普通の猫
《サイド:常盤沙織》
グランバニアを出発してから何時間が過ぎたでしょうか?
日が暮れ始めた頃になってからようやく理事長は馬車の速度を落とし始めました。
「…う~ん。そろそろ休憩が必要かしら?」
馬車を止めた理事長が様子を見る3頭の馬は激しく呼吸を繰り返しています。
見た目での判断で言うと、
確かに限界のように思えますね。
さすがに獣医としての知識はありませんので正確なことは言えませんけれど。
このまま無理を押し通せば転倒や怪我に繋がりかねません。
そうなってしまえば馬の生涯はそこで終わりです。
二度と走ることはできないからです。
「さすがに3時間の『全力疾走』は無茶だったかしら?」
ただただ走るのではなくて、
馬車を引いての全力疾走ですから。
体力的な限界は明らかでした。
「しばらく休ませたほうがよさそうね。」
移動を中断した理事長は、
ジェノス方面へと視線を向けています。
ですが、ジェノスまだ見えません。
距離的にはそれ程遠くはないと思いますが、
それでもまだジェノスの町は見えそうにありません。
周辺の景色を考えると。
ここからどれだけ急いでも、
まだ1時間以上かかる距離ですので、
見えないのは当然ですね。
…だとしたら。
ここは無理をして馬を潰すよりも、
休憩を挟んで休ませた方が結果的に早く帰れるかもしれません。
おそらく理事長も私と同じように判断したのではないでしょうか?
馬車の中にいる私達に声をかけてくれました。
「ちょっと休憩するわよ~!」
理事長の宣言の直後に、
半ベソの翔子が馬車を降りていきました。
「…舌が痛ぃ…。」
出発の時に噛んでしまった舌がまだ痛いようですね。
通常時であれば魔術による治療は簡単なのですが、
激しく揺れる馬車の内部では私も翔子も何も出来ませんでした。
そのせいで翔子は今もまだ痛みをこらえている様子ですが、
そんな翔子のあとに続いて優奈ちゃんも地面に降りています。
「ぁぅぅ…。気持ち悪いですぅ…。」
…うぅ〜ん。
あまりにも揺れがひどかったせいで体調を崩してしまったようですね。
2時間ほど前からできる限りの看病はしていたのですが、
翔子と同様に魔術を展開できる余裕がなかったので優奈ちゃんの治療も先延ばしになっていました。
「大丈夫?」
「は…はぃ…。なんとか…。」
顔を青く染めながら地面に座り込む優奈ちゃんは、
必死に吐き気をこらえているように見えます。
ここにいるのが私と翔子だけならともかく、
龍馬や北条君がいる前で吐いてしまうのはさすがに女の子として避けたいようですね。
その気持ちは私もわかります。
龍馬がいる目の前ではちょっと…いえ、絶対に無理です。
そんな姿は見せられません。
そう思えるからこそ、
優奈ちゃんの気持ちはわかります。
「ゆっくり深呼吸をしてね。」
できる限り優しく背中をさすっていると、
馬車の中で眠っていた北条君が動き出しました。
「ふあー!良く寝たー!」
全力で背伸びをしながら馬車を下りる北条君は全く影響がないようですね。
馬車の揺れなんて一切気にする事なく、
完全に熟睡していたようです。
そんな北条君のあとに龍馬も馬車を降りてきたのですが、
最後に馬車を下りた龍馬も表情が青ざめているように見えました。
「これは、さすがに…正直、僕もちょっと…気持ち悪いかも…。」
龍馬も吐き気を感じている様子ですね。
そういう私も優奈ちゃんほどではないですが体力的な限界は感じています。
状況的には北条君、龍馬、私、翔子、優奈ちゃんの順番に病状が悪化してると判断しても良いのではないでしょうか?
理事長はどうかわかりませんけれど。
私達は色々と小さな被害を出しながらもジェノス近辺まで帰ってきていると思います。
…あと少しです。
焦る気持ちを押さえていると理事長が私達に話し掛けてきました。
「かなり急いだからもうすぐジェノスに帰れるはずよ。予定よりも2時間以上の短縮は出来そうね」
時間的には満足できる状況のようですね。
ですが、その反面として病人が続出しています。
「あと1時間くらいの辛抱よ!みんな頑張って!!」
理事長の言葉によって、
北条君以外のみんなが激しくため息を吐いていました。
「まだあと1時間もあるの…?」
愕然とする翔子の絶望は全員の意見を代表した発言だったと思います。
ただ一人、北条君を除いては…ですけど。
「ったく、この程度のことで情けねぇな。」
「あんたはよくもまあ、のんびりと寝てられるわね。感覚が狂ってるんじゃないの?」
「鍛え方が違うって言え。はあ、マジでお前等は情けねぇな。」
座り込む翔子に愚痴る北条君ですが、
そんな二人を横目に見ていた理事長は馬車の荷物に手を伸ばしています。
「とりあえず今日はお昼が早かったから、お腹がすいたんじゃない?大した物はないけど、何か食べる?」
「おっ!」
理事長の発言に真っ先に北条君が反応したその瞬間。
「みゃ~♪」
ぴょこん…と、馬車から子猫が飛び降りてきました。
「みゃ~♪みゃ~♪」
全員の視線を集めながらトコトコと歩みを進める子猫は優奈ちゃんの精霊です。
座り込んでいる優奈ちゃんに寄り添った子猫は優奈ちゃんの手をペロペロと舐め始めました。
「ぅぅ…。ごめんねミルク。一人で寂しかった?」
「みゃ~♪」
優奈ちゃんが子猫を抱き抱えると、
ただそれだけのことで嬉しそうに鳴いています。
ですがこれは…どうなのでしょうか?
どう考えても普通の猫にしか見えない行動を見せているからです。
まるで本当に生きているかのような錯覚を感じてしまうほどでした。
とても魔力で作り上げた精霊には思えません。
「…不思議ね。」
優奈ちゃんの背中をさすりながら、
子猫を見つめてみます。
本物同様にじゃれる精霊。
優奈ちゃんの腕に抱かれながら鳴くという『本来なら有り得ない行動』に、
私も興味を引かれていました。
「精霊の理論について詳しいことは知らないけれど。それでもその子が特別なのは分かるわ。」
「あぅぅ…。やっぱり…そうなんですか…?」
「ええ、ヴァルセム精霊学園の精霊を見た限りでは今までなかったことだから、だからその子を見た向こうの生徒も驚いたんじゃないかしら?」
「何か方法が間違っていたのでしょうか?」
「さあ?どうかしら?私も詳しいことは知らないから分からないわ。」
精霊の理論に関しては素人だからです。
ジェノスでは浸透していない技術ですので、
基本的には何も知りません。
魔術大会で知っている以上のことは知らないのです。
だから荷物をあさり続けている理事長に訊ねてみることにしました。




