魔王とフェンリル
プロペディアにやってきて魔王はずいぶん楽しそうだけど、私はあまり楽しくない。神殿騎士団のノーチェや国王のレイオンとは面識が無いわけじゃないけど親しいほどじゃないし、そもそも魔族でも私と親しいのは魔王直属部隊の数名だけ。食事は上等なものが出ているけど、とっくの昔に味覚が失われている私には味なんてさっぱりわからない。いっそのこと煮たり焼いたりしないで生肉でも出してくれればいいのに。
夕食後も王国自慢の金の噴水がある大浴場に案内されて、人間のメイドに体中洗われたり、与えられた部屋に戻ってもレイオンが訪ねて来て騒いだりで大変だった。
結局、部屋のふかふかのベッドで放って置かれた私は先に眠ってしまい、次に目覚めたのは真夜中の事。天高く登った月の魔力で、体中の血がざわめいて目覚めたのだ。
体を起こすと、月明かりが差し込む窓際で魔王が机に突っ伏した姿で眠っていた。羽ペンを持ったまま力尽きてる。
私はベッドから降りると、毛布の端を口で加えて魔王の下まで引っ張っていく。魔王が風邪なんてひくわけが無いのだけど、これは優しさの表現の一つだからやるのだ。私はあなたを心配している。その意思表示。
起こさないようにうまく毛布をかけるのはなかなか難しい。魔狼族の秘術書に人化の魔法があるのだけど、呪文が唱えられない私にはそれが出来ない。こういう時、普通の魔狼に生まれたかったと後悔する。何度か試行錯誤して、ようやくいい感じに掛かったと思ったら、魔王が薄目を開いてこちらを見ていた。
「ふふふ、あまりに一生懸命やっているものだから寝たふりをしてしまった」
……最初から起きてた?
「起きていた訳ではないぞ。そなたの体から漏れる冷気で目を覚ましたのだ」
見れば、私の体には窓から差し込む月光を浴びて抑え切れないほどの冷気が周囲の空気を凍らせていた。灰と白の毛並みに、きらきらと結晶が表れては消える姿は自分でも思うくらいに綺麗だった。
魔王はそんな私の姿を見ながら、肩にかけた毛布を手繰り寄せて微笑む。
「今日はすまなかったな。構ってやれなくて」
別に謝る必要は無いのに。
ぐしぐしと上あごを撫でられ、そのまま頭、全身を優しく撫でられて行く。
「今日ここまでやってこれたのはそなたの力添えがあったからだ。聡いそなたならわかっておるだろうがな」
当然。私がいなければ魔王なんて今頃どこかで死んでいる。
魔王、という称号が似合わない優しい表情をして、彼は私の体を抱きしめた。ふわふわの毛に埋まった魔王は冷気で肌や服が白く凍り付くけど、しばらくの間そうやっていた。
ようやく離れた彼は、体の霜を取りながらどこか寂しげに言う。
「余はいつも思う。そなたが人の言葉を操れるならばどんな言葉を余にかけてくれるのだろう、と」
罵倒の言葉かな。でも、何で今そんな事を?
私が不思議そうに首を傾げたからか、魔王はどこかばつが悪そうに顔をそらした。
「失言だった。忘れるがいい」
そうは言うけれど、すごく気になる。
私は少しだけ考えて、それからずっと昔から考えていた事をやってみることにした。
意識を集中して、自身の力を極限まで抑えて行使する。
「む?」
パキパキと毛足の長い絨毯が私の足元で凍り付いていく。部屋の温度も急激に下がって行き、結露した場所から順番に凍りつき始めた。意識を集中するあまり、全身の毛が逆立っていく。
「どうしたポルタ? 押さえがきかぬか?」
少しあわてた表情で振り返った魔王。その顔が今度は驚きに変わる。
「そなた、それは…」
私の胸元には真っ青な氷で出来た文字が浮かんでいた。細かい造形は苦手なのだけど、力があらゆる方向で強くなる満月ならばなんとか出来るのだ。
不恰好な文字で綴られていたのは、大したことのない言葉だけど。
自分の言葉が伝えられたら、とはいつも思っていた事だけど、いざ作り上げた文字が読まれるとかなり恥ずかしい。私は出来上がった文字をすぐに粉々に砕いて、魔王の脇を通って出入り口へ向かった。
背中越しに声が掛かる。
「すまんな」
短い感謝の言葉だった。
私はそのまま、部屋の外へ出て行く。なんだか、むちゃくちゃに走り回ってやりたい気分だったのだ。
体の芯が熱い。きっと、満月から降り注ぐ魔力のせいだと自分に言い聞かせた。