消える手応え
試合は、笛の音とともに唐突に動き出した。
前線では激しい攻防が繰り広げられ、体育館の天井にスニーカーが床を噛む**「キュッ!キュッ!」**という鋭い音が反響している。しかし、後方に控える海斗の元にはボールは一向に来ない。ただ、テカテカと光る無機質な床の上で、自分の居場所を見失ったまま立ち尽くしていた。
「相沢くん、そこじゃなくて大丈夫!もっと前に行ってみて!」
高橋さんの澄んだ声が、海斗の思考を叩き起こした。
(なんだ……もっと、前でいいのか……)
恐る恐る一歩を踏み出した、その時だった。
運命が転がるように、ボールが海斗の足元へ滑り込んできた。
「うわっ……!」
焦りながらも、反射的に右足を振り抜く。
乾いた衝撃が足の裏から脳を揺らした。ボールは真っ直ぐゴールへ向かったが、守備の男に呆気なく蹴り返される。
「惜しい!」「相沢くん、いいよ!」
周囲の無邪気な声。だが、海斗の胸の奥では、どろりとした熱い塊が膨らんでいた。
(くそ……次は、絶対に決めてやる……)
それからの海斗は、別人のようにボールへ執着した。
これまでの「歩き」で培った脚力が、予想以上に彼を前へと運ぶ。相手のゴール付近、こぼれたボールが海斗の目の前で跳ねた。
(今だ……!)
全身のバネを解放し、思い切りシュートを放つ。ボールは防護ネットを激しく揺らし、耳を劈くような快音を立てた。
「おお! 初めてなのに綺麗なゴールだ!」
「やるじゃん、相沢くん!」
拍手の渦。高橋さんの眩しい笑顔。頭を掻きながら、海斗は生まれて初めて味わう「肯定」に酔いしれていた。
(俺って、結構やれるじゃないか……)
滴る汗さえ、今は最高の勲章に思えた。
だが、その「黄金の時間」は、後半戦の始まりとともに呆気なく崩れ去る。
「みんな、すみません! 遅れちゃって!」
前半が終わった頃、笑顔で駆け寄ってきた男――佐野。彼が足を踏み入れた瞬間、体育館の空気の密度が明らかに変わった。
「やっとエースの登場か」
「佐野さんがいないと締まらないよなあ」
歓迎ムードに包まれるピッチ。海斗はボトルの水を飲みながら、その光景を呆然と見ていた。
「へー、まだ1点差なんだ。人数多い方が有利なのに、みんなこの程度?」
嫌味ではない、圧倒的な自信。中心で笑う佐野という男から放たれる「華やかな圧」に、海斗は息苦しさを感じた。
「君が今日からの人? 初めまして、佐野です。気軽に楽しんでよ」
近づいてきた佐野の瞳は、どこまでも澄んでいた。
「……相沢です。よろしくお願いします」
返すのが精一杯だった。佐野の爽やかな笑顔を見た瞬間、自分がさっき決めたゴールが、酷く安っぽいものに思えてきた。
後半、ピッチは佐野の独壇場となった。
海斗は必死に動いているはずなのに、ボールに指一本触れられない。佐野はまるで風のようにピッチを舞い、海斗を嘲笑うかのように次々とゴールを量産していく。
終わってみれば、5対1。
海斗が掴んでいたはずの「全能感」は、佐野という太陽に焼き尽くされ、影も形もなくなっていた。
「どうした? ボール触れてなかったね。でも大丈夫、君は脚力もありそうだし、通えばすぐにエース級になれるよ」
試合後、肩を叩いて笑顔で語りかける佐野。その言葉は、海斗の耳には「憐れみ」にしか聞こえなかった。
「……そうですか」
愛想笑いすら引き攣る。二人の間に、冷ややかな空気が流れた。
「この後、歓迎会やろうと思うんだけど、来るよね?」
「……お誘いは嬉しいんですけど、疲れちゃって。明日も早いので、今日は帰ります」
精一杯の拒絶。海斗は逃げるように更衣室へ向かった。
背後から「初日だしね」「空気読めよ」という、誰かの囁きが聞こえた気がしたが、振り返る余裕などなかった。
(もっと、上手くやれないと……。こんなんじゃ、全然ダメだ……)
更衣室の冷たいベンチで、海斗は震える拳を握りしめた。
体育館を出る時、遠くで佐野と高橋さんが手を振っているのが見えたが、海斗は気づかない振りを貫き、夜の闇へと足を進めた。
汗が冷えた体に、夜風はあまりに刺々しかった。
海斗の胸を満たしていたのは、心地よい疲れではない。
自分という存在の小ささを突きつけられた、どす黒い劣等感だけだった。
蛍光灯の青白い光が、殺風景な部屋を照らしている。
海斗は帰り道のコンビニで買った弁当のプラスチック蓋を、指先でパチパチと弾きながら、脂っこい唐揚げを口に運んだ。
「……ってことが、あったんだよ」
箸を置かずに、吐き捨てるようにドッペルへ今日の出来事を話す。
「『ってことがあったんだ』だけで、何がわかると言うの? ちゃんと話してよ、主語が抜けててわけがわからない」
テレビの前のクッションに深く沈み込んだドッペルが、袋からポテチを一枚取り出し、無造作に口へ放り込んだ。バリッ、ボリッと、静かな部屋に乾いた咀嚼音が響く。
「空気読めよ! だから、佐野さんっていう経験者が来てさ。後半はもう、アイツに全部持っていかれたんだよ……くそっ。前半は、俺が1点取ったのに……」
海斗は弁当の底に残った色の濃い米をかき込みながら、子供のように唇を尖らせた。
「ふーん? 今日から始めたんでしょ。1点取れただけでも十分じゃない。なんでそんなにイライラして、自分を安売りしてるの?」
ドッペルはポテチの袋を抱えたまま、海斗の顔をのぞき込む。その瞳には、憐れみも怒りもなく、ただ氷のような好奇心だけが宿っていた。
「ドッペルにはわからないよ……あの一瞬、ピッチを支配したあの全能感。それが一気に崩れ去った時の、あの惨めな無能感……!」
海斗は喉の奥で、苦い何かを飲み込んだ。佐野に肩を叩かれた時の、あの「持てる者の余裕」が、今も肌に残って熱を帯びている。
「うーん。高望みしすぎじゃないかな。みんな褒めてくれてたんでしょ? 歓迎会だって誘ってくれたのに、勝手に拗ねて断ったのは君だ」
ドッペルは指についた塩を舐めると、テレビのリモコンを手に取った。
「まあいいんだけど、思い詰めすぎないように程々にね? ……わかってると思うけど、一応言っておくよ。休日は、ちゃんと休んでね」
念を押すようなその声は、優しさよりも「警告」に近かった。ドッペルはそのままポテチを持って、テレビの正面へと移動する。
「辛気臭いから、もう寝なよ。それとも、まだ愚痴を続けたいの? 君は上手くなりたいのか、ただ楽しみたいだけなのか。……ちゃんと決めてから、次はどうするか考えなよ。じゃないと、せっかく見つけた居場所も失うことになるよ?」
ドッペルの手元の袋から、ガサガサとアルミの擦れる音がする。彼女はそのまま、無音のテレビ画面に視線を固定した。
「言われなくても、わかってるよ……。愚痴ぐらい、聞いてくれたっていいじゃないか。ああ、気分悪い。もう寝る! おやすみ!」
海斗は空になった弁当の容器を乱暴にゴミ箱へ投げ捨て、洗面所へと逃げ込んだ。
扉が閉まる音を背に、ドッペルは音の消えたテレビをじっと見つめ続けていた。
「……程々にしないと、本当にまずいかもよ」
その独り言は、静まり返った部屋の空気を震わせた。




