優しくも汚い嘘
西沢の家は、子供の足じゃけっこう遠い。オレの家と小学校をはさんで正反対の位置にある。車に乗れればいいんだが、運転技能があっても免許がなければどうにもならない。なにより、子供の手足じゃアクセルやブレーキに届かなかったりと、面倒だ。
小学生の足といえば、チャリンコだろう。ということでオレは今、自宅のガレージで懐かしのチャリンコを引っ張り出している最中なのである。
「チャリに乗るなんて何年ぶりだよ。はは」
大学に入って少しして免許を取って、やっとの思いで手に入れたマイカーは中古車だった。それから社会人になるまでオレの愛馬だったんだ。まさか、またチャリにまたがる日が来るとはな。
「裕太どこいくんだよー? キャバクラでもいくのかー?」
「いかねーよ!」
気絶していた歩がうちの玄関から出てきて開口一番そう言った。こいつときたら、まったく。
「んだよー、水くさいなあ。行くんだったら地元のいい店紹介してやるよ。そのお店のマユちゃんって子が、これまたおっぱいでかいんだよ~。アフター誘ってもいつも断られちゃってさあ。いつか落とすぜ、見てろよ」
「アホ! そのマユちゃんもまだ小学生だろうよ!」
「いやー? マユちゃん25って言ってたけど、俺の見立てじゃありゃ30超えてるね、うん。あと、子供いる。これはガチ」
「いや、知らねーよ!」
「でも、女の魅力は若さじゃないんだなあ、これが。年を重ねるごとにフェロモンってやつは体からにじみ出るもんさ。女は30からだよな。あ、っていうことは京子が最強だ。俺の嫁、最強だよ。なあ!?」
「お前の未来の嫁(予定)の話はいいよ、もう」
なんて頭が残念な親友なんだこいつは。
「歩。お前のキャバクラ論と熟女マンセーはどうでもいい。とりあえずいい子でお留守番しててくれ」
「だからー。どこいくんだよ裕太」
「西沢の家」
「おお!? わかってんねえ、お前も。西沢のお母さんも96年じゃ35過ぎたとこぐらいだ。昨日もちらっと見たけど、うなじがたまらんよなあ」
ポンポン、とオレの肩を悟ったように叩く歩を、殴りたくなった。
「じゃあな。いい子にしてたら、おみやげにうまいぞうチーズ味とチロリチョコ買ってやるよ」
「ちょ! 俺もいく! 西沢のお母さんのうなじが俺を呼んでいる!!」
「黙れ、こっちは大事な用があるんだよ!」
「うなじー!」
西沢の家に着くまで歩はやたらと「うなじ」を連呼していた。いや、うなじより太ももだろ。こいつ、わかってねえな。
「えっと、ここだっけ」
「ああ、うなじの家はここだな」
西沢の家はけっこうでかい。ベッドタウンとして開発された地元でも、かなり古くから住んでいるらしくてこのあたり一帯の地主でもあるとか、昔聞いたことがある。ていうか、うなじの家ってなんだよ。
「ところで裕太よ。うなじに何の用だ?」
チャイムを鳴らす直前に、昼休みの出来事が頭によみがえった。
『気持ち悪い』。そう言って飛び出した行った西沢。オレが訪ねてきたとして、果たして会ってくれるだろうか。一応、歩がなんとか連れて帰ってきたけど結局その後、誰とも話さなかったし。
「うなじといえば、風呂上がりだよな。は!? ひょっとして俺ら、来る時間間違えたんじゃねーの!? やべえよ、裕太!」
いや、そもそもオレ。彼女とあまり話をした記憶がないな……その当時って、女子が苦手だったし。
「うなじといえば、着物姿の女をイメージするだろうが、それは素人の発想だな。玄人は洋服。俺は夏場のキャミソールを推すね」
いや、こんな所で考えていても仕方がない。時間が巻き戻ったとはいえ、一秒一秒が貴重だ。特に、10代の時間なんてあっという間に過ぎちまうからな。
「髪と首筋の境界線に生じたライン。俺はこれをエロティカルラインと命名していてだな。エロとクリティカルの合体だ! いや、俺は京子と合体したいかな。って、何言わせんだよ、こいつぅ!!」
ばんばんと歩に背中を叩かれ、オレの指はインターホンに直撃してしまった。そしてすかさずオレは反射的に歩の顔面を殴っていた。
「てめえ、空気読めよ。なあ?」
「いたい! ママにもぶたれたことないのに! でも、SMクラブのリョウコさんにぶたれたことがある俺が痛いっていってるんだぞ!! 謝れ!」
真田はどうしてこんな奴と結婚したんだろう……いや、いいところがあるのは知っているけれど、リアルにこれと同居とか殺意しかわかねーな。
「あら、真帆ちゃんのお友達かしら?」
玄関の扉を開けて、西沢のお母さんがこっちを見ていた。若い。35にはとても見えない。20代後半……いや、半ばに見える。あと、うなじがすごく魅力的な女性だった。確かに……あれはエロティカルラインだ。
「あ。あの、僕……」
「ふふ。覚えてるわよ。田中くんと進藤くんでしょ? 2人とも可愛い男の子だったから、覚えてるわ」
「そ、それはどうも」
「あら。そうだった。2人とももう、立派な大人の男性だったわよね。可愛いだなんて、失礼だったかしら。とにかく、あがってちょうだい。真帆ちゃんならお部屋にいるから」
精神的には30歳の男であるオレが、肉体的には35歳の同級生の母親を見ているというのは、なんとも妙な気分であった。
「さあ、どうぞ」
西沢のお母さんは優しい笑顔で手招きしてくる。
……子供のころには解らなかったこと。……子供のころには見えなかったもの。それが今、30歳になって理解できるようになると、違う世界を見ている感覚に陥る。
けれどたぶん。それが見えるようになってくると、もう……子供の頃のようなわくわくした感覚や、未知の物に対する好奇心はなくなってしまうんだろうな。それが大人になるってことなんだろうけど。
「お邪魔しまーす!」
歩は無遠慮に西沢宅へと入っていった。あのずうずうしさが少し羨ましい。あいつはよくも悪くも裏表がない。
「お邪魔、します」
たぶん本来なら、小学生の男の子なんて家に上げたくないだろうなと思う。この年頃の子供は何をしでかすかわからないし、娘しかいない母親にとって『男の子』は脅威であったろうと思う。オレだってそうだ。近所の子供とか、特に小学生男子はうかつに近寄りたくはない。何を考えているかわからないし、行動が読めないからな。
でもまあ、オレたちは大人だ。
「裕太ー、見ろよ! 水槽でけえぞ! ソファやべえ! トランポリンだ! ひゃっはー!」
「ドアホ!」
「あべし!?」
オレは歩を殴ると、大人しくソファに座らせ靴をキレイに二人分そろえておいた。
「すみません、体も頭も子供なままの友人を連れ込んでしまって」
「いいのよー。子供のやることだし。あら、ごめんなさい。見た目が可愛い子供だから、つい」
「ほんとすみません」
西沢のお母さんは特に怒った様子もなく、笑顔で手を振っていた。
「真帆ちゃんに子供ができたら、きっとこんな感じだったと思うから。ほんと、世界って不思議よね。本当……真帆ちゃんが戻ってきてくれて、よかった」
「そう、ですね」
西沢のお母さんは、少し涙ぐんで二階を見ていた。
死んだ娘ともう一度同じ時間を過ごせる。母親にとって、これほど嬉しいことはないのだろう。
「田中くん。真帆ちゃんのこと、頼める? 真田さんや他の女の子のお友達も、みんな距離を取っちゃって……きっと、今のあの子。すごくつらいだろうから……力になってあげてほしいの」
「ええ。オレも、そのつもりで来ました。二階、行ってきます」
「ありがとうね。こういうとき、男の子って本当頼もしいわ」
歩を連れて行くと面倒なので、お母さんに任せてオレはゆっくりと階段を昇って行った。
女子の家って……やっぱり緊張するな。果たして、西沢はオレに会ってくれるだろうか?
「あ。ここかな」
真帆ちゃんのお部屋、という木製の可愛らしいプレートがついたドアの前で立ち止まると、オレは深呼吸をした。とりあえず、軽くノックをしてみる。
「西沢。あの、田中だけど」
「田中くん!?」
いきなりドアが開いて、中から腕を引っ張られた。
「お、おい!?」
そして、いきなりだった。西沢はオレの顔を見るなり、大粒の涙をぼろぼろとこぼして泣き始めたのだ。
「え、ちょ。何泣いてるの? オレ、何かした? とりあえず……ごめん?」
やばい。この年頃の女の子って、どう扱ったらいいんだろう。まさかいきなり泣き出すなんて。ちょっとこれは予想外だぞ。
「嬉しいの」
「ん?」
「初めて、みんながおかしくなってから、初めてお友達がお家に来てくれたから」
なおも涙を流す西沢にオレはハンカチを渡すと、横を向いた。
「これ、使って」
「うん。ありがとう……」
「落ち着くまで、外に出てようか?」
「いいよ。もう大丈夫。だから、どこにも行かないで。お願い……1人にしないで」
「あ、ああ。わかった」
オレの袖を引っ張り、涙声で西沢はそう言った。うーん、困ったな。なんか気まずい。どうしたもんか。
どれくらいの時間が経ったかわからない。少しだったかもしれないし、30分くらいだったかわからない。西沢がようやく落ち着きを見せると、オレの正面に回り込んできた。
「ごめんね。いきなり泣いちゃって」
「いや、いいよ」
「私、怖い。みんながみんな、私の知っている人じゃないの。まるで別人が乗り移ったみたい。もしかしたら、宇宙人が地球人の精神を支配してるんじゃないかとか、私は違う世界に飛ばされたんじゃないかとか、世界がおかしいんじゃなくて、私だけがおかしいんじゃないかって、色々考えちゃった」
「みんな、みんなだよ。オレもオレだし、真田も真田。歩も歩。先生だって、先生だ」
「うん……それは、そうかもしれないけれど。でも、怖い。気持ち……悪い」
例えば。30歳のオレの目の前に、20年後の世界からきた歩がいたら、両親がいたら……どうだろうか。
「ねえ。田中くんも、そうなんだよね?」
西沢はオレの目をしっかりと見据えて、そう言った。
ヘタに嘘を付いてもしようがない。正直に言ってしまうか。
「うん……オレにとって、今は……20年前なんだ。ついこの前まで、30歳の大人だった」
「そう、なんだ」
「うん」
落胆するかと思っていた。きっと、オレの事をバケモノかなんかを見える目で拒絶するのだろうと。
「私、田中くんのいうことなら……信じるよ」
「え?」
けど、彼女は思ったよりも強い子だったみたいだ。
「お母さんやお父さん。大人のいうことは信じられないけれど、田中君なら、信じられる」
「いや、オレも一応30歳の大人……おっさんなんだけどな」
「そういうこといわないで。ねえ、20年後の田中君ってどんな人?」
西沢は瞳を輝かせてそう尋ねてきた。今更、歴史遵守保護法なんてどうでもいいか。オレは西沢の未来を変えると決めたんだから。
「まあ、普通に働いて……しがないサラリーマンだよ」
「じゃあじゃあ、その。奥さんはどんな人?」
「あ。あー……いや、結婚はしてないんだ。仕事が忙しくて、なかなか出会いがね」
「そっか。なんか、残念」
「これは手厳しいな。確かにまあ、30過ぎて彼女もいない男は残念かもしれないけど」
「ううん! そうじゃないの。そういう意味じゃ……ないんだよ。ごめん」
「うん? そっか」
「大人になるって、どんな感じ?」
「……難しい質問だな」
未来に期待を寄せる少女に、厳しい現実を伝えてしまうのも気が引ける。けれども、ここで心地よい夢物語を聞かせても仕方がない気がする。
夢を見るのは子供だけの特権だ。大人はただ現実に向き合うだけ。自分の力で生きていかなきゃならない。子供の頃に見た夢の責任を、未来の大人になった自分が負わなければならない。
「たぶん、何かを捨てて何かを手に入れることなんじゃないかな。そして、境界線……踏み込んではいけない領域に対してブレーキをかけるのか、アクセルを踏むのか判断できる……要は、現実をちゃんと現実として受け入れられるかってこと」
「ふーん。なんか難しいんだね。じゃあ、質問変える! 田中くんは今、幸せなの?」
「……いや。幸せになりたい、かな」
「そっか! じゃあ、最後の質問。未来の私はどんな女性に成長していますか?」
「それは……」
答えに詰まる。そこで真実を話すのは確実に良くない。言えるわけがない、『君はあとひと月で死ぬんだよ』なんて。
「ごめん。それはやっぱり言えないよ。君の未来の話をすると、歴史に何か影響があるかもしれないから」
「ケチ」
ぶすっとした西沢の横顔はやはり年相応の少女の物で、同い年であるはずなのに、彼女はやはり10歳のままなんだと、改めて思った。
「あ、そうそう。さっきの続き。幸せかどうかって話。オレさ。幸せになるためにはやっぱり勉強って必要だと思うんだ。今の努力の結果が未来の自分の姿だからさ。そういえば西沢ってさ。塾に通ってたよね? オレも今のうちに塾に通おうかなって」
塾の話題を出した途端、西沢の目が一等星のようにきらりと輝いた。
「ほんと!? じゃあさ私の通ってる塾にしなよ! 隣町だけれど、低学年の子もいるし。先生も教え方がうまいんだ」
よし。自然に聞き出すことができた。
「ほんと言うと、塾の帰りってすごく怖くって。6時から始まって8時に終わるんだけど。帰りがすごく怖いの。一緒に通ってくれるお友達。欲しかったの」
「うん。女の子一人で夜道は危険だろうし、オレが一緒に行くよ」
「嬉しい。ありがとう……田中くん」
西沢は机の引き出しから塾のパンフレットを取り出すと、それを机の上に置いて手招きする。
「ほんとはね。えへへ、田中くんを塾に誘うつもりだったんだ。でも、みんななんかおかしくなちゃって」
「ああ、そうだったんだ」
「入塾に必要なこと、月謝のこととか書いてあるから」
「うん。ありがとう。おっと……もう18時か。そろそろ失礼するよ」
「18時って……夜の6時じゃない」
「ああ。ごめん。つい仕事の時のクセで」
「本当に、大人になったんだね、田中くん」
「うん。やっぱり……気持ち悪い?」
「ううん。とってもかっこいい。年上の男って感じで」
「はは。ありがとう。じゃあ、帰るよ」
オレはパンフレットをもってドアノブに手をかけた。
「田中くん」
「ん?」
振り返ったとき、西沢は泣いていなかったし、笑ってもいなかった。
「いつか……本当のことを、教えて」
「え?」
「私だけ20年後の記憶がない理由……お父さんとお母さんの態度を見れば……なんとなく、想像ついちゃったから」
「……」
正直、子供だと思って甘く見ていたのかもしれない。いや。大人の傲慢なのか。10歳の子供となめていた。けれど、10歳の子供だってバカじゃない。特に女の子は勘が鋭い。西沢は本当は……気付いているのかもしれない。
――20年後の未来に自分がいないことを。
ここで子供扱いをして、だますのもよくない……が。西沢の未来を変えるためには、不確定要素を取り除くべきだ。なら、極力本来の歴史をなぞってもらいたい。だから、オレの答えは決まっている。
「西沢。ほんと言うとね。オレも君の事知らないんだ。オレ、高校は全寮制のとこ入ってて、大学も東京でさ。中学以来なんだよ。地元に戻ったの。就職も東京だったから、西沢がどんな女性になったのかも知らないんだ」
「そう……なんだ。嘘じゃないよね?」
「うん。オレ、嘘付くの苦手だから」
「ううん。いいの。そうだよね。田中くん、ウソつくのが苦手で、すぐに顔に出ちゃうもんね」
それは子供のころの話だ。大人になった今は、顧客や取引先相手に動揺した表情もなくポーカーフェイスで接することができる。自分を殺すことを覚えてしまってるんだよ、西沢。
「じゃあ、気を付けてね。ばいばい」
「ばいばい」
胸を締め付けられるような思いだった。言えるわけがない。だから、許してくれ西沢。オレの嘘を。汚い大人になったオレを。