第一部:到着と違和感
新幹線が盛岡に着いたとき、栞はまだ東京の匂いを纏っていた。いや、匂いというより、皮膚に染み込んだ何かだった。車窓の向こうに、早池峰山の稜線が夕暮れの空に黒く浮かぶ。栞はその輪郭を目で追いながら、自分は逃げに来たのではないと、形ばかりの自己説得を繰り返していた。
古民家再生プロジェクト。遠野の伝承を活かした観光開発。地域活性化。――そんな言葉で取り繕ってはいるが、本当は東京にいられなくなっただけだ。駄菓子屋の老婆、岡田タミの死が、栞を追い詰めた。上司の安藤俊介は「感傷だ」「全部真に受けてたら、こっちの身がもたない。仕事と感情は、ある程度は分けろ」と言った。その口ぶりは、栞を責めるというより、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。それでも、もう無理だった。だから栞は、自らこの遠野行きを志願した。地方の小さなプロジェクト。誰も欲しがらない仕事。だが栞にとっては、唯一の逃げ場だった。
遠野駅に降り立つと、駅前の寂れた様子が目に入った。観光客はまばらで、商店街のシャッターの多くが閉まっている。タクシー乗り場で一台を拾い、「河童淵の近くの曲がり家まで」と告げると、運転手は短く「はい」とだけ答え、車を出した。
市街地を抜けると、風景はすぐに田園に変わった。稲刈りの終わった田んぼが広がり、遠くに山々が連なる。九月の終わり。空気には、かすかな冷たさが混じり始めている。道が細くなり、家が途切れ、雑木林と湿った空気が濃くなっていった。ここが本当に二十一世紀の日本なのか――栞は、窓の外を眺めながら思った。時間が、別の速度で流れているような気がした。
やがてタクシーが減速し、運転手が言った。
「長いこと、誰も住んでいない家です」
それ以上、説明はなかった。
車が停まり、「着きましたよ」と告げられる。
それは、そこにあった。
L字型に折れ曲がった巨大な茅葺き屋根。母屋と馬屋が一体化した曲がり家。人間と家畜が同じ屋根の下で冬を越してきたという、その構造自体が北国の冬と、そこで生きてきた者たちの知恵を物語っていた。同時に、その重さは圧迫感でもあった。築百五十年という時間の重みが、ひとつの塊になって栞を見下ろしているように感じられる。茅葺き屋根はところどころ黒ずみ、苔むしている。土壁は風雨に晒されて表面が剥がれた箇所もある。それでも家は、崩れず、ただそこに立ち続けていた。何かを、長いあいだ待っていたかのように。
栞はタクシーを降り、料金を払った。運転手は釣り銭を渡しながら、短く「お気をつけて」とだけ言って車を走らせた。エンジン音が遠ざかり、やがて消える。
栞は、曲がり家の前に一人で立った。周囲は、静かだった。風が木々を揺らす音。遠くで鳥が鳴く声。河童淵の方から、かすかな水音。それ以外、何も聞こえなかった。
玄関先に、一人の老人が待っていた佐々木啓介と名乗ったその男は、七十を過ぎているだろう年齢にもかかわらず、背筋が伸びていて、目に力があった。
「よく来られました」と佐々木は言い、栞と握手を交わした。その手は硬く、節くれ立っていた。土地に根を張った樹木のような手だと、栞は思った。佐々木は元・遠野市立博物館の民俗学者で、今は嘱託として地域の伝承調査を続けているという。このプロジェクトの地元協力者として、栞の会社が依頼した人物だった。
「この家は、阿部家のものでした」と、佐々木は曲がり家を見上げながら言った。「明治から大正にかけて、この辺りの山林を一手に支配していた大地主です。林業で財を成した。いや、正確に言えば、林業で財を成すことができる立場にあった、というべきでしょうか」その言い方には、何か含みがあった。
栞は「どういう意味ですか」と尋ねた。佐々木は少し間を置いてから答えた。「力のある者が、さらに力を得る。そういう時代でした。そして、力のない者は…」佐々木は言葉を切った。「まあ、それは追々お話ししましょう。まずは中を見ていただきましょう」
玄関の引き戸は重く、開けるのに力が要った。木材が湿気を吸って膨らんでいるのだろう。佐々木が先に入り、栞がその後に続いた。土間に入ると、ひんやりとした空気が栞の頬を撫でた。真夏の名残がまだ残る九月の午後だというのに、屋内は薄暗く、冷たかった。広い土間の奥に、一段高くなった板の間があり、そこに囲炉裏を切った座敷が続いている。天井は高く、太い梁が何本も渡されていて、煤で黒光りしていた。
「百五十年前の大工の技術は見事ですよ」と佐々木は梁を見上げながら言った。「釘を一本も使わず、木組みだけで建てられている。だから、これだけ長持ちするんです」栞も梁を見上げた。確かに、釘の頭は見当たらなかった。木材が複雑に組み合わされ、互いに支え合っている。その構造は、まるで生き物の骨格のようだった。
佐々木が囲炉裏の前で立ち止まった。「ここが、この家の心臓部です」栞は囲炉裏を覗き込んだ。灰が厚く積もっていた。その灰の中に、いくつかの木炭が埋もれていた。佐々木が言った。「この囲炉裏、妙に冷たいんですよ。夏だからというわけじゃない。冬でも同じです」栞は囲炉裏の縁に手を触れた。石のように冷たかった。いや、石以上に冷たい気がした。まるで、何か生命を拒絶するような冷たさだった。栞は思わず手を引っ込めた。
「座敷童子が出る、という噂があるんです」と佐々木は言った。栞は顔を上げた。「座敷童子?」「ええ。だから、長い間誰も住まなかった。地元の人たちは、この家を避けていました」栞は座敷を見回した。薄暗い空間。障子は破れ、畳は色褪せていた。しかし、物理的な荒廃以上に、何か別の重さがこの空間にはあった。栞は言葉にできない違和感を覚えた。
「座敷童子は、幸福をもたらす存在だと聞いてますが」と栞は言った。佐々木は静かに首を横に振った。「普通はそうです。しかし、この家の座敷童子は違う。少なくとも、そう言い伝えられています」「どう違うんですか」栞が尋ねると、佐々木は答えなかった。ただ、囲炉裏を見つめていた。長い沈黙の後、佐々木は言った。「それは、あなたが自分で確かめることになるでしょう」栞は、その言葉の意味がわからなかった。しかし、問い詰める気にもなれなかった。この家の空気が、栞の思考を鈍らせているような気がした。佐々木が立ち上がった。
「今日はこのくらいにしましょう。明日、地元の説明会があります。そこで、あなたの計画を説明してください」栞は頷いた。佐々木が玄関へ向かおうとしたとき、栞は尋ねた。「佐々木さん、この家に、本当に何かいるんですか」佐々木は振り返った。その顔は、薄暗い土間の中で、影に覆われていた。「いる、と言えばいます。いない、と言えばいません。ただ、この家には、忘れられない何かがある。それだけは確かです」そう言い残して、佐々木は去った。
栞は一人、土間に残された。外の光が、開いた玄関から斜めに差し込んでいた。埃が、その光の中を漂っていた。栞は深呼吸をした。冷たい空気が肺に入った。そして、栞は気づいた。自分が、東京での出来事から逃げるようにここに来たこと。しかし、ここにも何か別のものがあること。それが何なのか、まだわからない。しかし、確実に、何かがある。
栞は座敷に上がり、床に座った。囲炉裏を見つめた。冷たい灰。冷たい炭。この家は、温もりを失っている。栞は立ち上がり、外に出た。夕日が、早池峰山の稜線に沈もうとしていた。赤い光が、曲がり家の茅葺き屋根を照らしていた。栞は、その光景を見つめながら思った。ここで、私は何をすべきなのか。ホテルを作ること?観光客を呼ぶこと?それとも、何か別のこと?
答えは、まだ出なかった。ただ、曲がり家の冷たさだけが、栞の心に残っていた。
翌日の地元説明会は、市の公民館で開かれた。集まったのは二十人ほどの住民で、その多くが高齢者だった。栞はプロジェクターを使い、改装計画を説明した。古民家の良さを残しながら、現代的な快適さを加える。遠野の伝承を体感できる宿泊施設として、観光客を呼び込む。地域活性化。雇用創出。そうした言葉を並べながら、栞は自分の声がどこか空疎に響いているのを感じていた。東京で何度も繰り返してきた、あの種のプレゼンテーションと、本質的に何が違うのだろう。住民たちは概ね好意的だった。「座敷童子で有名にすればいい」「観光客が来れば、商店街も潤う」そうした声が上がった。栞は頷きながら、しかし心のどこかで違和感を覚えていた。
説明会が終わり、住民が帰った後、佐々木は栞に近づいてきて言った。
「座敷童子が出る、という噂で、あの家は長年誰も住まなかったんです」「迷信ですよね」と栞は答えた。佐々木は首を横に振った。「迷信かどうかは、あなたが判断することです。ただ、この土地には、この土地の掟がある。それだけは覚えておいてください」栞は佐々木の目を見た。その目は、何かを警告しているようだった。「掟?」「弱い者を見捨てない、という掟です」佐々木はそう言い残して、去って行った。
その夜、栞が曲がり家の掃除をしていると、携帯電話が鳴った。安藤俊介。東京の元上司。栞の直属の上司であり、このプロジェクトの企画者でもあった。栞は少し躊躇してから、通話ボタンを押した。
「順調か?」安藤の声は相変わらず明瞭で、無駄がなかった。東京のオフィスの音が背後に聞こえる。キーボードを叩く音、電話の呼び出し音、人々の話し声。栞にとっては、もう遠い世界の音だった。「ええ、まあ」と栞は答えた。
「投資家も注目してる。遠野ブランドで一発当てようって話だ。座敷童子の宿、いいキャッチコピーだろ?」安藤の声には、いつもの自信が満ちていた。ビジネスの成功を確信している声。栞は、かつて自分もそういう声で話していたことを思い出した。栞は黙った。安藤が続けた。「お前が抜けてから、こっちは大変だったんだぞ。でも、お前がどうしてもって言うから、このプロジェクトを作った。成功させろよ」
「わかってます」栞は短く答えた。「あの件は忘れろ」と安藤が言った。栞の体が固まった。「駄菓子屋のことだろ?お前のせいじゃない。寿命だ」
「安藤さん…」「感情的になるな。仕事は仕事だ。遠野でちゃんとやって、東京に戻ってこい」栞は何も答えられなかった。安藤は「じゃあな」と言って、一方的に電話を切った。
部屋の中に、静寂が戻った。耳鳴りのような静けさだった。栞は窓の外を見た。暗闇の向こうに、河童淵の方角があった。水の匂いが、かすかに漂ってくる気がした。「また、金の話だ」と栞は呟いた。駄菓子屋の老婆、岡田タミの顔が、また浮かんだ。あの諦めた表情。「しょうがないねぇ」という声。栞は目を閉じた。しかし、記憶は消えなかった。
栞が曲がり家に一人で泊まることにしたのは、単なる実用的な理由からだった。毎日通うよりも、現場に寝泊まりする方が効率的だ。そう自分に言い聞かせた。だが本当は、何かから逃げるように、この場所に閉じこもりたかったのかもしれない。窓の外では虫の声が途切れることなく続いていた。その単調な音が、かえって不安を掻き立てた。栞は寝袋に潜り込んだが、眠れなかった。囲炉裏の冷たさが、まるで部屋全体に広がっているような気がした。真夏の名残が残る九月の夜だというのに、栞は薄い掛け布団を引き寄せた。時計を見ると、午前二時を回っていた。栞は目を閉じようとした。しかし、そのとき、音がした。
奥の座敷から、何かが床を擦るような音だった。栞は身を起こした。心臓が早鐘を打った。「誰か」と声を出そうとしたが、喉が渇いて声にならなかった。音は止んだ。しかし、静寂はかえって不気味だった。栞はライトを掴んで立ち上がり、音のした方向へ歩いた。奥の座敷。そこは囲炉裏のある、家の最も古い部分だった。
ライトの光が座敷を照らした。栞は息を呑んだ。囲炉裏の中に、木炭が積み上げられていた。きれいに、几帳面に、まるで誰かが今しがた並べたばかりのように。しかし火はついていなかった。炭は濡れたように黒く、冷たかった。栞は膝をついて炭に手を伸ばした。氷のように冷たかった。いや、氷以上だった。まるで、何か生命を吸い取るような冷たさだった。栞の指先が痺れた。栞は立ち上がり、座敷全体を見回した。ライトの光が壁を這う。土壁には古い染みがいくつもあった。それは雨漏りの跡なのか、それとも何か別のものなのか。天井の梁から、何かが吊るされていた気がして、栞は思わずライトをそちらに向けたが、何もなかった。ただ、煤で黒ずんだ木材があるだけだった。だが、その木材の黒ずみ方が、まるで人の形に見えた。栞は首を振った。疲れているんだ。神経が過敏になっている。そう自分に言い聞かせた。しかし、座敷の冷気は消えなかった。それどころか、息が白くなっているのに気づいた。九月の夜に、息が白い。栞は自分の呼吸を見つめた。白い息が、ゆっくりと空中に広がり、消えた。栞の背筋を、冷たいものが走った。奥の間へ続く襖が、わずかに開いていた。栞はその隙間を見つめた。暗闇が、そこにあった。ただの暗闇ではない。何か意志を持った暗闇のような気がした。栞はライトを襖に向けた。襖が、ゆっくりと、音もなく開いた。いや、開いたのではない。最初から開いていたのを、今気づいただけなのかもしれない。
奥の間には、板の間があった。その板の間に、水滴の跡があった。いくつもの、小さな水滴の跡。それは足跡のようにも見えた。子どもの、裸足の足跡。栞は奥の間に踏み込んだ。床が冷たかった。スリッパ越しにも伝わってくる冷たさだった。そして、そのとき、栞は見た。部屋の隅に、人影があった。小柄な人影。背を丸めて、座っている。栞は声を出そうとした。しかし声は出なかった。人影は動かなかった。ただそこに、いた。栞がライトを向けると、人影は消えた。いや、消えたのではない。最初からいなかったのかもしれない。しかし、栞の心臓は激しく鳴り続けていた。栞は奥の間から飛び出し、座敷に戻った。そして座り込んだ。手が震えていた。何を見たのか。本当に何かいたのか。それとも、疲労と不安が見せた幻覚か。栞は自分に問いかけたが、答えは出なかった。ただ、一つだけ確かなことがあった。この家には、何かがある。何か、言葉にできないものが。
栞は一睡もできずに夜を明かした。
朝、佐々木が訪ねてきたとき、栞は囲炉裏の前に座り込んでいた。佐々木は栞の顔を見て、何も尋ねなかった。ただ、隣に座った。栞は、昨夜の出来事を話した。炭のこと。冷気のこと。人影のこと。佐々木は黙って聞いていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「やはり、そうでしたか」栞は佐々木を見た。「あなたは、知っていたんですか」
「知っていた、というより…予想していました」佐々木は囲炉裏を見つめた。「この家の座敷童子は、普通の伝承とは違うんです。幸福をもたらすんじゃない。何かを訴えている。ずっと、訴え続けている」
「何を」と栞は聞いた。佐々木は長い沈黙の後、答えた。「それは、あなたが見つけなければならないことです。でも、一つだけ言えるのは、この家には、温もりがないということです。ずっと、ないんです」
栞は囲炉裏を見た。冷たい炭。冷たい灰。温もりのない家。栞の脳裏に、また岡田タミの姿が浮かんだ。施設で、「寒い、寒い」と震えていたという。温もりを失った老婆。そして、この家も、温もりを失っている。栞は思った。ここには、何か共通するものがある。何か、私が見なければならないものが。しかし、それが何なのか、まだわからなかった。




