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第三部:葛藤と対峙

 翌朝、栞は座敷で目を覚ました。いつの間にか眠っていたらしい。囲炉裏の前に座ったまま、壁に背を預けて。体が強張っていた。首が痛く、腰も痛かった。栞は立ち上がり、窓の外を見た。遠野の朝は静かだった。鳥の声が聞こえる。風が茅葺き屋根を撫でる音がする。穏やかな、平和な朝。しかし栞の心は、穏やかではなかった。昨夜見つけた記録が、頭から離れなかった。そして、お梅の姿も。あれは幻だったのだろうか。しかし、あまりにも鮮明だった。痩せた体、紫色の唇、冷たい目。栞は自分の手のひらを見た。昨夜、炭を握った手。皮膚が赤くなっていた。まるで凍傷のように。しかし、痛みはなかった。ただ、冷たさの記憶だけが残っていた。栞は手を握ったり開いたりした。指が硬かった。

 栞は外に出た。深呼吸をした。朝の空気が、肺に入った。冷たく、しかし清々しかった。早池峰山が、朝日を浴びて輝いていた。栞は、その山を見つめた。この土地に根ざした山。何百年、何千年も、ここにある山。その山は、お梅が生きていた時代も、ここにあった。お梅も、この山を見たのだろうか。

 しかし、その思考は、すぐに別の記憶に侵食された。東京の光景が押し寄せる。

 三年前の秋、入社四年目の栞は、古い商店街の再開発プロジェクトに配属された。商店街を壊し、高層マンションと商業施設を建てる。そのための立ち退き交渉が、栞の仕事だった。多くの店主は高齢で後継ぎもなく、提示した補償金に頷いた。「これだけあれば、老後は安心ですよ」笑顔でそう言うと、話は滑らかにまとまった。マニュアル通りの言葉を、プロの顔で繰り返した。ただ一軒だけ、首を縦に振らない店があった。商店街の角の、小さな駄菓子屋だ。店主は八十を過ぎた岡田タミ。一人で店に立っていた。十月の午後、栞がドアを開けると、古いベルが鳴った。

「いらっしゃい」老婆は、客に向けるのと同じ笑顔で栞を迎えた。「何にしますか」

「あの、実は…」栞が再開発と立ち退き、補償金の話を始めると、老婆の笑顔は静かに消えた。怒りではなく、深いため息のような表情に変わる。

「そうですか。とうとう、この日が来たんですね」栞は何度も店を訪ねた。「新しいビルができれば、この地域も活性化します」「補償金も十分です」そう説明するたび、老婆は首を横に振った。

「ここは、夫が建てた店なんです」店の奥には、白黒の遺影が飾られている。

「子どもたちが来るのを、あの人、楽しみにしててね。飴玉を一つおまけするのが自慢だったんですよ」老婆は写真を見つめながら言った。「ここに立ってると、今も一緒に店番してるみたいで」

 栞はその言葉を聞きながら、頭の中で別の計算をしていた。感情的な抵抗は、金額を積めば崩せる――そう習ってきた。会社からの圧力は強まった。

「早く決着をつけろ」上司の安藤は言った。「この一軒が長引くと、後ろにぶら下がってる工事も全部ずれる。設計も施工も、下請けも。感情に流されるな……これは仕事だ」その「仕事だ」という言葉が、栞には、誰かの言い訳のように聞こえた。


 補償金は当初の二倍になり、三倍になった。それでも老婆は言う。

「お金の問題じゃないんです」栞は、東京に住む息子にも会った。疲れた顔の男だった。「母を説得してくれませんか」息子は言った。「このままじゃ、母も店も共倒れです。もう歳なんです、一人で店なんて無理ですよ」最後の訪問は、十二月の寒い日だった。

 栞は、三倍に跳ね上がった提示額を伝えた。

「これだけあれば、いい施設に入れます。息子さんも安心できます。タミさん自身も、もう無理をしなくていい」自分の声が、完全に機械になっているのを自覚していた。マニュアル通りの文句。会社の口が、栞の喉を借りて喋っているようだった。長い沈黙のあと、老婆はぽつりと言った。

「……しょうがないねぇ」諦めの重みだけが乗った声だった。

 震える手で契約書にサインをする。その手は、何十年も子どもたちに飴玉を渡してきた手だ。その手が、自分の店を手放す線を引いている――栞は、どこかで「何かがおかしい」と思いながら、黙ってペンを見ていた。契約が成立すると、栞は条件反射のように言った。

「良い決断でした」老婆は答えず、奥の夫の写真を見て、何かを小さく呟いた。その内容を、栞は聞き取れなかった。

 立ち退きは一ヶ月後に行われ、老婆は息子の手配した施設に入所した。会社では「難航案件をまとめた」と評価され、安藤は「よくやった」と栞の肩を叩いた。

「こういうのは、誰かが汚れ役をやらないと回らないんだ。今回はお前だったってだけだ」栞は、その「汚れ役」という言葉に、自分がどこまで含まれているのか測りかねた。ただ栞もそのときは、自分の成果だと信じようとした。しかし、二週間後に息子から電話が入る。

「母が、おかしいんです。様子を見に来てもらえませんか」

 施設で会ったタミは、別人のようにみえた。部屋の中をゆっくり歩き回り、何かを探す仕草を繰り返している。「お店に帰らなきゃ」「常連さんが待ってる。飴玉、補充しないと。ベルが鳴ったら、すぐ出ないと」

 栞が名を呼んでも、老婆の視線はすり抜けていく。

「いらっしゃい。何にしますか」やっとこちらを向いたと思ったら、その言葉だった。栞は、その「いらっしゃい」が、自分ではない誰かに向けられていると直感した。息子が言う。「施設に入ってから、認知症が一気に進みました。医者は、環境の変化が原因だろうって。母にとって、あの店が全部だったんです」

 さらに一ヶ月後、また電話が鳴った。

「母が、亡くなりました」息子の声は、感情を削り落としたように平らだった。

「急に食べなくなって……医者は、生きる意欲を失ったんだろうと言ってました。葬儀は身内だけで済ませます」

 栞は「お悔やみ申し上げます」と型通りに答えた。その言葉が、自分の口から浮いて出ていくのを感じながら。葬儀には行かなかった。「仕事がある」と自分に言い訳をした。けれど本当は、怖かったのだ。自分が何をしたのか、告げられるのが。

 ――栞は、曲がり家の前で泣いていた。

 タミは、店を失ってから何を感じていたのか。夫との思い出、常連たちとの会話、駄菓子の匂い、ベルの音、そのすべてが奪われ、温もりのない施設で死んでいった。

 お梅と同じように。

 栞は自分が何をしたのか、今になって理解した。富のために、記憶を奪った。命を奪った。いや、直接手を下したわけではない。しかし、奪ったことに変わりはない。阿部家の当主が、お梅を土間に放置したように。栞は、老婆を施設に送った。どちらも、結果は同じた。死。

 栞は地面に膝をついた。草の感触。冷たい土の感触。「ごめんなさい」と呟いた。「タミさん、ごめんなさい」しかし、謝罪は届かない。老婆はもういない。そして、栞はここにいる。遠野に。また、同じことをしようとしている。

 栞は立ち上がり、曲がり家の中に戻った。工事は中断していた。業者たちは、栞の指示を待っていた。このまま続けるのか。それとも中止するのか。栞には答えが出せなかった。

 続けるべきだという理由はあった。契約がある。投資家がいる。地元の期待もある。このプロジェクトが成功すれば、遠野に観光客が来る。雇用が生まれる。それは、間違ったことではない。栞は、何度もそう自分に言い聞かせた。しかし、その言葉は、もう栞を納得させることができなかった。

 しかし、この家はどうなるのか。お梅の記憶は。お梅が訴え続けてきたことは。栞がこのまま工事を続ければ、この家は快適なホテルになる。観光客が泊まり、座敷童子の伝承を楽しみ、写真を撮り、帰っていく。しかし、それは本当の伝承ではない。お梅の苦しみを、商品にすることになる。「座敷童子の宿」というキャッチコピーで。栞は座敷に座り、囲炉裏を見つめた。「私は、どうすればいいんだ」声に出して言った。答えは返ってこなかった。ただ、囲炉裏の冷たさだけがあった。栞は、自分に問いかけた。私は、ここで何をしたいのか。ホテルを作ることか。金を稼ぐことか。それとも、何か別のことか。

 栞は思った。私は、またここでも逃げるのか。東京で、岡田タミから逃げた。葬儀から逃げた。そして遠野に来た。しかし、ここでも同じことが起ころうとしている。富の論理が、命の記憶を踏みにじろうとしている。そして私は、その執行者になろうとしている。いや、もうなっている。栞は拳を握りしめた。「私は、阿部家の当主と同じだ」その認識が、栞を苦しめた。しかし同時に、何かが変わり始めていた。栞の中で、何かが動き始めていた。逃げることはできない。向き合わなければならない。自分の罪と。そして、お梅の訴えと。

 その日の午後、また安藤から電話があった。三度目だった。栞は携帯電話の画面を見て、しばらく躊躇した。安藤の名前が、画面に光っている。栞は、電話に出るべきか迷った。しかし、逃げられないと思い、通話ボタンを押した。

「加賀美か」安藤の声は、以前より硬かった。苛立ちが滲んでいた。

「はい」「進捗報告が上がってこない。工事は止まってるそうじゃないか」安藤の声が、鋭くなった。「業者から連絡があった。お前が指示を出さないって」

 栞は黙った。何と答えればいいのか、わからなかった。

 安藤が続けた。「何があった。問題が起きてるのか」

「少し、考える時間が必要で」と栞は答えた。

「考える?」安藤の声に、驚きが混じった。「何を考えるんだ。計画は決まってる。あとは実行するだけだ」

「でも、この家には…」栞は言葉を探した。「歴史があるんです。背負っているものがある」

 安藤は、短く笑った。冷笑そのもの。「歴史?それを商品にするのが俺たちの仕事だろ。遠野の伝承、座敷童子、それ全部が資源だ。お前、何を今さら言ってるんだ」

 栞は目を閉じた。安藤の言葉は正しかった。少なくとも、資本主義の論理では。伝承も歴史も、観光資源として活用する。それが地域活性化だ。しかし、その論理が、お梅を殺したのではないか。岡田タミを殺したのではないか。

「明日、そっちに行く」と安藤が言った。「直接話そう。このままじゃ、プロジェクトが頓挫する」栞は電話を握りしめた。「来なくていいです。私が決めます」

「何を決めるんだ?」安藤の声に、疑念が混じった。沈黙があった。そして、安藤が言った。「まさか、降りるつもりじゃないだろうな」

 栞は答えられなかった。降りる。そうなのだろうか。栞は、プロジェクトから降りたいのだろうか。それとも、別の形にしたいのだろうか。沈黙が続いた。安藤が言った。「加賀美、お前、感情的になってるぞ。あの件を引きずってるのか。駄菓子屋の」栞の胸が締め付けられた。「それは…」

「仕事と感情を混ぜるな」安藤の声が、強くなった。「お前はプロだ。プロとして判断しろ。あの老婆は寿命だった。お前のせいじゃない」

「でも、私が…」

「お前が何だ」安藤が遮った。「お前は正当な手続きで交渉した。何も悪いことはしてない。感傷に浸るな。俺は明日行く。ちゃんと話をしよう」

 安藤は一方的に電話を切った。栞は、携帯電話を握りしめたまま、座敷に座り込んだ。どうすればいいのか、わからなかった。安藤の言葉は、正しいのだろうか。感情的になっているだけなのだろうか。

 夕方、佐々木が訪ねてきた。栞の様子を見て、佐々木は何も尋ねなかった。ただ、隣に座った。しばらくの沈黙の後、佐々木が口を開いた。

「決断の時が来ましたね」

 栞は頷いた。「でも、私には…わからないんです。どうすればいいのか」

 佐々木は窓の外を見た。遠野の夕暮れが広がっていた。早池峰山が、夕日を浴びて赤く染まっていた。「加賀美さん、この土地には掟があります。弱い者を見捨てない、という掟が」

 栞は佐々木を見た。「でも、その掟を守ったら、私は多くの人を裏切ることになる。投資家も、地元の人も、会社も」

 佐々木は静かに答えた。「裏切る、というのは違います。本当の価値を選ぶということです」

「本当の価値?」栞は囲炉裏を見た。冷たい炭が、暗がりの中で鈍く光っている。

「でも、それで誰が救われるんですか。お梅は、もう死んでる。タミさんも、死んでる」思わず漏れた言葉に、佐々木は栞の肩に手を置いた。その手は、不釣り合いなほど温かかった。

「救われるのは、これから生きる人たちです。富の論理だけで世界が動いたら、また同じことが起こる。お梅のような人が、タミさんのような人が」

 栞は息を呑んだ。

「あなたが、その連鎖を断ち切ることができる。ここで、この家で」

 佐々木の声は静かに響く。説得というより、確認のように聞こえた。

 佐々木が去ると、座敷には栞一人が残された。夜が来た。栞は囲炉裏の前に座り込み、膝を抱えた。明日、安藤が来る。工事を続けるのか、中止するのか。そのどちらかを選ばなければならない。どちらを選んでも、何かを失う。逃げても、失うものは変わらない――ただ、それだけははっきりしていた。

 眠れなかった。時計を見ると、午前二時を過ぎている。外はしんと冷え、虫の声もない。茅葺き屋根を撫でていく風の音だけが、かすかに響いていた。

 栞は、火のつかない炭を見つめた。お梅が求めたはずの火。タミが失った店の灯り。東京の夜景の中で、自分が数字に置き換えてきた無数の顔。

 ――火を、絶やさないで。もしお梅がここにいたら、そう言うだろうか。もしかすると、ただ何も言わず、冷たい土間に横たわるだけだったかもしれない。栞は目を閉じ、その姿を思い描いた。冷たさは、責めてくるのではなく、沈黙のまま寄り添ってくる。タミのことを考えた。ベルの音。飴玉を渡すしわだらけの手。店を失ってから、急激に細っていった体。葬儀に行かなかった自分。電話口で「お悔やみ申し上げます」とだけ言って切った自分。私は当主と同じだ――その言葉を、栞はあらためて呑み込んだ。富の論理で命を軽んじた。その事実から、もう目をそらせない。どれくらいそうしていたのか、わからない。

 ふと立ち上がると、体は震えていたが、心は奇妙に静かだった。土間に降り、外に出る。まだ夜明け前で、空は濃い藍色をしていた。息が白い。早池峰山の稜線が暗闇の向こうに浮かび上がっている。冷たい空気が肺に刺さるように入ってくる。その冷たさは、もう恐怖ではなかった。自分が何者なのかを、はっきりさせるための刃物の感触に近かった。

 今日、安藤が来る。栞は曲がり家を振り返った。重い茅葺き屋根が、夜明け前の空を背景に黒く沈んでいる。

 この家を、どうするのか。答えは、もう決まっていた。

 翌日の昼、安藤が遠野に着いた。栞は遠野駅まで迎えに行った。安藤は、東京から来たばかりという雰囲気を纏っていた。黒いスーツ、革靴、ビジネスバッグ。その姿は、遠野の風景の中で異質だ。まるで、別の世界から来た人間のように。

「久しぶりだな」と安藤は言った。握手を求めてきた。栞は握手に応じた。安藤の手は温かかった。しかし、その温かさは表面的なもののように感じられた。ビジネスの温かさ。

「まず、現場を見せてくれ」と安藤は言った。栞は安藤を曲がり家へ案内した。道中、安藤は遠野の風景を見回していた。「田舎だな」と安藤は言った。「でも、それがいい。都会の人間は、こういう場所に癒しを求める」

 栞は何も答えなかった。安藤は、全てをビジネスとして見ている。風景も、伝承も、人々の生活も。全てが、金に換算される。

 安藤は曲がり家を見上げた。「なかなかいいじゃないか」と言った。「この茅葺き屋根、観光客受けするぞ。インスタ映えする」栞は、その言葉に違和感を覚えた。インスタ映え。この家は、そういうものではない。安藤は家の中に入った。土間、座敷、囲炉裏を見て回った。「冷えるな」と安藤は言った。「でも、それも売りにできる。座敷童子の冷気、とかね。ちょっとしたホラー要素も観光客は好きだ」

 栞は、安藤の言葉を聞きながら、確信した。この人には、わからない。お梅のことも、この家のことも。安藤にとって、全ては商品なのだ。

 安藤が設計図を広げた。「で、工事の進捗は?」

 栞は深呼吸をした。そして、はっきりと言った。「契約を、破棄したいんです」

 安藤の手が止まった。顔を上げて、栞を見た。「何だって?」

「この家は、ホテルにするべきじゃない」栞は続けた。「ここには、伝えるべき歴史がある。座敷童子の本当の意味がある」

 安藤は設計図を閉じた。「正気か?」その声は、冷たかった。完全にビジネスモードの声。「違約金が発生するぞ。投資家への説明は誰がする?地元の期待は?お前、自分が何を言ってるかわかってるのか」

「全て、私が責任を取ります」栞は言った。「違約金も、私が払います」

 安藤は笑った。冷笑だった。「お前、払えるのか?入社以来の貯金全部使っても足りないぞ。それに、会社をクビになる。お前の経歴に傷がつく。二度と、この業界で働けなくなる」

 栞は黙った。安藤の言うことは、全て本当だった。栞は、全てを失うことになる。しかし、それでも。

 安藤が続けた。「またその話か。お前、あの駄菓子屋の件を引きずってるんだな」

 栞は顔を上げた。「引きずってます。ずっと」

「だから何だ」安藤の声が鋭くなった。「あれは仕事だった。お前は正当な手続きで交渉した。何も悪いことはしてない」

「でも、タミさんは死にました」栞の声が強くなった。

「寿命だろ」安藤は言い切った。「老人なんだから。お前のせいじゃない。感情移入しすぎるな」

 栞は首を横に振った。「違います。私が、タミさんから温もりを奪ったんです。お店を、記憶を、生きる理由を」

 安藤は溜息をついた。「加賀美、お前は仕事と感情を混同してる。俺たちは、経済を回してるんだ。古いものを壊して、新しいものを作る。それが発展だ。そのために、時には誰かが犠牲になる。それは仕方ないことだ」

 栞は安藤を見つめた。「その犠牲が、いつも弱い者だとしたら?」

「何?」

「富のために、弱い者の命が軽んじられる。それが当たり前だとしたら、私たちは何のために働いているんですか」

 安藤は眉をひそめた。「何を言ってるんだ。お前、疲れてるのか。ちゃんと寝てるのか」

 栞は座敷の中央に立った。囲炉裏を指差した。「この家には、お梅という奉公人がいました。明治時代、大地主に仕えていた。病気で倒れたとき、温かい場所を与えられず、冷たい土間で死んだ。富のために、命が軽んじられた」

 安藤は腕を組んだ。「それが?昔の話だろ。明治時代なんて、百年以上前だ」

「昔の話じゃない」栞は強く言った。「今も同じことが起きてる。東京で、私がやったことも同じだ。そして今、ここでまた同じことをしようとしている」

「お前、本気で言ってるのか」安藤の声に、苛立ちが混じった。「このプロジェクトは、地域活性化のためだ。遠野のためだ。観光客が来れば、地元も潤う。それが悪いことか」

「遠野のため?」栞は言った。「誰のための遠野ですか。観光客のため?投資家のため?私たちのため?」

 栞は囲炉裏を見下ろした。「この家には、声があります。弱い者の声が。その声を、私はもう無視できない」

 安藤は立ち上がった。「お前、プロ失格だぞ。感情で仕事をするな」

「だったら、私はプロを辞めます」栞も立ち上がった。「でも、自分は裏切らない」

 安藤は栞を睨んだ。長い沈黙があった。やがて安藤は、ビジネスバッグを掴んだ。「後悔するぞ」と言った。

「もう後悔してます」栞は答えた。「でも、これ以上後悔を重ねたくない」

 安藤は何も言わずに、曲がり家を出て行った。足音が遠ざかっていく。土間を横切る音。玄関の引き戸が開く音。そして閉まる音。やがて、車のエンジン音が聞こえた。そして、それも消えた。

 栞は座敷に一人、残された。静寂が戻ってきた。しかし、その静寂は、もう恐怖ではなかった。栞は座り込んだ。囲炉裏の前に。涙は出なかった。ただ、深い安堵感があった。栞は思った。私は、選んだ。富の論理ではなく、命の論理を。安藤の言葉は正しいかもしれない。栞は後悔するかもしれない。違約金を払い、仕事を失い、すべてを失うかもしれない。しかし、それでも。栞は、自分を裏切らなかった。タミさんを、もう一度裏切らなかった。お梅を、商品にしなかった。

 栞は囲炉裏を見つめた。冷たい炭。しかし、栞は思った。いつか、この炭に火をつける。お梅との約束を果たす。この家を、温かくする。

 窓の外では、遠野の午後の光が差していた。栞は、その光を見つめた。新しい始まり。栞の、新しい人生の始まり。


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