治癒魔法
《サイド:常盤沙織》
…ん。
…あれ?
…ここ、は?
私は今、何処にいるのでしょうか?
目を覚ましてみると、
微かな明かりが灯る薄暗い部屋にいました。
…この匂いは…。
少し硬めのベッドと消毒液の匂い。
どうやらここは医務室のようです。
おそらくですが、
試合中に意識を失ってしまったあとに、
医務室に運ばれたのだと思います。
とても静かな室内。
聞こえてくるのは周りのベッドで眠る生徒達の寝息くらいでしょうか。
普段から静かな医務室ですが、
いつも以上に静かに感じてしまいます。
…今は何時なのでしょうか?
窓の外から日差しが入ってこないことを考えれば夜なのは間違いないと思います。
静寂が辺りを支配していて、
とても静かな雰囲気です。
時折、当直の医師の会話や物音が聞こえることもありましたが、
周囲のベッドにいる生徒達の寝息以外は特に何も聞こえません。
…今、動き出したら迷惑かしら?
眠っている皆さんを起こしてしまうのは申し訳ないので少し迷ってしまいましたが、
このままここにいても状況は把握できません。
ですので、ひとまず時計を探そうと考えて起き上がろうとしてみたのですが。
その瞬間に。
すぐ傍に一人の男子生徒がいてくれたことに気が付きました。
…ぁ。
「…ありがとう。来てくれていたのね。」
小さな安らぎを感じました。
彼が傍にいてくれる。
ただそれだけのことがとても嬉しく思えたのです。
「…ありがとう。」
「ははっ。お礼なんて必要ないよ。」
もう一度感謝の言葉を伝えると、
遠慮がちに笑顔を返してくれました。
「おはよう、沙織。無事に目覚めてくれて安心したよ。もう動いてもいいのかい?」
…ええ~っと。
どうなのでしょうか?
すぐには即答できませんでした。
…怪我は、ないわよね?
改めて自分の体を見回してみましたが、
どこにも怪我はなさそうです。
体感的にも身体的にもどこかが痛むということはありません。
いつも通りです。
試合後とは思えないほど普段通りに思えました。
「…たぶん、大丈夫みたい。」
「そうか、それは良かった。」
私の言葉を聞いて安心してくれたようです。
彼はホッとした表情で深く息を吐いていました。
「無事が確認できて安心したよ。」
「…ごめんなさい。」
「いや、謝る必要なんてないよ。」
謝ることしか出来ない私に、
彼は笑顔を向けてくれました。
…やっぱりこうなってしまったのね。
出来ることならこういう状況を避けたかったのですが、
やっぱり心配させてしまっていたようです。
問題の渦中にいる天城君と戦ったのですから当然かもしれませんが、
翔子や北条君だけではなくて、
彼も私を心配してくれている様子でした。
その気持ちが静かに伝わってくるのです。
…はあ。
とても申し訳ない気持ちになってしまいます。
こんなふうに迷惑をかけないように
精一杯の努力をしようと考えていたのですが、
思うように上手くはいきませんね。
…彼にも申し訳ないけれど。
何より試合の結果は惨敗です。
意識を失ってしまうほどの重傷を負ってしまったことで、
結局、天城君の調査も失敗に終わってしまいました。
あとを託すべき北条君と彼に伝えられるような情報はほとんど何もありません。
これは完全に私の落ち度です。
そう思うからこそ、
深く頭を下げることにしました。
「心配をかけてごめんなさい。」
私は何の役にも立てませんでした。
そのことを悔やんで謝罪したのですが。
「いや、沙織が謝る必要はないよ。これまでの報告を考えれば負けてしまうのは仕方がなかったと思う。だから試合の結果は気にしなくていいんだ。」
彼は私を責めませんでした。
それどころか励ましてくれたのです。
「でも…」
「良いんだよ。沙織が無事でいてくれて良かった。僕としてはそれ以上に望むことなんて何もないからね。」
「…ごめん、なさい」
彼の優しい言葉が聞けただけで胸が温かくなる想いを感じてしまいます。
彼が私の失敗を許してくれたからです。
だから、と言うわけではありませんが、
ずっと見守っていてくれたことも確信できました。
倒れた私を心配して、
目覚めるまで傍にいてくれたのだと思います。
…そう言えば。
試合が終わってからどの程度の時間が経っているのでしょうか?
「ねえ、今は何時なの?」
「もうすぐ9時だよ。」
「そう、もうそんな時間なのね」
天城君との試合は6時からでした。
実際に試合が始まって終わった時間は不明ですが、
遅くても7時にはなっていなかったと思います。
その間ずっと眠り続けていたとすれば、
彼は2時間以上も傍にいてくれたということです。
2時間も、不安にさせていたのです。
その事実に気づいたことで。
「ありがとう」
改めて感謝の気持ちを伝えました。
「ははっ。お礼なんていいよ。僕は何もしてないからね。」
「だけど、傍にいてくれたんでしょう?」
「僕に出来るのはそれだけだからだよ。」
…そんなことはないわ。
彼はそれだけだと言って謙遜していますが、
私の隣にいる彼こそが学園の頂点に立つ人物なのです。
これまでの会話の流れからすると私の体を治療してくれたのは彼ではない別の誰かのようですが、
それでも私を心配してくれているのは間違いありません。
それだけでも十分すぎるほど感謝する意味はあると思います。
「傍にいてくれただけで嬉しいの。だから、ありがとう、龍馬。」
御堂龍馬。
彼こそが生徒番号1番であり、
学園の頂点に立つ最高位の生徒です。
…北条君と私と翔子。
私達3人の上に立ち、
理事長からの特殊な依頼を遂行する内部調査監の役目を持つ特殊委員会の実質的な責任者でもあります。
主な任務としては生徒の素行調査や暴動の鎮圧等。
表向きは学園の風紀委員として仕事をしている4人の幹部の最後の一人。
それが『御堂龍馬』です。
そして彼こそが天城君の目指す頂点に立ちはだかる最後の生徒でもあります。
「心配させてごめんなさい。」
「いや、良いんだよ。何度も言うけど沙織が無事だったらそれだけで良いんだ。」
…ありがとう。
ただただ私の無事を喜んでくれていました。
その気持ちは心から嬉しく思えるのですが、
私のことよりも彼はここにいてもいいのでしょうか?
…確か、研究所にお手伝いに行っていたはずよね?
「ごめんなさい、龍馬。心配してくれたのは嬉しいけれど、研究所のほうはもういいの?色々と実験に協力していたんでしょ?」
私のせいで本来の役目に支障をきたしているかもしれないと考えてしまったのですが、
龍馬は『心配ないよ』と笑顔で答えてくれました。
「実験ならある程度の段取りは終えたから、しばらく大丈夫だよ。」
「そうなの?それならいいんだけど…」
私が迷惑をかけているのかもしれないと思ってしまって不安になる気持ちは消えませんでした。
「これからまた研究所に行くの?」
「いや、今日はもう遅いから行かないよ。」
中断した実験を再開するために、
もう一度研究所に向かうのか聞いてみたのですが、
どうやらその予定はないようでした。
「というよりも、黒柳所長の判断で実験は中断になったからね。しばらく研究所に行く予定はないんだ。」
…え?
「中断って、何か問題でもあったの?」
「問題というか、欠陥かな?詳しいことは僕も聞いてないけど、実験そのものが上手くいってないようだね。色々と考え直すために時間をおいてから実験を再開するらしいよ」
「へ~。そうなのね」
実際にどういう状況なのか私にはわかりません。
大まかな内容は龍馬から聞いていますが、
詳細までは知らないからです。
龍馬と違って私は実験に参加しているわけではありませんので、
部外秘の情報を教えてもらうことが出来ないという理由ももちろんあるのですが、
そもそも龍馬が嘘をつく理由がありません。
龍馬が実験が中断したというのなら、
その言葉は真実のはずです。
そう信じられるくらいには龍馬のことを信頼しているつもりです。
「それなら、しばらくはお休みなのね。」
「休みか…それはどうだろうね?確かに任務はないけれど、『彼の件』は解決してないからね。きっと休んでいられるような暇はないと思うよ。」
…え、ええ。
…それは、そうよね。
龍馬の言う通りです。
天城君に関する問題は何一つとして解決していません。
それどころか翔子が離反するという新たな問題まで発生してしまっているのです。
この状況は龍馬にとっても私にとっても望ましい状況ではありませんでした。
学園の幹部でありながら、
学園から離れた立場というのは決して良い状況ではないからです。
…ですが。
個人的には翔子の背中を後押しするつもりでいます。
他の誰が何を言ったとしても、
翔子を連れ戻すという考えはありません。
例えどんな結末が待っているとしても、
翔子には自由でいて欲しいからです。
そしてもしも叶うのなら翔子には幸せになって欲しいと願っています。
…それに。
もう一つ思うこともありました。
このままではいけませんから。
私にはまだやらなければいけないことがあると思うのです。
自分自身の問題を他人任せにするわけにはいきません。
…借りは、必ず返します。
密かに決断をしてから、
もう一度龍馬と向き合いました。
そして自分の想いを伝えようとしたのですが…。
「大丈夫だよ。沙織がどんな道を選んだとしても、僕はきみの味方だからね。」
私が話しかける前に後押しをしてくれたのです。
…龍馬。
私を安心させようとしてくれているのが感じられました。
何も言わずに。
何も聞かずに。
私の考えを肯定してくれたのです。
…本当に、ありがとう。
優しく微笑んでくれる龍馬の心遣いによって、
ようやく本来の笑顔を取り戻せたような、
そんな気がしました。
「ありがとう、龍馬。」
「ははっ。僕の事は気にしなくていいよ」
繰り返すお礼の言葉のせいでしょうか。
龍馬は照れくさそうに笑っていました。
「それよりも少し話を聞きたいんだけど、どうかな?歩けるかい?」
「ええ、大丈夫よ。」
体調は万全です。
体のどこにも異常は感じられません。
それどころか2時間ほどしか眠っていないのに魔力さえも完全に回復しているようでした。
…これはもう、そういうことよね?
この状況で考えられる理由は一つしかありません。
…おそらく。
…いえ。
間違いありません。
倒れた私を天城君が治療してくれたのだと思います。
翔子を助けた時と同じように、
私にも治療を施してくれたのではないでしょうか?
これは疑いようのない事実です。
なぜなら。
これほどの大魔術を使えるのは天城君しか存在しないからです。
翔子を助けたのも。
私の体を治療したのも。
全ては魔法の力だったのだと思います。
だからこそ。
魔術師である医師には天城君の治療が理解できなかったのではないでしょうか。
単純な魔術の理論で天城君の能力を定義することはできません。
そんな単純な理論で魔法の力を定義することはできないからです。
アルテマと対をなす治癒魔法。
それが彼のもう一つの力なのでしょう。
…破壊魔術だけではなかったということね。
治癒に関しても驚くべき才能を持っているのは明らかでした。
ですので、彼の力で助けられたのは間違いないでしょう。
元はといえば今も周囲で眠り続けている生徒達から奪い取った魔力ではありますが、
天城君はその魔力を私に受け渡してくれたのです。
そのおかげでこうして行動することが出来るようになったのだと思います。
そう考えると、少し申し訳ない気がしてしまいますね。
…今ここにいるのは。
今ここで眠っている生徒達のほとんどが天城君との戦いに敗れて倒れた生徒達だからです。
そんな彼らの魔力によって復帰できたのですから。
その事実を思うと、彼らが眠りについているところを邪魔してしまっては申し訳ない気がしてしまいます。
…このままここにいるわけにはいかないわね。
迷惑にならないうちに医務室から移動したほうがいいかもしれません。
…私だけが逃げるみたいで気が引けるけど。
魔力を返す手段がないので仕方ありません。
私には天城君のように自由自在に魔力を操ることができないのです。
純粋に魔力を放出するだけなら簡単なのですが、
それぞれの生徒達の本来の魔力に戻すという手段が私にはありません。
ただ単純に魔力を流すだけでは魔力を送り込むことはできないからです。
それどころか、お互いの魔力が反発して相手の体を傷つけてしまいかねません。
だからこそ。
どうすれば魔力の供給ができるのか私にはさっぱりわかりませんでした。
…もちろん私だけではないけれど。
学園最高位の魔術師である私や各分野の天才が集まるルーン研究所の職員でさえも理解できないほど、
途方もなく難しい技術なのです。
だから今は謝ることしかできませんでした。
私には彼らを救う方法がないから諦めるしかないのです。
「動いて大丈夫かい?」
「ええ。」
龍馬の手に支えられながらベッドから下りました。
そして待機していた夜勤の医師に挨拶をしてから医務室を退出することにしました。




