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ホメオスタシスは、今日も眠ってる  作者: 紅月ヨルカ


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のんびり猫のイッスイさん

海斗が目を覚ますと、腹の上に得も言われぬ心地よい重みを感じた。

微かな寝息——見ると、丸まったドッペルがそこにいた。以前なら「重いよ」と笑って除けていたはずのそれを、今はただ無感覚に横へずらす。

胃の奥に広がる、仕事へのどろりとした憂鬱。それを無理やりコーヒーで流し込み、ライ麦パンとヨーグルトを用意した。

朝の光が差し込むキッチン。海斗は隣に座るグレーの猫型マスコットと、毒気のない時間を分け合う。ニュース番組の無機質な音声だけが流れる、あまりにも穏やかな、けれど歪な日常。

だが、ふと我に返った海斗の思考が、目の前の光景に凍りついた。

「……普通に座ってるけど、誰だお前は!」

椅子から飛び退いた拍子に、コーヒーが床に跳ねる。

「いつからいた? どこから入った? ……まさか!」

床に転がる、砕け散ったあの毛玉の残骸。海斗は血の気が引くのを感じながら、壁際に立てかけてあった**「台座ハンマー」**をひったくるように握りしめた。

「次はお前なのか! 今度はどんな嫌がらせをするつもりだ、聞いてるのか!?」

逆立った髪、震える腕。振り上げられた台座が、鈍い威圧感を放つ。しかし、グレーの猫はのんびりと寝そべったまま、細めた瞳で海斗を見上げた。

「そんなに焦らないで……。一休み、一休み……」

「……うるさいな。全然寝れないじゃないか」

目を擦りながら、ドッペルが欠伸混じりに出現した。殺気を放つ海斗と、欠伸をする猫。その間に割って入ったドッペルは、冷淡に言い放つ。

「ああ、イッスイさんをもう見つけたんだ。……早いね。もしかして、今倒すつもり? まだ何も起きてないよ」

氷のようなその一言に、振り上げたハンマーが宙で止まる。海斗は苦虫を噛み潰したような顔をしながらも、ゆっくりと、呪われた武器を下ろした。


「……とりあえず、誰なんだ、この猫は?」

海斗が指差すと、ドッペルはポテトチップスを一枚口に放り込み、面倒そうに答えた。

「だから、イッスイさんだよ。イッスイさんも、何かあればと思ってさ」

紹介された当のイッスイは、いつの間にか海斗が淹れたコーヒーを自分のもののように啜っていた。

「イッスイです……。なんだか、騒がしいところに来ちゃったな……。もう少しゆっくりしたらいいのに……。ねぇ?」

その声は、春の午後の日差しのようにどこまでも間延びしていて、聞いているだけでこちらの思考まで溶けてしまいそうだ。

「まあ、こんな子だよ。仲良くしてね、海斗」

「できるか! どうせまた、何か仕掛けてくるつもりだろ?」

呆れたようにツッコむ海斗を、ドッペルは濁った瞳で一瞥する。

「うん、そうだね。だって、君が約束を破るから悪いんだよ?」

「っ……!」

淡々と言い放ち、ドッペルはイッスイと並んでポテチを齧り始めた。パリ、パリ、と軽快な咀嚼音が、海斗の罪悪感をリズムよく刻む。

ふと時計を見た海斗の顔が強張った。

「ああ、もうこんな時間だ! いいよな、お前ら二匹はのんびりできて!」

毒づきながら、海斗はライ麦パンを手に取る。まともな朝食を摂る時間すら、今の彼には残されていない。

「行ってくる!」

カサカサのパンを口に咥え、海斗は逃げるようにドアを飛び出した。

「その調子で、頑張ってよ」

ドッペルが冷たく呟く。

「うん……でも、一休み、一休み」

イッスイののんびりとした声が、閉まったドアの向こう側で、静かに海斗の部屋に沈殿していった。

仕事には、辛うじて行った。

だが、視界には常に薄い膜が張っているようだった。上司の怒声も、キーボードを叩く乾いた音も、すべてが遠い世界のBGMに過ぎない。

帰り道のコンビニ。カゴの中には、選ぶ手間を省いた茶色い揚げ物の塊と、思考を麻痺させるための甘い飲み物。

「……最近、ひどいね」

帰宅した海斗を待っていたのは、机に散らばった空き缶とゴミの山を見つめるドッペルの無機質な目だった。

「分かってるって……」

海斗は答えるのと同時に、吸い寄せられるようにベッドへ倒れ込んだ。

体は重い。けれど、不思議と心は羽のように軽い。イッスイが、隣で優しく髪を撫でているような気がしたからだ。

「このままでいいんだよ、海斗くん」

イッスイが耳元で囁く。その声は温かい綿飴のように、ドッペルの突き刺すような正論を遮っていく。

「起き上がらなくていい。何も考えなくていい。こうして目を閉じているだけで、世界はこんなに穏やかなんだから……」

「……ああ、やっぱり、そうだよな……」

海斗は、泥のような深い眠りに身を委ねる。

「君、死ぬよ?」

ドッペルの警告さえ、もはや心地よい子守唄のアクセントに過ぎなかった。ドッペルは、イッスイに骨抜きにされていく海斗を、ただ冷徹に、憐れむように見つめていた。

「……思ったより、まずいな。浸食が早すぎる」

イッスイが現れてから一週間。

海斗はかろうじて会社へ足を運ぶものの、帰宅しても水分すら摂らなくなった。ドッペルが隣でバリバリとポテチを食べていても、かつてのような食欲は湧かない。手を伸ばすことすら、果てしなく億劫だった。

風呂にも入らず、服も着替えず、ただ重力に従うようにベッドへ沈む。

ある朝、意識だけが冷たく覚醒した。

目は開いている。けれど、「起きよう」という意思が体のどこを探しても見当たらない。

枕元でスマホが震えた。

上司か、あるいは……あの、スーパーの店員だろうか。

画面が光るたび、暗い部屋がわずかに青白く染まり、壁にこびりついた埃を照らし出す。海斗はそれを見つめながら、指一本動かす気になれなかった。

「……出なくていいの?」

ドッペルの声が、湿ったシーツの隙間から滑り込んでくる。

「ああ……いい。もう、どうでも……」

イッスイが海斗の頬にすり寄り、「そうだね。このまま、光が消えるまでこうしていようよ」と甘く囁き、部屋の隅へと移動した。

ドッペルは、ベッドの上で骸のように動かなくなった海斗を見つめ、ただ一度、深く、重い吐息をついた。

「……手遅れか」

イッスイはその様子を、影の濃い部屋の片隅から、満足げにじっと見つめ続けていた。

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