罪と罰
魔族の序列の中で自分達がかなり低い位置にいる事はわかっている。だが、そんなものは竜やエルフといったプライドの高い連中にしか意味が無いと、彼は思っている。
人間がなんだ、他の魔族がなんだと気にして生きるのは馬鹿馬鹿しいことだ。結局のところ、他者を圧倒する力があれば序列なんて関係が無く、自分が思うままにできるのだ。
魔王がいい例だ。魔力の淀みから生まれたとか言うあの人型の怪物は恐ろしく頑丈で、呪文を唱えれば天変地異が起こる。殺すには妖精の鍛えた特別な剣が必要だが、殺したところでものの数年で、より強い力を蓄えて復活する。何より厄介なのが、四六時中そばにいる狼だ。フェンリルとかいうあいつは、素早く頑丈で、おまけに氷の力を操る。あんなバケモノを従えているからこそ、魔王は魔王たらしめるのだ。
他者を力で捻じ伏せ、恐怖で支配する魔族の王。あれこそ序列の頂点に立つにふさわしい存在だ。
だが……あぁ、忌々しい! 我々の一族ですら素直に認めていたあの男が、人間との和平を求めるとは!
あの力があれば人間を押さえ込み家畜にするのは簡単なはずだ。なのになぜあぁも腑抜けてしまったのか。
繰り返し思う。忌々しい。あれでは力を持ちながら傍観するだけの竜族となんら変わらない。本当に気に入らない。
何より気に入らないのが人間のために魔族を敵にする事だ。本当に、ふざけている。
「お、おかしら。そろそろ村が見えてきます」
緑色の肌にボロをまとった小人が彼の前でびくつきながらも報告する。恐怖に染まった大きな瞳が涙に濡れている。あぁ、実にいい。弱い者を従えるというこの感覚は、力ある者にだけ与えられた特権だ。
彼は醜く膨らんだ自慢の腹をさすって、血なまぐさい息を吐き出して小人に命令する。
「戦闘の準備をしておけ。すぐに狩りを始める」
「へ、へぇ…」
小人――ゴブリンはびくつきながら後ろに下がった。そんな彼の尻を蹴飛ばすと犬みたいな悲鳴を上げて走って行く。
実に楽しい。
彼は口の端を持ち上げながらその場に腰を下ろした。林の中、ゆらゆらと揺れる影は彼が従えるゴブリン達の群れである。
彼はオーグル族。醜く大きな腹と筋肉質の体。鋭い爪と短い角が特徴的な『食人鬼』とも呼ばれる種族だ。彼の腹は醜く肥えて丸々と張っているが、それこそがオーグルの中でも裕福で地位の高い者の証だった。首にかけた人間の頭蓋骨を使ったネックレスは、族長の証である。
乱暴な性格で力の弱いほかの魔族を従え、人間の村や町を襲わせる。決して人肉だけでしか生きられない、というわけではないが、弱い者が悲鳴を上げ助けを請い、絶望しながら食われる、そんな所がたまらなく好きな一族だ。
最近は人間の血を吸うヴァンパイア族と共に人間を家畜化する計画を行っていたが、どういう事か魔王軍が人間ではなく自分達を攻撃し始めた。生きるために吸血が必要なヴァンパイアまでもだ。大方、和平の条件に人間の王にそそのかされたのだろう。
彼が担当していた村も、そんな魔王軍の一角、巨人のキュクロプス率いる巨人騎士団に攻撃された。伝承に出てくる巨人の称号を魔王より与えられただけあって、数名のオーグルや体の小さいゴブリンではまるで歯が立たなかった。頼みの綱であるヴァンパイアも我先にと逃げ出す始末。
本当に忌々しい。彼は結局、同族を失い一人と十数匹のゴブリンを連れて敗走したのである。もう何日も前の事だ。思い出すと今でも腸が煮えくり返る。
だがまぁ。それはそれでいい。彼にはまだ、オーグル族がヴァンパイアに持ちかけた話を続ける気力がある。そこには彼なりに改良した計画があった。
この林を抜けた先にある村。そこで人間の数匹をさらいどこか目立たぬ場所で繁殖させる。生まれた子供はすぐには喰らわず、エサを与えて成長させる。そして育ったら子を産ませ、個体数を増やすのだ。
当分の間、自分は人間の肉を我慢する。外に出て狩りをするのもだめだ。とにかく我慢して、人間を増やしていく。弱った奴で我慢すればいい。そうやって家畜を増やし、最終的には仲間達やヴァンパイアに売るのだ。
近いうちにオーグルとヴァンパイアは居場所を失う。きっと人間を捕らえるのも、血を吸うのも困難になるだろう。そこで自分が救世主となって、彼等に救いの手を差し伸べるのだ。
そうすれば、魔族の頂点とまでは行かないが、オーグルはもちろん、プライドの高いヴァンパイアを従えるのも夢じゃない。
先を見据えた完璧な計画。無論、困難はあるだろうが成功したときに得られるのは、自分の王国だ。
「ぐふふ…ゴブリンには作物を育てさせるのがよかろう……人間にも自分達の食い扶持を自分達で作らせるのがよい。川や土のある場所を見つけねばな…」
計画を思い返しながら、彼は戦闘準備が整ったと報告に来るゴブリンに頷いてみせる。
彼等には物音を立てずに村を襲うように命じてある。子供と女は優先して捕らえるようにも。抵抗するなら好きにしてもいいと。なに、足りなかったら、他の村で補充すればいい。
「で、では、参りますね? ひひ」
弓を持ったゴブリン長が引きつった含み笑いをし、仲間を連れて林を出て行く。オーグルの前では恐怖で支配されていた彼らだが、人間を襲うとなると話は別だ。先程も恐怖に濡れた瞳の奥には欲望が渦巻いていた。ゴブリンは弱い生き物ではあるが、捕らえた他の種族を最も屈辱的な方法で壊れるまで遊び尽くすのだ。あれだけは彼も認めている。もっとも、中には理知的なゴブリンもいるようだが、少なくとも彼の配下は「それ」が楽しみで彼に従っている者しかいない。
丘の上の村には灯りがともっていない。見張りの兵士も見たところいない。これは簡単な狩りになりそうだ。上手くいったら、奴等が望む獲物を一人と言わず何人か与えてもいいだろう。なに、他者に寛大である事はこれから王になるには必要な事だ。
そう思い、彼が愛用の斧を手にして立ち上がった時だった。ずっと後ろから妙な気配を感じたのである。
(なんだ?)
彼は自分達が進んできた林の奥を凝視する。月明かりが差し込む森は静かなものだった。
巨人族の追っ手。それを危惧した彼だったが、木々の間隔が短いこの森を抜けることは出来ない。出来たとしても、バキバキと木を薙ぎ倒すしかないだろう。巨人騎士団は強力だが、機動力に欠ける事で有名だ。
では何が来たというのだろう。獣の類は例えオーグルが寝ていたといても襲ってくる事はない。だから、これは間違いなく同じ魔族だ。
武器を構え、徐々に濃くなる妙な気配に彼は備えた。やがて木々がざわめき始め、その間を縫って何かが脇を通り抜けたのを、感じた。
「…グッ……おっ!」
それが通り抜けた直後、彼は後ろによろめき、なんとか踏みとどまった。強烈な痛みが後に続き、武器ごと失った右腕を強く握り締める。
やられた。そう思ったときには惨劇が始まっていた。
「ひぃぃい!?」
ゴブリンの悲鳴で再び振り返る。林を抜けた先、そろそろと移動していた十数名のゴブリンが、軒並み腰を抜かしていた。
彼等の進行方向を遮っていたのは、一匹の狼。ただし、並みの狼よりも数段大きく、何倍も美しい狼だ。
灰と白の二色の毛並み。美しい青色の瞳。逞しい四肢で踏みしめる草は、真っ白に凍り付き、鋭い牙の並ぶ口には斧を握った腕が凍りついた状態でぶら下がっている。月明かりに惜しげもなく身を晒すその者は、放つ殺気すらも凍る様に冷たい。
「ふぇ、フェンリルだぁ!」
ゴブリンの一匹が恐怖に駆られて逃げ出した。フェンリル……魔狼族の最高位の称号を持つ神狼。魔王直属の護衛であるそいつがなぜこんな辺境の村に?
フェンリルはどこか優雅なしぐさでオーグルの腕を放り捨てると、逃げ出そうとしたゴブリンに向かって短く吠えた。するとゴブリンとフェンリルの間の下草が一瞬で凍りつく。オーグルは一瞬それだけかと思ったが、ゴブリンの胸には深々と空色をした氷柱が突き刺さっていた。
「ひ、ひぃ!」
弓を番えたゴブリンが、涙目でフェンリルに矢を放つ。だが、そんなもので魔王直属の魔族をしとめられるはずが無い。あの狼は、傷つけられない事で有名なのだ。
フェンリルは矢をやすやすと避け、四本の足で強く踏み込んだと思うと一瞬で姿が掻き消える。そして次の瞬間には体当たりで吹き飛ばされたゴブリンが林の木にぶつかっていた。見れば、口から血を流し、体が大きくひしゃげている。
オーグルの彼が従えていたゴブリンは完全に恐怖に支配されていた。フェンリルが爪を振るえば体が二つに裂け、小さく吠えればそれだけで無数の氷柱が矢のように飛んでいく。なんとかナイフを持ったゴブリンが後ろから襲い掛かるも、前足を持ち上げ、その場で踏みしめるだけで水面を叩いたように地面から鋭い氷が噴出し、近くにいたゴブリンを串刺しにする。時にはなんの前触れも無く氷の塊が降り注ぎ、逃げ出すものの行く手を遮った。
一匹、また一匹と、遅すぎるくらいにオーグルの部下は減っていった。遊んでいるのだ、と理解したときには、動けるゴブリンはいなくなっていた。誰も、あの大きな顎では殺されていない。それはフェンリルが自分達を喰らう価値もないと言っているようなものだった。あるいは、汚らわしいとでも言うような。
オーグルは、ただ呆然としていた。フェンリルが一歩ずつこちらに向かってきても、傷口を押さえるだけで何もしなかった。
殺される。自分が今までそうしてきたように、あっけなく殺される。彼は理解していた。
血の一滴も浴びていないフェンリルが、オーグルの前に立つ。巨体で知られる彼の前に立って尚、同じ視線にある巨狼は、自身の周囲にきらきらと氷の結晶を生み出し続けていてどこか幻想的だった。
オーグルは跪く。抵抗は無意味だと悟った。抵抗すれば、許してももらえなくなると。
その様子にフェンリルは片足を持ち上げた。そのままオーグルの左肩にそっと足を置く。それはまるで相手を許すような仕草。
(まさか?)
彼は顔を上げた。オーグルにあるまじき希望に満ちた顔だった。脂汗がびっしりと浮かび、引きつった表情をしてはいたが。
許されるなら、これから静かに暮らそう。そう、確かに思った。
だが。
「ぐッ…」
彼の顔が苦悶に染まった。鎌のような爪が、深く食い込んでいた。
「あ…あぁあぁ…ッ」
そのまままるでバターでも切る様に、左腕が根元から切り落とされた。
「ひ、あああああッ!」
噴出す血を抑えようとしたが既に右腕は半分なくなっている。フェンリルは蒼白になったオーグルの顎を軽く押し、地面に転がした。
「ひぃぃぃ! た、たすけてくだひゃ!?」
逃げ出そうとした彼の右足が、一瞬で凍り付く。そしてフェンリルは片足を持ち上げ、爪先から順に、凍りついた足を踏み砕き始めた。
痛みは無かった。しかし、自分の体が徐々に壊されるというのを目の当たりにして、オーグルは悲鳴を上げた。
フェンリルはそれからもいたぶる様にオーグルを少しずつ傷つけていった。その目はひどく冷たく、少しも楽しげではなかった。
体中壊され、ついに彼の命が終わる時、彼は理解した。
生きながら殺すこと。それは散々彼が人間にやって来たことだった。