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第二部:抵抗する家

 工事業者が入ったのは、それから三日後のことだった。地元の工務店で、代表の男は五十代半ばの、物静かな人物だった。「この家は頑丈ですよ」と男は梁を見上げながら言った。「百五十年前の大工の腕は確かだ。ただ、妙に冷えるんですよね。特にこの座敷が」

 栞は設計図を広げた。快適な客室への改装計画。断熱材を入れ、床暖房を設置し、現代的な設備を整える。しかし元の構造は残す。それが栞の方針だった。「座敷童子が出るという噂を、逆に売りにします」と栞は説明した。「遠野の伝承を体感できる、特別な空間として」

 工事は順調に進むはずだった。だが初日から、妙なことが続いた。朝、現場に置いたはずの工具が消え、土間の隅にきちんと並べ直されて見つかる。二日目には、設計図が破れていた。風でめくれたのではない。何かの爪で引き裂いたような三本の裂け目。曲がり家には鍵がかかっており、外部から侵入した形跡はない。「誰かのいたずらだろう」と代表の男は言ったが、その声には自信がなかった。栞も、紙の繊維の乱れを見つめながら、事故ではないと直感していた。何かが、意図を持って触れている――そうとしか思えなかった。

 三日目、測定値が狂った。レーザー水準器の水平線が、何度測り直しても同じ場所で歪む。囲炉裏の前だけが、わずかに沈んでいるように見える。別の水準器を使っても結果は同じだった。「機械の故障、ってわけでもなさそうですね」作業員の一人が首を傾げる。まるで、その一点だけが物理法則に従わないかのようだった。

 四日目、若い作業員がぽつりと言った。「誰かに見られてる気がするんすよ。奥の間から、ずっと」代表の男は「気のせいだ」と笑い飛ばしたが、栞には分かった。その若者は、本当に何かを感じている。このところ、栞自身も同じ視線を、冷えた空気の奥に意識していたからだ。座敷の温度だけが、異常に低かった。断熱材も新しい窓枠も入れ、業者が持ち込んだ暖房器具まで試したのに、その部屋だけは肌が粟立つほど冷える。外気温は二十五度を超えている九月だというのに。

「これは、おかしい」代表の男は首をひねった。「断熱材も入れた。隙間風もない。なのに、この冷たさは何だ」

栞は座敷の中央に立ち、壁と天井と床を見回した。物理的には、何も間違っていない。それでも、この冷たさは構造計算では説明できないと、栞は知っていた。――拒絶だ。この家そのものが、計画を押し戻そうとしている。作業員たちのあいだに、不穏な空気が広がり始める。「この家、何かおかしい」「座敷童子の祟りじゃないのか」ひそやかな囁きが増え、やがて代表の男は栞に相談した。「加賀美さん、作業員たちが怖がっています。このままでは、工事を続けるのは難しい」

 栞は作業員たちを集めて説明した。「確かに不可解なことが起きています。でも、古い建物にはよくあることです。単なる偶然です」努めて冷静に話しながら、これは偶然ではないと、自分が一番よくわかっていた。何かが、この家で工事を拒んでいる――そうとしか思えなかった。

 その晩、栞はついに佐々木に電話をかけた。誰かに話さなければ、自分が壊れてしまう気がしたからだ。

 翌日の夕方、佐々木は曲がり家を訪れた。栞の顔を見るなり、何も聞かずに座敷へ上がり、囲炉裏のそばに腰を下ろした。栞は、そこで起きていることを一気に話した。工具の移動、設計図の破損、座敷の冷たさ、奥の間からの視線――言葉にすると、自分でも荒唐無稽だとわかる出来事のすべてを。

 佐々木は、途中で口を挟まずに聞いていた。その老いた顔には、驚きの色はほとんどなかった。話し終えると、しばし沈黙し、それから静かに口を開いた。

「やはり、そうでしたか」栞は思わず顔を上げた。「知っていたんですか」

「知っていた、というより……この家には、そういう力があるんです」佐々木は囲炉裏を見つめた。「この家には、座敷童子が出ると昔から言われています。ただ、本当の意味での座敷童子ではない。座敷童子は、本来その家に幸福をもたらす存在です。でも、この家に住んだ者たちは、次々と不幸に見舞われた。だから村の者は、この家を避けるようになった」栞は息を呑んだ。「どうして、そんなことに」

「座敷童子の正体は――」 佐々木は言葉を切り、栞の目を見て続けた。

「お梅という名の奉公人です」

 心臓が、大きく跳ねた。お梅。人間の名前。座敷童子ではなく、かつてここに生きていた一人の少女。

「明治の終わりから大正の初めにかけて、この家――阿部家は、このあたりで一番の大地主でした。山林を持ち、林業で富を積み上げていた。お梅は、貧しい農家から十代でここに奉公に出された娘です」

 佐々木の声は淡々としていたが、その奥に硬さがあった。

「お梅は真面目に、よく働いたそうです。しかし、ある冬の山仕事で病に倒れた。高熱で震えていた。本来なら温かい座敷に寝かせて、医者を呼ぶべきでした」

 そこで、佐々木の声がわずかに低くなった。「当主は、山仕事の遅れを恐れました。人手が足りない。一人欠ける余裕はない。そう判断して、お梅を土間に寝かせたまま、仕事を続けさせようとしたのです。動けなくなったあとも、お梅は冷たい土間で助けを求め続けた。火を、と。温かい場所を、と。けれど、誰も応えなかった」

栞の喉が渇いた。声が出なかった。

「富と時間のために、お梅の命は軽く見積もられた。お梅は、そのまま死にました。凍えるような土間で。十五歳で」佐々木はゆっくりと息を吐いた。「法の上でどうかはわからない。しかし、富のために命を軽んじた。その罪が、この家には残っている」

 栞は立ち上がり、思わず土間に降りた。冷たい土間。ここで、お梅は死んだのだ。十五歳の少女が、助けを求めながら。栞の脳裏に、駄菓子屋の岡田タミの姿が重なった。土地を奪われたあと、冷たい施設で死んでいった老婆。温もりのない場所で。膝が崩れ、土間に手をついた。

「私も……同じことを」

 佐々木が降りてきて、そっと声をかけた。「加賀美さん。あなたにも、心当たりがあるのですね」栞は涙に滲む視界の中で頷いた。「東京で、私は……」そして、タミのことを話した。立ち退き交渉、補償金の提示、施設への入所、急激な衰弱と死――細部をごまかさずに語った。佐々木は、最後まで黙って聞いていた。

 話し終えると、佐々木は静かに言った。「だから、あなたはここに来たんですね。逃げるように」栞は顔を歪めた。「でも、逃げても無駄でした。ここにも、同じものがあった」佐々木は栞の肩に手を置いた。「お梅は、怨んでいるのではありません。訴えているのです。忘れないでほしい、と。弱い者が、いつもどこかにいるということを。そして、富の論理が命を奪うということを」

 栞は顔を上げた。「私に、何ができるんですか」佐々木は答えず、囲炉裏を指さした。「この囲炉裏、火がついたことがないんです。お梅が死んでから、ずっと」

 栞は冷たい囲炉裏を見つめた。お梅が求め、最後まで与えられなかった温もり。

「あなたが、答えを見つけなければなりません。このまま工事を続けるのか。それとも……」言葉を途中で切り、佐々木は栞に視線を返した。答えはまだ見えなかった。ただ一つだけ、栞にははっきりしていた。この家の冷たさは、お梅の冷たさだということ。そして、その冷たさが、自分自身の罪とどこかで共鳴しているということ。


 佐々木が帰った後、栞は数日間、工事を中断した。作業員たちには「設計の見直しが必要だ」と説明したが、本当の理由は違った。栞は、この家と、お梅と、そして自分自身と向き合う時間が必要だった。

 ある日の午後、栞は一人で家の奥を探索することにした。それは衝動的な行動だった。お梅の存在を、その苦しみを、もっと具体的に知りたかった。栞は懐中電灯を持って、奥の間へ向かった。その部屋は、工事の手がまだ入っていなかった。古いままの、土壁と板の間だけの空間。栞が足を踏み入れると、埃が舞い上がった。壁を見ると、一部が剥がれているのに気づいた。土壁の表面が、まるで何かに引っ掻かれたように、不自然に剥がれていた。栞はその部分に近づいた。壁の内側に、何かがあった。栞は慎重に土壁を剥がした。指先に、乾いた土の感触。そして、硬い木の感触。すると、壁の中から小さな木箱が現れた。縦横二十センチほどの、古びた桐の箱。表面には埃が厚く積もっていた。栞はそれを取り出し、土間に持って行った。光の中で箱を見ると、蓋に何か文字が彫られていた。しかし、長年の汚れで読めなかった。栞は布で表面を拭った。すると、文字が浮かび上がった。「奉公人記録」栞は木箱の蓋を開けた。黄ばんだ紙束が、懐中電灯の光を吸い込むように重なっている。一枚目は、明治四十年の日付がある奉公人名簿だった。名前、性別、年齢、出身地が細い筆致で並んでいる。指でなぞるうち、栞はその名を見つけた。

「お梅、女、十五歳、〇〇村」指先がそこで止まる。お梅――この曲がり家で働いていた、一人の少女。墨は薄れているのに、その一行だけが、今も息をしているように見えた。名前の下に、赤い字があった。

「明治四十三年十二月十五日、病気につき解雇」東北の真冬に、病気の奉公人を外す。ほとんど「ここで死ね」と言うのと同じだ、と栞は思った。

 次の紙は『岩手日報』の切り抜きだった。明治四十三年十二月二十日。小さな訃報欄に、短く載っている。「阿部家奉公人、病死。お梅、十五歳」

 十五日に「解雇」、二十日に「病死」。五日間。解雇されたあとも、この家のどこかで息を繋いでいたのだ、と栞は直感した。冷えきった土間に、寝かされたまま。

 木箱の底には、さらに紙片があった。崩し字で綴られた日記だ。阿部家当主の手になるものだろう。栞は目を凝らし、一行ずつ追っていった。

「明治四十三年十二月十三日。山仕事ニ支障。奉公人ノ一人、病ニ倒ル。然レドモ、仕事ヲ止ムル訳ニハ行カズ。土間ニ寝カセ、様子ヲ見ル」

 土間に寝かせる――囲炉裏のそばではなく。ページをめくる。紙が乾いた音を立てた。「十二月十五日。奉公人、動ケズ。解雇ス。医者ヲ呼ブハ経費ノ無駄ナリ。山仕事、予定通リ進メル」

 経費の無駄。その四文字が、胸の中に氷の塊みたいに沈む。栞は、なおも読み進めた。「十二月十七日。奉公人、未ダ土間ニ。村人ヨリ問イ合ワセアリ。病気ノ為、一時帰郷セシト返答ス」

「十二月二十日。奉公人、死ス。村人ニ知ラセ、葬儀ヲ簡素ニ執リ行ウ。山仕事、明日ヨリ再開。損失、軽微ナリ」損失、軽微ナリ。

 栞は日記を握りしめた。古い紙が皺になり、かすかな裂ける音がした。お梅の命は、経費や損失の項目として処理され、「軽微」と評価されたのだ。

 経費の無駄。損失、軽微ナリ。数字の言葉が、栞の頭の中で反芻される。東京での自分の仕事が、急にそこへ重なった。岡田タミに提示した補償金の額。「老後は安心です」と並べた数字。再開発の進行表。タミの死。

 ――わたしも、同じことをした。

 人を、金で測り、命を数字にした。その事実だけが、はっきりしていた。栞はその場に座り込んだ。木箱と記録を抱きしめる。涙が落ちて、紙に丸い染みを作る。

「私は、阿部家の当主と同じだ」声に出すと、部屋の暗さがいっそう濃くなったような気がした。「富のために、記憶を奪った。命を奪った」

 懐中電灯だけが床を照らしている。そこに、自分の影が長く伸びていた。歪んだ影は、百年前の当主の影と重なって見えた。時代は違っても、富の論理で弱者を踏みにじる点では、何も変わっていない。

 どれほど座っていたのか、時間の感覚は曖昧だった。ただ、冷たさだけがはっきりしていた。土間の冷え、壁の冷え、自分の内側の冷え。十五歳のお梅も、この冷えの中で、誰にも抱きしめられないまま死んでいったのだ――栞はそう思った。

 そのとき、部屋の隅の空気が、そっと揺れた。

 栞は顔を上げ、反射的に懐中電灯を向ける。光の輪の中に、小柄な少女が立っていた。擦り切れた着物に、後ろで束ねた髪。十五歳にしては細すぎる体つきだが、そこにあるのは、生々しい恐怖ではなく、長いあいだ冷え続けてきた影のような存在感だった。

 青白い顔に、こけた頬。唇は寒さで色を失っている。それでも、その目だけははっきりと栞を見ていた。怨みでも怒りでもない。何かを待ち続けてきた者の目。諦めと、それでも手放せなかった願いが、静かに同居している。

 口元が、かすかに動いた。笑顔と呼ぶには弱く、泣き出す前のようにも見える、そのわずかな揺れが、栞の胸に刺さった。

 声が出なかったが、やっとのことで絞り出す。

「あなたが……お梅さん?」

 お梅は頷きもしなかった。ただ、その目をそらさずに、ゆっくりと腕を上げる。指先が示したのは、座敷の方角だった。囲炉裏のある座敷。火があるべき場所。

 栞がそちらに目を向け、もう一度お梅を見ようとしたとき、少女の輪郭はすでに薄れ始めていた。光と影の境目がほどけ、背後の土壁が透けて見える。

 お梅は、消えるというより、そこから静かに引いていった。長く張りつめていた糸を、ようやく手放すみたいに。

 気配が完全に途切れたあとも、あの場所だけは、少しだけ冷たさを残していた。その冷たさは、恐怖というより、長い時間をここでひとり耐えてきた者の記憶のように思えた。

 栞は壁に手をつき、座敷へ向かった。膝が震え、足に力が入らない。囲炉裏の前に立つと、あの冷たい炭が、以前と同じように積まれている。

 お梅が求めていたのは、火だ。温もりだ。それなのに、この炭は燃やされることがなかった。富や時間の都合の前に、お梅の命は軽く扱われ、炭だけが冷たいまま残された。

 栞は炭に手を伸ばした。触れる前から、冷えが皮膚に刺さる。それでも指を閉じ、炭を握りしめた。氷のような冷たさが、手のひらから腕へと広がっていく。すべての温もりを吸い上げるような冷たさだったが、栞は手を離さなかった。冷たさが、腕を伝って体全体に広がっていく。栞は思った。この冷たさを、私は忘れてはいけない。お梅の冷たさを。そして、岡田タミの冷たさを。富の論理が生み出した、この冷たさを。栞は炭を握ったまま、座り込んだ。涙が、また溢れた。「ごめんなさい」と栞は呟いた。「お梅さん、タミさん、ごめんなさい」返事はなかった。ただ、冷たさだけがあった。しかし、その冷たさの中に、何か別のものが混じっていた。それは、訴えだった。忘れないでほしい、という訴え。弱い者が、いつもいる。そして、富の論理は、その弱い者を踏みにじる。それを、忘れないでほしい。お梅の冷たさは、そう訴えていた。

 栞は、その訴えを受け止めた。そして、栞の中で、何かが変わり始めた。逃げることはできない。ここでも、東京でも。栞は、自分の罪と向き合わなければならない。そして、決断しなければならない。このまま工事を続けるのか。それとも、別の道を選ぶのか。

 栞は立ち上がった。木箱を抱えて、土間に戻った。そして、その記録を一つ一つ、丁寧に箱に戻した。名簿、新聞、日記。お梅の生と死を証明する、三つの記録。これは、お梅の証だ。お梅が生きた証。そして、阿部家の罪の証。これを、どうすべきか。栞には、まだ答えが出なかった。しかし、一つだけわかったことがあった。これを隠してはいけない、ということ。

 その夜、栞は座敷で一人、囲炉裏の前に座っていた。木箱を横に置いた。懐中電灯の光が、囲炉裏を照らしていた。炭の影が、壁に映っていた。栞は、お梅に語りかけた。「お梅さん、私には、まだわからない。どうすればいいのか。でも、あなたのことを、忘れない。それだけは、約束します」

 風が、茅葺き屋根を撫でる音がした。その音は、まるで誰かの溜息のようだった。栞は目を閉じた。そして、長い夜が始まった。外では、虫の声が続いていた。しかし、座敷の中は静かだった。お梅がいた、この静けさ。お梅が死んだ、この冷たさ。栞は、それを全身で感じながら、夜を過ごした。


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