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ホメオスタシスは、今日も眠ってる  作者: 紅月ヨルカ


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18/19

準備運動

社内の奥深くへと足を踏み入れていた。

たどり着いたのは、普段は静まり返っているはずの社内体育館だった。


「えっ? ここでやるの? てっきり外のグラウンドか公園とかだと思ってたけど……」


海斗の口から戸惑いがこぼれる。夜風や土埃を想像していたせいか、目の前の光景はやけに整いすぎていた。


「いや〜、仕事終わりに泥だらけになりたくないでしょ?」


三宅がテカテカした床を指差して笑う。


「コンプラとか女性への配慮とか、ちょっと大袈裟に上に掛け合ってさ。ここは空調も効くし、床もピカピカ。最高の“密室”だよ」


密室――その言葉が、妙に耳に残った。


一歩踏み入れた瞬間、甘ったるいワックスの匂いと、古いゴムの焦げたような臭気が鼻を刺す。

キュッ、キュッ、と不規則に響くスニーカーの摩擦音が、天井で跳ね返り、何度も耳に戻ってくる。


更衣室で、新調したばかりのジャージに袖を通す。


鏡の中の自分は、以前とは違っていた。

腹は引き締まり、背筋は伸びている。呼吸が妙に静かだ。

落ち着きすぎている、とさえ思った。


(……こんなに静かだったか、俺)


力がある。

けれど、まだ使われていない。

それが皮膚の内側でじっとしている。


体育館へ戻ると、女性陣の声が高い天井に反響していた。


「今日、本当に来てくれて嬉しい!」


高橋さんが近づいてくる。蛍光灯の光が白く反射して、表情が少しだけ平面的に見えた。


「ルールは簡単。手を使わないことと、危ないことをしないこと。それ以外はゆるゆるだから」


その言葉に、海斗はうなずく。


床の端で、フットサルボールがひとつ転がっている。

白と黒の模様が、やけにくっきりと見えた。


(良いところを見せたい)


その気持ちだけが、少しだけ熱を持っている。


準備運動が終わる頃には、体育館の空気がわずかに重くなっていた。


「でも、まだ9人しかいないよ?」


高橋さんの声が、天井に吸い込まれる。


「ああ、佐野くんがいないんだな」


その名前が出た瞬間、わずかに間が生まれた。

三宅の笑いが、ほんの一瞬だけ途切れる。


「佐野さんがいないと、締まらないよなあ」


締まらない――。


海斗はその言葉を飲み込む。


(佐野……)


知らない名前なのに、空気がわずかに引き締まった気がした。


試合前、海斗は一人でボールを蹴る。


ドォン、と重い音が響く。

ネットが揺れ、振動が足裏から伝わる。


強い。

けれど、その強さはまだどこにも向かっていない。


「とりあえず9人で始めよう」


軽い合図。


その瞬間、空気が変わった。


さっきまでの笑い声が、床に吸い込まれたように消える。

スニーカーが床を噛む音だけが残る。


キュッ、キュッ。


海斗は指示されるまま、守備位置へ下がる。


磨かれた床に蛍光灯が反射し、足元が冷たい。


「相沢くん、後ろお願いね!」


明るい声。

けれど、その背後にある何かを、海斗はまだ知らない。


対峙する四人。

自分を含めた五人。


人数差はわずかだ。

それでも、なぜかこちら側が多いはずなのに、息が詰まる。


笛も鳴っていない。

ボールもまだ動いていない。


それなのに、もう何かが始まっている気がした。


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