「やっとですか。遅すぎます」と、婚約破棄された令嬢は笑った
「エレーナ・カーライル。お前との婚約を破棄する」
第一王子ユリウスの声が、宮廷に併設された王立学園の大広間に響いた。
燭台の炎が揺れ、居並ぶ貴族たちが一斉に息を呑む。
大理石の柱に反響した声が消えるまで、誰一人として動かなかった。
「ミリアを泣かせたのはお前だな、エレーナ!」
ユリウスは壇上から見下ろし、右手を振った。
その背後に、目を赤くしたミリアが控えている。
ハンカチを握りしめた指先が小刻みに震え、伏せた睫毛が涙に濡れていた。
「花束の件だ! お前、ミリアに嫉妬を意味する花を贈っただろう!」
広間がざわついた。令嬢たちが扇で口元を隠す。
「屋敷の者だって言ってるぞ! お前がミリアを嫌っていると!」
ユリウスは一歩前に出た。
マントの裾が翻り、金の刺繍が燭台の光を弾く。
「ミリアは宮廷に来たばかりなんだぞ! それを孤立させて、噂で追い詰めて——お前はそれで恥ずかしくないのか!」
声が裏返りかけていた。顔が赤い。
本気で怒っている。正義感が暴走して、もう止まらないのだ。
エレーナは壇上を見上げた。
背筋を伸ばし、両手を前で組んだまま、一歩も退かない。
ユリウスの蒼い瞳が正義の炎で燃えている。三年のあいだ、何度も見てきた目だ。
守るべき者を見つけたときの、あの高揚した輝き。
「よって、カーライル家との婚約を本日をもって破棄する。異論はあるか」
広間が静まり返った。
誰もがエレーナの涙を待っていた。崩れ落ちる姿を、悲鳴を、哀願を。
子爵令嬢が王子に縋りつく姿を、貴族たちは期待の目で見つめている。
エレーナは口元に手を当てた。
指の隙間から、小さな息が漏れた。
笑っていた。
「やっとですか」
澄んだ声が、広間の天井まで届いた。
「遅すぎます、殿下」
ユリウスの眉が跳ね上がった。ミリアが目を見開く。
広間が凍りついた。
「な……何を言っている」
エレーナは微笑んだまま、懐から封筒を取り出した。
封蝋は割れていない。あらかじめ用意されたものだと、誰の目にも明らかだった。
「殿下、婚約破棄の書面にご署名をいただけますか。こちらに用意してございます」
* * *
半年前のことだった。
「父さま、お加減はいかがですか」
エレーナはベッドの脇に腰かけ、父の額に冷たい布を当てた。
カーライル子爵邸の寝室は、かつての華やかさを失って久しい。
壁紙は色褪せ、暖炉の上にあった銀の燭台も、先月売り払った。
「すまんな、エレーナ。お前にばかり苦労を」
痩せた手が布団の上で所在なく動いている。
「苦労なんて。父さまが元気になってくだされば、それだけで」
「嘘が上手くなったな、お前は」
「父さま譲りですわ」
父が笑った。それから咳き込んだ。
「さあ、薬湯を」
エレーナは杯を差し出した。
自ら庭で育てたカモミールを煎じたものだ。買えば銀貨五枚はする薬草を、エレーナは庭の片隅で育てている。
父が眠りについてから、エレーナは書斎に向かった。
中に入り、鍵をかけた。
机の上に広げたのは、婚約契約書の写しだった。
第七条。
何度読んでも、同じ文言が並んでいる。
『王家の意思により婚約を破棄する場合、カーライル家が供出した担保(一万金貨相当)は王家の負担とし、返済義務を免除する』
エレーナの指が、その一行をなぞった。
この婚約は、父の借金の担保だった。
カーライル家は代々王家に薬を献上してきた薬草学の名門だった。婚約は家の功績に対する恩賞として決まったものだ。家が傾いても、婚約だけが残った。
こちらから破棄すれば、一万金貨の即時返済。没落した子爵家に、そんな金はない。
だが、王家側から破棄させれば。
エレーナは窓の外を見た。
庭の片隅で、薬草が月明かりに揺れていた。
幼い頃から育ててきた小さな畑。いつか領地の丘一面を薬草園にする。
宮廷のドレスより、土に汚れた手袋のほうがずっと手に馴染む。
「殿下を動かすには、殿下自身が決断したと思わせなければ」
呟いて、白紙の便箋を引き寄せた。
万年筆のインクが紙に滲む。計画の骨子を、一行ずつ書き出していった。
三年間、殿下の隣にいた。
何が殿下を怒らせ、何が殿下を奮い立たせるか、手に取るように分かる。
去年の舞踏会で、殿下は見知らぬ平民の少女が貴族に絡まれているのを見つけ、相手の身分も確認せず怒鳴り込んだ。あとで相手が大公の甥だと知って大騒ぎになった。
あの正義感に、正しい方向から火をつけるだけでいい。
* * *
四ヶ月前。
学園の渡り廊下で、エレーナは伯爵令嬢ミリア・レーヴェンとすれ違った。
「あ、エレーナさま。おはようございます」
ミリアは屈託なく笑った。
栗色の巻き毛、大きな琥珀の瞳。天真爛漫で、裏表がない。
宮廷に入ったばかりの彼女は、誰にでも同じ笑顔を向ける。
だからこそ、使えた。
「おはようございます、ミリアさま」
エレーナは会釈だけして足早に去った。
振り返らない。親しげな態度は一切見せない。
ミリアが小首を傾げる気配が背中に伝わった。
それでいい。
翌日の昼、食堂の窓際でエレーナは一人で本を読んでいた。
ミリアがこちらに近づいてくる足音が聞こえた。
「エレーナさま、お隣よろしいですか?」
「申し訳ありません。今日は少し、読みたい本がありまして」
断る理由に嘘はない。実際に読んでいたのだから。
ただ、それを見ていた周囲の令嬢たちが何を思うかは、別の話だった。
殿下は必ずミリアに近づく。心細そうにしている令嬢を放っておけない人だ。
そして婚約者の不在を、冷たさと読み替える。三年間見てきたから分かる。
* * *
二ヶ月前。
エレーナは使用人のマルタを自室に呼んだ。
「お茶を入れたの。座って、マルタ」
「あ……ありがとうございます、お嬢さま」
マルタは恐縮しながら椅子に腰かけた。
エレーナは茶菓子の皿を押しやり、穏やかな声で切り出した。
「マルタ、ひとつ頼みがあるの」
「なんでございましょう」
「最近、ミリアさまと距離があるの。私がうまく立ち回れなくて。そのことを聞かれたら、正直に答えてくれていいわ」
「で、でも、お嬢さまのことを悪く……」
「悪くは言わないわ。事実を答えるだけよ。私がミリアさまと距離を置いている、と」
マルタは困惑した顔で頷いた。
聞く者が「快く思っていない」と解釈するのは、聞く者の問題だ。
噂は広がった。宮廷の茶会で、学園の食堂で。
「カーライル家のお嬢さま、ミリアさまに冷たいらしいわよ」
「没落子爵家の嫉妬でしょう。伯爵令嬢が気に入らないのよ」
いじめる側を演じるのは簡単だった。何もしなければいい。周囲が勝手に物語を作ってくれる。
殿下の耳にも、当然届いた。
* * *
一週間前。
エレーナは庭で摘んだばかりの花を束ね、リボンで結んだ。
黄色い薔薇と紫陽花を選び、侍女に差し出す。
「この花束を、ミリアさまの机に届けてくださる?」
花言葉を知る者が見れば、嫉妬と移り気。
知らない者が見れば、ただの美しい花束だ。
ミリアは喜ぶだろう。花が嫌いな令嬢はいない。
実際、翌日の昼にミリアは花束を抱えて廊下を歩いていた。
「エレーナさまから? まあ、素敵ね」
周囲の令嬢がそう言うのを、エレーナは柱の影から聞いていた。
問題は、殿下の側近、グレン・ハーヴェイだった。
グレンは花言葉に詳しい。
エレーナが半年前、グレンに植物図鑑を贈ったのは、この日のためだった。
「殿下の側近が博識でいらっしゃるのは心強いです」と添えた手紙ごと。
グレンは喜んで図鑑を読み込み、今では宮廷一の花言葉通を自認している。
グレンは花束を見て、必ず殿下に進言する。
そしてグレンは、その通りに動いた。
「殿下、あの花束にはご注意を。黄色い薔薇は嫉妬、紫陽花は移り気。悪意ある当てつけかと存じます」
「何だと……ミリアにそんな花を? 許せん!」
報告を聞いたエレーナは、窓辺で薬草の葉をちぎりながら微笑んだ。
すべての駒が揃った。
* * *
ふたたび、大広間。
エレーナが差し出した書面を、ユリウスは奪い取るように受け取った。
「当たり前だ! こんなもの、いくらでも書いてやる!」
万年筆を手に取り、流れるような筆致で名を記す。
ユリウス・アルベルト・ヴィクトリア。
インクが乾くのも待たず、書面をエレーナに突き返した。
「これで満足か」
「ええ、十分です」
エレーナは書面を丁寧に折り畳み、懐にしまった。
そして、もう一枚の紙を取り出した。
「殿下。ひとつ、ご確認いただきたいことがございます」
「まだ何かあるのか。早くしろ」
ミリアのほうをちらりと振り返る。大丈夫だ、すぐ終わる、と目で伝えている。
「婚約契約書の第七条を、お読みになったことはおありですか」
ユリウスの眉間に皺が寄った。
エレーナが差し出した契約書の写しを、不機嫌そうに受け取る。
視線が文面を追うにつれて、ユリウスの顔色が変わっていった。
日焼けした頬から血の気が引き、唇が薄く開いた。
「……王家側からの破棄の場合、担保一万金貨は王家の負担……」
呟く声が、広間の静寂に落ちた。
「待て。これは……いや、俺が署名したのは……」
「その通りでございます」
エレーナは一歩前に出た。
「殿下がたった今ご署名くださった書面により、カーライル家の借金一万金貨は王家の負担となりました」
エレーナは書面の折り目を、指の腹でそっと伸ばした。
「貴族の皆さまの御前で第一王子が宣言された婚約破棄は、王家の公式な意思表示とみなされます」
ユリウスの喉が上下した。声にはならなかった。
「契約書の正本は王宮の書庫にございます。ご確認はいつでもどうぞ」
「殿下の正義のご英断に、心より感謝申し上げます」
広間がざわめいた。今度は先ほどとは質が違う。
壁際の従者が一人、小さく吹き出して、隣の従者に肘で突かれた。
ユリウスの手が震えた。契約書の写しが、くしゃりと音を立てた。
「お前……最初から、これを狙って……」
「殿下のご判断は、殿下のものです。私はただ、殿下がお決めになる環境を整えただけですわ」
「ふ、ふざけるな! 俺は正しいことを——」
言いかけて、止まった。
署名は自分の手でした。罪状を読み上げたのも自分だ。
「……くそ」
拳を握ったまま、ユリウスは俯いた。
エレーナは深く一礼した。
「ミリアさま」
背後で身を固くしていたミリアが、びくりと肩を揺らした。
ハンカチを胸の前で握りしめ、琥珀の瞳でエレーナを見つめている。
「私……利用されたんですか?」
鼻の奥がつんとしたような、泣き出す直前の声だった。
エレーナは首を横に振った。
「いいえ。あなたは何も悪くありません。あなたはいつも通り、優しく、真っ直ぐにいてくださっただけです」
嘘だった。だが、この子に真実を告げたところで傷が増えるだけだ。
ミリアの唇が動いた。何か言いかけて、止まった。
エレーナは小さく微笑んだ。
「ミリアさま。殿下をよろしくお願いいたします。少し単純な方ですけれど、根は悪い人ではありませんから」
「待てエレーナ! 話はまだ——」
ユリウスが叫んだ。エレーナはもう聞いていなかった。
窓の外では、夕暮れの空が茜色に染まっている。
「皆さま、長らくお騒がせいたしました」
踵を返し、大広間の扉に向かって歩き出す。
足取りは軽かった。
扉を押し開けると、廊下に夕日が差し込んでいた。エレーナは深く息を吸った。
薬草の香りはしない。だが、もうすぐだ。
* * *
その夜。
カーライル子爵邸の玄関は、灯りがひとつしか点いていなかった。油を惜しんでいるのだ。
エレーナは燭台を借りて階段を上がった。
父は起きていた。枕を背に立てて、窓のほうを見ている。
「遅かったな」
「少し、片づけることがありまして」
エレーナは寝台の脇に腰かけ、懐から折り畳んだ書面を取り出した。皺にならないよう膝の上でゆっくりと開くと、父の痩せた手が伸びてきて紙の端を摘んだ。
「……婚約破棄の、書面」
「はい」
「署名は、殿下ご本人か」
「大広間で。貴族の皆さまの御前で」
父は黙った。紙面を追う目が、一行ずつ下がっていく。
途中で止まった。そこに何が書いてあるか、エレーナには分かっていた。
第七条の但し書きを父も三年前に読んでいる。
喉の奥で、かすれた音がした。
「お前」
「一万金貨は王家の負担になりました。返済の義務はもうございません」
父の手から紙が滑り落ちた。エレーナはそれを拾い、膝の上で畳み直した。
「父さま。これで、丘を売らずに済みます」
「エレーナ」
「セージは日の当たる南面に。ミントは北の日陰。ラベンダーは中腹の、風の通る帯に。三年かければ、王都に卸せるだけの量が採れます」
早口になっていた。喋りながら、自分の声が震えているのに気づいた。
ずっと誰にも言えなかった計画だった。
婚約者の令嬢が土いじりの話を始めれば、宮廷では三日で笑い話になる。
父の手が、エレーナの手の甲に重なった。骨の浮いた軽い手だった。
「お前は……三年、何も言わなかったな」
「言えば、父さまはお止めになりましたでしょう」
「止めたな。間違いなく」
父は天井を見上げた。目尻から耳のほうへ、細い筋が流れていく。
エレーナは見なかったふりをして、燭台の芯を指で直した。
「嘘が上手くなったと、申されましたね」
「言った」
「あれは本当のことでした。父さまが元気になってくだされば、それだけで」
暖炉の残り火が爆ぜた。それきり、しばらくどちらも喋らなかった。
「……薬湯を、いただこうか」
「ただいまお持ちします」
エレーナは立ち上がった。扉のところで振り返ると、父はもう窓のほうを向いていた。
薄い肩が小さく上下していた。
階段を下りながら、指を折って数えた。丘の南面を拓くのに一年。
苗を増やすのにもう一年。丘の上まで水を引く樋をどうするか。
考えることは、いくらでもあった。
* * *
三ヶ月後。カーライル領の丘の上。
エレーナは膝をついて、ラベンダーの根元に土を寄せていた。
爪の間に黒い土が入り込む。宮廷にいた頃なら考えられないことだ。
手袋を外し、素手で土に触れた。冷たく、柔らかく、生きている感触がした。
「失礼、こちらがカーライル薬草園ですか」
振り返ると、荷馬車の横に男が立っていた。
日に焼けた肌、飾り気のない麻の上着。袖を肘まで捲り上げた腕は、よく働く者の腕だった。
「ノエル・ヴァルトシュタインと申します。辺境で薬草の取引をしております。街の薬師から、この丘に見事な薬草園があると聞きまして」
「エレーナ・カーライルです。まだ園と呼べるほどの規模ではありませんけれど」
ノエルは畑を見回し、目を細めた。
「このラベンダー、標高と土壌に合わせて品種を選んでいますね。南向きの斜面にセージ、北側の日陰にミント。配置に無駄がない」
エレーナの手が止まった。
「……分かるんですか」
「辺境の薬草農家を回るのが仕事ですから。でも、これだけ計算された配置は初めて見ました」
宮廷で三年間、薬草の話に耳を傾けてくれた人はいなかった。
「カモミールの株が少し弱っていますか。この辺りの土は粘土質が強いので、砂を混ぜてやると水はけが良くなります」
ノエルは畑の端にしゃがみ込み、土を一握りすくって指の間で崩した。
その仕草に迷いがなかった。何百回と繰り返してきた手つきだ。
「砂なら、丘の東の浅瀬のものがよいと思います」
エレーナは答えてから、少し迷って付け足した。
「粘土を割るだけなら砂利でも足ります。ただ、根の細いものは砂利で傷みますので」
ノエルが顔を上げた。土を指の間から落とし、立ち上がる。
「……荷馬車に、見ていただきたいものがあります」
運ばれてきたのは麻布に包まれた鉢がひとつだった。背の低い草が植わっている。
葉は厚いが、縁が外へだらりと開いていた。辺境の山でしか採れない血止めの草だ。
図鑑では、葉が筒のようにきつく巻いた姿で描かれている。
「三ヶ月前から、こうなんです。水も日当たりも変えました。土も三度替えた。それでも巻きが戻らない」
エレーナは鉢を膝に抱え、葉を裏返した。指の腹で葉脈をたどる。
それから鉢の縁の土を少しつまんで、舌の先に当てた。
ノエルが目を丸くした。
「塩気があります」
「塩……? 土は替えました。三度とも、山の腐葉土を担いで下りて」
「替えたのが土だけなら、残ります」
エレーナは鉢を傾け、底の水抜き穴のまわりを指した。白いものが薄く吹いている。
「素焼きは水を吸います。吸ったものは、乾いても出ていきません。この鉢が塩を抱えていて、水をやるたびに少しずつ根へ返しているのだと思います」
言いながら、確かめるようにもう一度土をつまんだ。間違いない。
カーライル家の書庫に同じ記述がある。
曽祖父が王家へ献上した薬草が港で枯れ、原因を突き止めるまでに二年かかった。
その顛末が、薬草台帳の余白に恨みがましく書き残してあるのだ。
「ひとつ伺ってもよろしいですか。辺境では、冬の街道に凍結止めの塩を撒きますか」
ノエルの目が見開かれた。
「……撒きます。峠の手前は、春まで白いままです」
「では、荷台の板が吸っています。鉢は新しいものに替えて、荷台には藁を厚く。鉢は藁の上に置いてください」
「藁」
「それから、この株は水を替えて三ヶ月。台帳には、根が戻れば葉はひとりでに巻き直すと書いてありました」
ノエルは鉢を受け取り、しばらく葉を見つめていた。それから、ゆっくりと息を吐いた。
「三ヶ月です。三ヶ月のあいだ、俺は土の話ばかりしていた。荷台を見ていなかった」
「気づかない方のほうが多いのです。私も、書庫の隅に書いてあったのを覚えていただけで」
ノエルが笑った。目尻に深い皺が寄る。
エレーナは鉢を抱えたまま、その笑い方を見ていた。
「もっと、聞かせてください。この土地の薬草について」
ノエルの目は真っ直ぐだった。駆け引きのない目だ。
エレーナは帽子のつばを少し上げた。
丘を渡る風が、ラベンダーの香りを運んでくる。
「ええ、喜んで。長くなりますけれど」
遅すぎるくらいだ、と思った。
この丘に来るまで、三年と三ヶ月。
* * *
翌年の初夏。
丘の中腹が一面の紫になった。花穂が風に傾くたびに色の濃さが変わり、麓の街道からでも薬草園の輪郭が見えるようになったと、先月マルタが嬉しそうに報告してきた。
エレーナは荷台の縁に腰かけて、刈り取った束を数えていた。四十、四十一、四十二。
数え終えると麻紐で十束ずつくくる。
「辺境の分は、こちらで十二束です」
「助かります。冬までに、この倍は要りますよ」
ノエルは荷台に束を積みながら答えた。
最初の取引は乾燥ラベンダー二十束だけだったのに、今では帳面に十七の品目が並んでいる。
荷馬車は月に二度来る。あの鉢の株は巻きを取り戻したと、先月の便りにあった。
川砂を入れたカモミールの畝も、今年になって花つきが変わった。
王都に卸せるだけの量には、まだ二年かかる。それでも辺境の組合の注文だけで、丘は回り始めていた。
「ヴァルトシュタインさま。塩の件、辺境の組合ではどうなりました」
「組合の荷台は全部藁を敷きました。あなたのやり方だと言ってあります」
「まあ。私のではありませんわ。曽祖父の愚痴ですもの」
束をくくる手は止めなかった。ノエルが荷台の向こうで笑うのが、束越しに聞こえた。
「エレーナお嬢さま!」
畑の下のほうでマルタの声がした。振り返って、エレーナは束を取り落とした。
坂の途中に父が立っていた。
杖をついている。マルタが隣で腕を支え、薄い外套の肩が坂の勾配に合わせて上がったり下がったりしていた。
「父さま」
エレーナは走った。畝を跨ぎ、土に足を取られながら坂を下る。
「馬車で……せめて馬車になさってください」
「馬車では、途中の匂いが分からん」
父は息を整えてから丘の上を見た。紫の斜面を、風が筋を作って渡っていく。
「……お前が言っていた斜面は、これか」
「はい」
「ずいぶん広いな」
「まだ三分の一です。東の斜面は来年」
父は答えなかった。杖の先で土を軽く突き、それから体重をかけ直す。
あまり長く黙っているので、エレーナは父の横顔を覗き込んだ。
目を閉じて、匂いを嗅いでいた。
「カーライルの薬草の匂いだ」
その言い方に覚えがあった。幼い頃、父が王家への荷を検分するときも同じだった。
蓋を開けて目を閉じ、それからようやく頷くまでのあいだ、エレーナは横で息を止めて待っていたものだった。
「合格ですか」
「まだ判らん。もう一度嗅がせろ」
マルタが噴き出した。
荷台の上でノエルが麻紐の束を持ち上げてみせる。まだ仕事が残っているという合図だ。
「父さま。あちらで少し休んでいてください。あと三十束ありますので」
「手伝おう」
「父さま」
「座って紐を結ぶだけだ。それくらいはできる」
父は本当に荷台の縁まで歩いて腰を下ろし、マルタが慌てて外套を敷くのを、されるがままにしていた。エレーナは麻紐を一巻き、父の膝に置いた。
「十束ずつ、きつめに」
「言われなくとも」
父の指が麻紐を掛け、輪をひとつ作って締めた。子どもの頃に何度も見た結び方だった。
お読みいただきありがとうございます。
長編連載を準備中です。
「婚約破棄された令嬢ですが、偽聖女の嘘まで聞こえます」——5/1公開予定。
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