準備運動
社内の奥深くへと足を踏み入れていた。
たどり着いたのは、普段は静まり返っているはずの社内体育館だった。
「えっ? ここでやるの? てっきり外のグラウンドか公園とかだと思ってたけど……」
海斗の口から戸惑いがこぼれる。夜風や土埃を想像していたせいか、目の前の光景はやけに整いすぎていた。
「いや〜、仕事終わりに泥だらけになりたくないでしょ?」
三宅がテカテカした床を指差して笑う。
「コンプラとか女性への配慮とか、ちょっと大袈裟に上に掛け合ってさ。ここは空調も効くし、床もピカピカ。最高の“密室”だよ」
密室――その言葉が、妙に耳に残った。
一歩踏み入れた瞬間、甘ったるいワックスの匂いと、古いゴムの焦げたような臭気が鼻を刺す。
キュッ、キュッ、と不規則に響くスニーカーの摩擦音が、天井で跳ね返り、何度も耳に戻ってくる。
更衣室で、新調したばかりのジャージに袖を通す。
鏡の中の自分は、以前とは違っていた。
腹は引き締まり、背筋は伸びている。呼吸が妙に静かだ。
落ち着きすぎている、とさえ思った。
(……こんなに静かだったか、俺)
力がある。
けれど、まだ使われていない。
それが皮膚の内側でじっとしている。
体育館へ戻ると、女性陣の声が高い天井に反響していた。
「今日、本当に来てくれて嬉しい!」
高橋さんが近づいてくる。蛍光灯の光が白く反射して、表情が少しだけ平面的に見えた。
「ルールは簡単。手を使わないことと、危ないことをしないこと。それ以外はゆるゆるだから」
その言葉に、海斗はうなずく。
床の端で、フットサルボールがひとつ転がっている。
白と黒の模様が、やけにくっきりと見えた。
(良いところを見せたい)
その気持ちだけが、少しだけ熱を持っている。
準備運動が終わる頃には、体育館の空気がわずかに重くなっていた。
「でも、まだ9人しかいないよ?」
高橋さんの声が、天井に吸い込まれる。
「ああ、佐野くんがいないんだな」
その名前が出た瞬間、わずかに間が生まれた。
三宅の笑いが、ほんの一瞬だけ途切れる。
「佐野さんがいないと、締まらないよなあ」
締まらない――。
海斗はその言葉を飲み込む。
(佐野……)
知らない名前なのに、空気がわずかに引き締まった気がした。
試合前、海斗は一人でボールを蹴る。
ドォン、と重い音が響く。
ネットが揺れ、振動が足裏から伝わる。
強い。
けれど、その強さはまだどこにも向かっていない。
「とりあえず9人で始めよう」
軽い合図。
その瞬間、空気が変わった。
さっきまでの笑い声が、床に吸い込まれたように消える。
スニーカーが床を噛む音だけが残る。
キュッ、キュッ。
海斗は指示されるまま、守備位置へ下がる。
磨かれた床に蛍光灯が反射し、足元が冷たい。
「相沢くん、後ろお願いね!」
明るい声。
けれど、その背後にある何かを、海斗はまだ知らない。
対峙する四人。
自分を含めた五人。
人数差はわずかだ。
それでも、なぜかこちら側が多いはずなのに、息が詰まる。
笛も鳴っていない。
ボールもまだ動いていない。
それなのに、もう何かが始まっている気がした。




