彼女の心に効く薬は時間しかないのかもしれない。
ならオレは、静かに彼女を見守るだけだ。それが大人としてできること……だと思う。
オレは玄関から外に出ると、空を見上げてそう結論付けた。
「田中裕太さん、ですね?」
「え?」
気付けば門扉の前にスーツ姿の中年男が立っていた。どことなく、雰囲気が普通じゃない。刑事か何か……。
「失礼。私、こういう者でして」
男は胸ポケットから名刺を取り出すと、オレに差し出した。
「歴史修正委員会?」
「ええ。日本政府直属の機関でしてね。松倉と言います。今回のファーストイレギュラー。西沢雪絵さんの件で色々と調べさせてもらっているんですがね」
「はあ」
松倉はハンカチを取り出すと、それで自分の指先を拭き始めた。
「全く、困ったモンですよ。人死にほどのイレギュラーとなると、歴史の歪曲に繋がりかねない。今はまだ彼女の死だけで済んでいますが、おそらくドミノ倒しのようにこれから起こるはずもなかった出来事が起こるんじゃないかって、学者先生がそういうモンでしてね。そのためのイレギュラー調査なんです。が」
「が?」
「いえね。雪絵さんの調査をしていると、みんな口々に言葉にするんですよ。本来の歴史で死ぬのは娘の真帆さんだった、とね」
松倉はハンカチで拭くのをやめると、まっすぐにオレを見た。
「つまり、アレですわ。歴史歪曲の分岐点。西沢真帆さん。彼女の存在のせいで我ら日本国民のこれからが大きく狂うって私は見とるんですよ」
「だから?」
「あんまりこういうこと言いたくないんですけどね。西沢真帆さんには、死んでもらわないといけませんのよ。歴史通りにね」