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ホメオスタシスは、今日も眠ってる  作者: 紅月ヨルカ


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失意の時

約束を交わしてからも、海斗は律儀に遠回りをしてスーパーに通う日々を続けていた。

(別にドッペルが怖いからじゃない。断じて、違う。安いし、経済的だし、歩くから運動にもなる。極めて合理的で賢い選択だ)

自分にそう言い聞かせながら自動ドアをくぐり、無意識に特定のレジへと視線を走らせる。

(あ……今日は、いる)

それだけで、仕事の疲れで鉛のように重かった足取りが、ふっと軽くなるのを感じた。弁当をカゴに入れながら、チラチラとタイミングを計る。他の客が並んでいるときは、あえて遠くの乾物売り場をうろつき、彼女のレジが空いた瞬間に、平静を装って滑り込む。

(怪しいと思われているかもしれない。でも、どうせ買うなら、あの人のレジがいい)

理由なんて、ただの後付けだ。それでも海斗は、淡い期待という名の燃料で、自分の歩幅を必死に維持していた。

そんな日々が続いた、湿り気の多い木曜日。

仕事帰り、ビルの外に出た瞬間、視界を白く染めるほどの猛烈な大雨が地面を叩きつけていた。

傘はない。アスファルトが跳ね返す雨水の匂いが鼻を突く。

「……今日は、さすがに無理だろ」

誰に言うでもなく呟いた声は、激しい雨音にかき消された。足は自然と、すぐ近くにあるコンビニの青い看板へと向く。

(平日は、何があってもスーパーに行く)

頭の中でドッペルの低い声が再生されるが、この土砂降りの中を歩けば、スーパーに着く前にずぶ濡れになり、確実に風邪を引く。

(……今日だけは、仕方ない。これは不可抗力だ)

そう自分に言い訳の判子を押し、海斗は逃げ込むようにコンビニの自動ドアを抜けた。

久しぶりのコンビニは、不自然なほど白く眩しかった。海斗は少しだけ罪悪感を抱きつつも、どこか浮かれた気分で棚を回る。ドッペル用にポテトチップスを三袋、そして自分用には、一番背徳感のある、脂ぎったハンバーグ弁当を手に取った。

家に着き、ドアの前で一瞬だけ呼吸を止める。

(……ルール、破ったよな)

「台座ハンマー」が勝手に動き出すんじゃないか。そんな警戒をしながら鍵を開けると、部屋には明かりが灯り、テレビのバラエティ番組の笑い声が聞こえてきた。

(……よかった。いつも通りだ)

「ただいま。今日は大雨でさ、傘もなくて。さすがにスーパーは無理だったよ。コンビニ寄ったけど、その代わり――」

海斗は袋を高く掲げる。

「ほら、ポテチ、いっぱい買ってきたぞ」

ドッペルはそれを受け取り、袋の重さを確かめるように眺めてから、無造作に封を切った。

「今日の選択は、それでいいよ」

淡々とした、平熱の声。

「傘もないのに無理をしたら風邪を引く。君はルールより自分の身体を優先した。それは正しい判断だ」

そう言いながら、ポテチを一枚、小気味よい音を立ててかじる。

「ああ、悪いな。すぐ弁当温めるわ」

海斗がレンジのボタンを押すと、背後で空気がわずかに震えた。

「このまま、怠けないでね」

振り返ると、ドッペルが濁った瞳でこちらを凝視していた。

「今日“だけ”にしといて」

それだけ告げると、ドッペルは何事もなかったようにテレビの方へ顔を戻した。

(……たまに、こいつが底知れず怖くなる)

レンジが回る単調な音を聞きながら、海斗は自分の影が少しだけ濃くなったような錯覚に陥った。

翌日。海斗は昨日の遅れを取り戻すように、足早にスーパーへ向かった。

遠回りの道に咲く紫陽花も、もう見慣れた風景だ。

レジに並ぶと、お目当ての店員が顔を上げ、少し驚いたように目を細めた。

「毎日来てくださるのに、昨日はいらっしゃいませんでしたね」

「え、あ、ああ……。大雨で。傘がなくて、ついコンビニに……」

「そうだったんですね。いつ来るかなって、ちょっと待ってたんですよ」

さらりと言われたその一言で、海斗の胸の奥が、これまでにないほど大きく跳ねた。心臓の鼓動が耳の奥まで響く。

その夜、海斗は妙に上機嫌だった。

「なあドッペル。いつもポテチばっかりじゃ飽きるだろ? たまにはさ、これ食えばいいのに」

弁当のジューシーなカツを一切れ、箸で差し出す。

「いらないよ」

即答。氷のような拒絶だった。

「前にも言ったでしょ。弁当はいらないし、君のおかずはもっといらない」

「そう言うなって。減るもんじゃないし、美味いぞ?」

無理に押し付けようとすると、ドッペルは一拍の沈黙を置き、底冷えする声で言った。

「……今日は、ちょっと君が苦手だな」

そう言い捨てて、ドッペルはポテチを掴んだまま、隣の暗い部屋へと消えていった。

「なんだよ、せっかくの好意なのに」

海斗は肩をすくめ、拒まれたカツを自分の口に放り込む。

(でもなあ……もし明日、連絡先とか聞かれたらどうする? いや、ないか。ないよな……)

そんな甘い妄想に浸り、海斗の頬はだらしなく緩んでいた。

翌週。海斗はいつものように、期待に胸を膨らませて遠回りの道を歩いていた。

公園の前を通りかかったとき、見覚えのある、あの後ろ姿が視界に入る。

「あ! 店員さんだ」

声をかけようとした、その時。

前方から現れた若い男が親しげに手を振り、自然な動作で彼女の腕を取った。

彼女は、レジで見せるよりもずっと柔らかい、本当の笑顔を男に向けている。二人は並んで歩き、幸せそうな温度を残して、角の向こうへと消えていった。

海斗は、その場に釘付けになったように立ち尽くした。

手にした空のカゴ(エコバッグ)が、急に惨めで、耐え難いほど重く感じられた。

その日、海斗はスーパーへは向かわなかった。

コンビニで買った適当な弁当を広げ、家で無言の夕食を囲む。

テレビの音すら耳に入らない。ドッペルと二人、ただ咀嚼音だけが響く部屋で――。

「オエッ」

ドッペルが、唐突に喉を鳴らして床に湿った毛玉を吐き出した。

「うわ……急に何だよ。汚いな、もう」

海斗は力なく毒づく。

「ああ、ごめんごめん」

ドッペルは悪びれる様子もなく、床に転がった毛玉を見つめた。その毛玉は、以前よりもどこか柔らかく、膨らんでいるように見える。

「君、元気なさそうだったからさ。今日は、これくらいにしとく」

海斗はそれ以上何も言わず、中途半端に残った弁当を片付けた。

「……ご馳走様。今日はもう、寝る」

ベッドに向かう海斗の背中を、ドッペルは暗がりからじっと見つめていた。

床に残された毛玉が、まるでもぞもぞと呼吸をしているかのように、わずかに蠢く。

「……次はないって、言ったよね」

静かな、刃物のような声が海斗の背中に突き刺さった。

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