二度目の邂逅
例えばの話。
今日が満月じゃなかったら、私は外に出なかった。そうしていたらあのオーグルに襲われそうになっていた村は悲惨な目に会っていただろうし、私が妙な魔女に襲われて氷の森をプロペディア領内に作り出すことも無かった。その結果、魔王と一緒に魔女に襲われたとしても、何とかなっただろう。
いや、満月だったとしても、私が外に出なければよかったのだ。それだけでよかった。それだけできっと、最悪は回避できたのだ。
プロペディア王国。大陸北部に位置する国。首都プロペディアは二重の城壁に守られた要塞でもある。
たくさんの人間が暮らしてる。オーグルとヴァンパイアに悩まされた国。おかしな国王が納める、平和の要となる国。
魔族にとっても大切な国だった。大切なのになぜ。
プロペディアは炎に包まれているのだろう?
一刻もしないうちに帰ってきた私を待っていたのは煤の匂いと空すら染める大火だった。
一番外側の城壁、その内側から炎が噴出す姿はまるで巨大な篝火のように見える。ただ、燃えている黒い炭は人間が住んでいた建物で、一際大きく炎が盛り上がっている場所は国王の住む城。
町から離れた草原にごみごみとした何かが見える。人間のようだけど、国に収まっていたはずの量を考えれば圧倒的に少ない。今もまだ、避難が続いているみたいだ。
高台からみた惨状に一瞬意識が飛んでしまった。空を見上げると、ずっと高いところに巨大な魔法陣があるのを見た。精霊をそこに呼び出し力を借りるのが魔法陣だけど、頭上のはさらに精霊の力を底上げしているみたいだった。
(…魔王……)
私は服のあちこちが焦げた彼等を飛び越して、炎が支配する領域に飛び込む。
途端に体に襲ってくる熱気を短い遠吠えで吹き飛ばす。焼けた地面に触れる肉球が熱くてたまらない。炎の精霊の力が強すぎて、私の中にある氷の精霊の祝福が薄れてしまってるみたいだ。逃げ惑う人間達を尻目に、私は真っ先に主人の下へと走った。
せめて人間達が逃げやすいように踏み出す度に氷を生み出してきているけど、奇妙な炎は私の足跡を嘗め尽くすように追って来る。中には自慢の尻尾を焦がす炎もあった。
意志があるように見える炎の正体はすぐにわかった。炎の精霊だ。私がさっき森で冷気の狼を作り出したように、炎の蛇が私の後を追い回してくる。強く地面を踏みしめて氷の塊を生み出し、蛇の行く手を遮りながら先へ進んだ。
精霊を散らすにはその精霊に祝福された眷族、つまりは炎を操れる魔族の力が必要。私達と一緒に来た竜族ならある程度は散らせるはず。
ただ、これだけ一所に集まっているとワイバーンでは難しいかもしれない。例え私の力で精霊を弱めたとしても、この国が焦土になるのが先だ。
でも、魔王ならあるいは。世界の現象そのものである精霊すら従える彼なら、精霊を散らす事くらいできるかもしれない。
胸の奥底にある繋がりを頼りに走る。流石に魔王は炎が噴出す城の中にはいないようだ。いるのは、城の前の広場。かなり広い場所だったから、燃えるものがないそこなら人間を非難させているかもしれない。だから、人間が一人もいないのには違和感を覚えた。
広場には、魔王が一人で立っていた。
(……魔王?)
自分であつらえた漆黒の衣装がぼろぼろだった。角は半分折れて眼鏡は割れている。目を閉じたままぴくりとも動かないけど、魔王の魂は確かにそこにあった。
嫌な予感が心を占める。覚悟して踏み出せば、現実を理解する。そして、魔王がいるはずの王国でこれだけの被害が出ているという意味も理解した。
そう。そもそも、魔王がいるのにこんな事になってるのがおかしいのだ。彼がいれば、今の彼なら国ひとつ守るくらい簡単だ。空にあんな儀式が必要そうな魔法陣を敷かせる事なんてありえない。
最悪の予感。覚悟。大丈夫、怒りに身を任せたりはしない。
匂い。焼け焦げた匂い。石鹸の匂い。魔王の匂い。血の匂い。魔女の匂い。
広場に差し掛かったところで私は立ち止まった。魔王の姿がぐらりとゆれ、不自然に宙に浮いて、倒れた。
捨てられたみたいに。
「あ、あー…一刻ぶり。ポルタさん」
そこにいたのはついさっき逃げたばかりの魔女だった。ただ、少しだけ姿が違う。
「さっきは甘く見てたみたいで。油断した。資料を見ればすぐにわかったことなのにね。あなたを殺すには手順があるの忘れてたよ」
牙を剥いて、低く唸る。威嚇だ。怒ってる。何てことしたんだって伝えるための。
とんがり帽子に黒いマント。かぼちゃをモチーフにしたワンピース。少しだけ歪な、からくり仕掛けに見えるブリキの箒と、右足。
左手に持つ錆びた剣……あれが、なんだか妙な気配を感じる。
「今度こそ死んでくれる?」
魔女はかくん、と首を傾けた。瞳からは感情が感じられない。
関係ない。やる事は、明白だ。
肺の中の空気を全部出すように吠える。今までよりもずっと大きい冷気の球は相変わらず動こうとしない魔女に正面から激突した。氷の破片が飛び散り、魔女の氷付けが出来上がる。
はずだった。
利いてない。
爆発を生んでいたみたいに彼女は何かしたわけでもないのに、こちらの攻撃を防いで見せた。魔女の足元に残った氷の破片だけが私が攻撃した、という証になってる。
なぜ、なんて考えるまでも無かった。
目の前の魔女は先程よりもずっと強くなってる。その原因は、私の考える中で最悪のものだ。そりゃ、魔王だって負ける。
浅く呼吸して、漏れでた冷気を氷柱に換えて弾幕を張る。さっき大魔法を使ったばかりでまだ回復してないけど、満月の力を借りて力を振り絞った。全身の毛を逆立て、一発でも届けと念をこめる。こういうのは大事だ。風を切って魔女に打ちこまれる氷柱は魔女の数歩手前で何かにぶつかったように粉々に砕けてしまう。何か盾のようなものを展開しているのは見てわかる。私は氷柱の弾幕を張りながら走って、踏み込んだ石畳が持ち上がるくらいの渾身の体当たりを繰り出した。
衝撃。
「グ…ルゥ…ッ!」
岩盤に激突したような感覚。肩の骨が粉々になったみたいだ。踏み込んだ勢いがそのまま体の中をむちゃくちゃにし、軽いめまいを覚えた。
魔女は見えない壁の向うからゆっくりと錆びた剣を持ち上げ、振り下ろす。痛む体を無理やり動かして飛びのけると、錆びているはずの剣はやすやすと地面を引き裂いた。光の粒がひらひらと宙を舞って溶けていった。
(あの剣…やっぱりあれは)
恐ろしい切れ味以上に、ひしひしと感じる強い力。妖精族が鍛えた、特別な剣。魔王が倒れたままの理由。
あれは聖剣……とか呼ばれる、人間達が妖精を捕らえて作らせた、魔王を唯一殺す事ができる剣だ。あれだけが魔王の肉体から魂を切り離す事ができる剣になる。魔王に効くという事は全ての魔族の脅威にもなり、漏れ出る光は私達には少量でも致死毒となる。強力な力だけど、あれは、今も世界のどこかをさ迷ってる勇者だけがもっていて、彼等だけが鞘から抜く事ができるはずだ。加えてあの剣は生きていて、所有者を選ぶ生意気な剣なのだ。
それになにより――。
「ふふふ、驚いてる驚いてる」
魔女は楽しそうに剣を地面から引き抜いた。
「いくらあなたでも魔王を殺すほどの剣なら首をはねる事もできるでしょう? 用意するの大変だったんだよ」
大変、もなにも最初の邂逅から一刻しかたってないのに。転移できるなら勇者の下にいくのも簡単そうだけど、私の記憶が正しければ、あの剣は錆びてなんかいなかった。錆びるなんて、まるで死んでると同じじゃないか。
聖剣の事も気になるけど、今は魔王のほうが気になる。あの剣で切られているとしたら、魔王は今既に死んでいてもおかしくないのだ。死んだとしても、数年後には世界のどこかに復活するわけだけど。
いくら聖剣といえど、魔王の魂を滅ぼす事はない。そうしてしまうと、聖剣そのものが自身の存在理由を失うからだ。
私の体の内側から力が湧き出てくる。魂のそこから。
「あ、そうか。殺しただけじゃだめなんだよね」
彼女は思い出したように倒れたままの魔王に剣先を向けた。血が沸き立つ、久しく忘れていた感情が、私を前に押し出した。
『触れるな!』
ただの吠え声にしかならなかった言葉は強い力になって文字通りに周囲を凍りつかせた。建物が炎ごと氷に飲み込まれ、歪な形のオブジェクトがそこかしこで出来上がる。その中で魔女だけは平然として魔王に剣を付きたてようとしていた。彼女の周りだけ氷ができてない。
『触るなって言ってる!』
一瞬で近寄り爪を振り下ろしたら、見えない壁に阻まれて爪が折れた。噛み付こうにも噛み付ける場所が無く、絶え間なく氷を叩きつけても見えない壁は傷のひとつも見せない。
満月と魂、私の持つ本来の力が、体の奥から懇々と湧き出してくる。今なら世界中だって氷の海に沈められそうだった。
でも私は魔女を攻撃する事をやめて、魔王の傍によろうとした。それを箒を握った手の一振りで吹き飛ばされた。見えない手で投げ捨てられたみたいに。なんとか凍った地面に爪を立てて踏みとどまると、いかにも面倒そうにため息をついて、魔女が箒で払う仕草をする。
なんてことのない仕草だったのに、私の目には不機嫌そうな風の精霊が束になって襲ってくるのが見えた。精霊は私の胸を貫き、背中に抜けて、衝撃で弾き飛ばされた私は動けなくなる。
肺に穴が開いていた。背中の骨が砕かれていた。それ以上に、体内でむちゃくちゃに暴れた精霊が居座って、傷口をくずぐずに引き裂いているのが辛かった。再生と破壊が絶え間なく続いて、まさに生き地獄。
「あーぁ。今ので死んでくれてもよかっただけど。やっぱり順番は必要みたいだね」
順番。殺す順番。
「フェンリルと魔王レグヌムは魂の契約をしてる。だから、魔王がこの世に存在している限り、フェンリルは死ぬ事が無い。だけど魔王が転生中のときだけ、フェンリルは殺す事ができる」
なら、まだ魔王は生きてると言う事。わかってる。この体の一番深い場所から溢れる力は、魔王の力だ。魔王が私と契約したときにくれた、魔王の持つ力の半分。その絶対的な力を使うことを、許されてる。
息をしているようにも見えないけど、魔王が倒せと言ってる。その魔女は倒していい。全力を出して倒してしまえと。一番深くで繋がったところから訴えていた。
わかってる。それが望みならやってやる。結果的に世界が氷河に包まれようと、魔王が望んだんだからやるんだ。
私に出来る事は少ない。意志すら伝えるのが出来ない私だから、魔王が私に望んだ事は全てやるのだ。
痛みをこらえて体を起こすと、魔女は少しだけ驚いたみたいだった。飛び込んで、ありったけの力で壁を引き裂こうとする。溢れた力がじわじわと広がって、雪が降り始めた。氷は今や私の体すら蝕み始めた。
「へぇ、すごいなぁ。ちょっとの希望でそうやって起き上がるの。変わってないね。変わらないのかな? ま、いいや」
私が一歩踏み出すよりも先に、彼女はすごく優しそうな表情をして、魔王の胸に剣を突き刺した。魔王の体が少しだけはねる。搾り出した声が四方八方から氷柱となって襲う。その全てが、今までと同じ結果に終わった。
「ぐ……ぁ…」
剣はすぐに引き抜かれた。致命傷にもならない傷。だけど、胸の真ん中を突き刺した剣には真っ白な光を放つ球が突き刺さっていた。初めてみる、とても美しい球。初めてだけど、私はすぐに何かわかった。
あれは、魔王の力の源。魔力だ。
『やめて』
泣きそうな声だったかもしれない。感情は空から巨大な氷柱を落としたけど、壁にぶつかって粉々になっただけだった。
『それだけはだめ』
懇願した。人間に初めて。
漏れた言葉が辺りを凍り付ける。今や町全体に氷の力は広がりつつあった。私の手足は血まみれで、完全に凍り付いていた。魔女はその様子を楽しそうに眺め、空中に浮いた箒に腰掛けて私に向き合う。彼女の表情がなぜかひどく優しいもので、それが私を困惑させた。
息が切れ、感じていた力が薄くなっていく。見上げた空には雲がかかり、大好きな雪が降っていた。魔法の力に頼らない最後の攻撃を叩きつけたけど、爪のない前足が肉級で壁を叩くだけだった。
なさけない。なんてなさけない。この私が、こんな壁に傷ひとつつけられないなんて。
「あなたのためだよ」
優しい口調で彼女が言う。
「あなたのためなの」
繰り返し同じ事を。
「あなたを殺すのはあなたのためなの。それが全部いい結果になる」
『…意味が、わからない』
なんだか、寒くなってきた。
「わからなくていいよ。わかる必要なんてないの。だって、死ぬんだし」
決まった事のように彼女は言う。まだ私は生きてるのに。
『あなたは何? 何がしたいの?』
「私は『ミデン』。絶対の魔女ミデン。あるべきようにある者、かなぁ」
自分の事なのにずいぶんふわついた言い方だ。すごく楽しそうだ。うれしくて仕方ないみたいに。
「じゃ、そろそろ」
無造作に、箒に座ったまま剣を振り上げた。
(…あぁ……)
体は反射的に逃げようとした。だけど、凍りついた脚はいう事をきかなかった。
次の瞬間には上顎から下顎に聖剣が貫いていて、一瞬で地面に縫い付けられた。起き上がろうと抵抗するけど、杭で固定したようにまるで動けない。そうでなくても、今の私は起き上がる力すら残ってないのだ。
「それじゃね」
魔女は私に止めを刺さずに炎に包まって消えてしまった。魔王の魔力を持ち去られた。私はずたずたになった体を再生できずに、全身の傷口から血が溢れていた。体の中を聖剣から流れてくる暖かい力が蝕んでいく。
(死ぬ……死んでしまう。わかる)
体がどんどん冷たくなるのを感じた。自身で作った氷が冷たくてしょうがない。
(魔王、魔力取られたけど復活できるの? 私がいなくても、大丈夫?)
凍りついた前足を必死に倒れたままの魔王に伸ばすけど、あと少しで届かなかった。あれだけ苦戦した壁はなくなってるけど、なんだかもっと遠くなった気がする。それにもう生きているかもわからない。死んでるかも。
魔王との死別はもう何回か経験してるから、気持ちはあっさりしてた。あーぁ、死んじゃった。みたいな。
(和平条約、どうなるんだろう……国王、死んでいるかもしれない。魔王も死んだら意味ないか)
それでも手を伸ばしたまま、何度も地面を叩く。気付いてほしい。手を伸ばしてほしい。だって、今回は私が死ぬんだ。私は魔王みたいに生き返れない。魂が別のものに生まれ変わったら、もう会えなくなるのだ。そんなので再会したって意味が無い。今、感謝の言葉の一つくらい言ってほしい。
意識がだんだん薄れて行く。血を失って死ぬのは、なんだか眠るのに似ていた。
(…魔王、静かに寝てるな。今ならいびきかいてても寝られそうなのに)
まぶたが重い。睡魔が寄って来る。息をするのも億劫になってきた。
(死ぬ……のかな。怖くない。なんでか、怖くないや……)
目を閉じる寸前、魔王の手が少しだけ動いた。それは私の幻覚だったかもしれないけど、僅かに動いた手は私の手を握ったように見えた。
感覚なんて無い。体中冷え切っていた。聴覚も薄れてく。耳鳴りがひどい。弱い心臓がずっと近くに感じた。でも、煩いくらいの心臓の音に混じって、慣れ親しんだ声が聞こえた気がした。
「しぬな……そなたはしぬな……そなただけが、我が唯一の――」
言葉は最後まで聞き取れなかった。目を閉じていたから表情も見れなかった。でも、いいのだ。なんだか幸せだから、それでいいや。ずっとがんばってよかったって思えた。
だからおやすみ、魔王。おやすみ……。