周り道
仕事帰り、海斗は街灯の少ない暗い道を歩きながら、肺の奥に溜まった淀んだ空気を吐き出した。
(今日も……終わった……)
以前なら迷わず吸い寄せられていたコンビニの明るい光を背に、最近はあえて遠回りをしてスーパーに通っている。ドッペルにお菓子を山ほどねだられると出費が洒落にならないし、スーパーの割引は「メタボ予備軍」の財布に優しい。
それに――こうして歩く距離を稼ぐことが、今の彼にできる精一杯の抵抗でもあった。
(まあ……レジの店員さんが可愛いってのも、歩ける理由の一つだけどさ)
蛍光灯に照らされた店内。海斗は、鮮やかな黄色と赤の「半額」シールが貼られた弁当を一つ手に取る。飲み物とお菓子を数点。カゴの中身は必要最低限だ。
理由は単純だった。
――「また変なことしてたら、食い尽くし系が来ちゃうかもね?」
ドッペルのあの薄笑いを浮かべた警告が、耳の奥にこびりついて離れない。冗談の皮を被っているが、その中身が「真実」であることを、海斗はあの台座の重みを通して知っている。
家に着き、重いドアを開ける。
「ただいま」
「お、やっと帰ったね。最近遅いじゃん」
部屋の奥、薄暗いリビングからドッペルの声が響く。
「スーパーの店員とデートでもしてるのかと思ったよ」
「してない!」
海斗は即座に否定し、耳まで赤くなるのを感じた。
「今日はその人いなかったし! ほら、これ見ろ。半額だぞ。ちゃんと節約してるんだ」
レンジが「チン」と無機質な音を立て、人工的な出汁と脂の混ざった匂いが立ち込める。ドッペルは気にも留めず、ポテトチップスの袋をバリバリと下品に引き裂いた。
「理由はどうでもいいよ。ちゃんと歩いて、食べ過ぎなくて、僕にポテチを買ってきてくれればね」
「最後が余計なんだよ」
毒づきながらも、海斗は温まった弁当とお菓子を差し出す。ドッペルは弁当の中身を覗き込み、わずかに鼻を鳴らした。
「別に弁当はいらないけどね。ポテチだけで十分だし」
「……一緒に食った方が、美味いだろ」
海斗はそれ以上言わず、点けっぱなしのテレビに視線を逃がした。ドッペルは無表情のまま、機械的に箸を動かす。そして、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえばさ。あの時――**『台座』**ごと振り下ろしてたよね」
「……ああ。抜けないからな」
海斗は苦笑いで応える。
「もう『台座ハンマー』でいいだろ。いつか抜けるその日まで、僕の相棒ってことでさ」
「ふーん」
ドッペルは一瞬だけ、真っ黒な瞳で海斗を射抜いた。そして、乾いた音を立ててポテチを噛み砕く。
「でもさ」
声音は相変わらず軽い。だが、そこには確実な冷気が混じっていた。
「それを使うってことは、君がもう一度『ルール』を踏み越えたって意味だからね」
海斗の背筋を、氷の粒が滑り落ちるような悪寒が走った。あの時、タロウを消し去った一撃は、自分の「不摂生」が生んだ怪物を、自分の「過去の重み(台座)」で潰しただけに過ぎない。
「……わかってるよ」
「ならいいよ」
ドッペルは何事もなかったように笑い、次の一枚を口に運んだ。
「じゃあ、次に君に守ってほしいことを言うね?」
「またルールかよ……。夜中に何も食べるなとか、今は慣れたけど正直きつかったんだぞ? お前が横で美味そうに食うから余計にさ」
海斗が零すと、ドッペルは鼻で笑った。
「まだそんな感覚なんだ? でも安心してよ。今回は優しいルールだから」
ドッペルは海斗の顔を正面から見据え、さらりと言った。
「平日は、遠回りしてでもスーパーに行くこと。今、君がしてることを続けるだけでいい。……できるよね?」
海斗は拍子抜けして、思わず吹き出した。
「なんだ、それだけか。余裕だろ。スーパーはお菓子も安いし、弁当も買えるし、遠回りすれば運動にもなるしさ」
ドッペルが一瞬、深い沈黙を置いた。
「……あと、店員さん、だね?」
「っ……! あ、ああ。まあ、それはついでだよ、ついで!」
動揺を隠すように大声を出す海斗に、ドッペルは興味なさそうに告げる。
「理由はどうでもいいよ。下心でも、惰性でも。続けることが大事なんだ。ルールさえ守れば、それでいい」
そう言って、ドッペルは白く細い手を差し出してきた。
「じゃあ、問題ないなら握手しよ」
海斗は手を出しかけて、ふと動きを止めた。
「なあ……もし、これ握手しなかったら、どうなるんだ?」
冗談めかして聞いたつもりだった。
だが、ドッペルの返答は、一滴の感情も混じらない純粋な響きを伴っていた。
「暴れると思う」
一瞬、リビングの空気が凍りついた。テレビの音が遠のき、ドッペルの瞳の奥にある「底なしの虚無」が海斗を捉えて離さない。
「……っ、よろしくお願いしま〜す!」
海斗は半ば勢いに任せて、その手を握った。ドッペルの手は驚くほど冷たく、そして岩のように固い。
「約束だよ。何があっても、平日はスーパーに行くこと」
「へいへい……わかったよ」
海斗は逃げるようにテレビに視線を戻したが、画面の中で踊る映像も笑い声も、今の彼には砂嵐のように無意味なものにしか感じられなかった。




