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痘痕の光  作者: 星来香文子
翡翠の簪
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捜索(二)


 東宮の妃選びで、正室にも側室にも選ばれなかった姫の多くは、同じ領地内の上級貴族に輿入れし、子を産む。

 桜子の母・咲子さきこもその例にならって、当主家の跡取りに決まっていた央満の二番目の妻となった。央満には最初の妻との間に三人の子供がいたが、流行病により妻が亡くなった為、妃選びで選ばれなかった咲子に後妻の話が来たのである。

「お母様が言っていたの。この簪は、()()()()に頂いた、大切なものなんですって」

「かみさま?」

「わたしが大人になって、東宮様のお妃に選ばれたら、その時にくれるって言っていたのよ」

 桜子は、いつも咲子が髪に刺していたその簪を、大人たちが見ていない隙に、遺体の髪から抜いたのだ。このままでは、自分の手に渡る前にどこかへ持っていかれると思ったらしい。

「そんなことして、怒られなかったんですか?」

「怒られる? どうして? わたし、何か悪いことをしたかしら?」

「え? だって……」

 実は葵は、数ヶ月前に葬儀に居合わせたことがある。五歳になってから、近くの道場で剣を習い始めたのだが、その師匠の母親が亡くなったのだ。少しの間ではあったが、故人と関わりがあった。その間、安置された遺体に触れている人はいなかった。それどころか、葵よりももっと幼い師匠の息子が遺体に触れようとしたのを止められているのを見ている。「触らないの!」っと、ものすごい剣幕で怒られていた。

 だから当然、遺体に触れるのはいけないこと。桜子の行動は、当然怒られるようなことだろうと思った。だが、どうして遺体に触ってはいけないのか、その理由までは分からない。

「……」

 なんて言ったらいいか考え、言葉に詰まった葵。桜子には、なぜそれがいけないことなのか、桜子が納得する理由をきちんと話さなければ、理解してもらえないところがある。葵と違って、あまり他人の顔色を窺う様子がない、他人に流されない、自分というものをしっかりと持っているのは良いことかもしれないが、そのせいで桜子が恥をかいたりしてはいけない。この屋敷で働く他の女童や女房たちなんかより、よく気がつき、真面目で聡い葵はそのことを理解していた。

 急に黙ってしまった葵を不思議そうに小首を傾げて見ていた桜子は、何かを察したようで、今度は少しだけいたずらっぽく笑う。

「もしかして、葵もこれが欲しかったの? ダメよ。これは、わたしのものなんだから。うふふ」

「……そういうことでは」

「————姫さま!」


 葵が完全に否定する前に、二人を見つけた楓が駆け寄ってくる。葬儀が始まるからと、桜子たちを呼びに来たのだ。つい数分前まで布団の上に横たわっていた遺体は、いつの間にか木棺の中に収められていて、親族や知人たちが悼んでいた。

 位の高そうな僧侶が三人やってきて、経を読み上げる。桜子はそれを最初は不思議そうに見ていた。貴族の間では死は穢れであり、避けるべきものだとされている。いずれ皇后となるために大切に大切に育てられた桜子は、この時初めて葬式というものを見た。法事が全くなかったわけではないが、ここまで長い間経を聞くことも初めてだった。

 しばらくして、僧侶たちの読経の声と混ざって、ひっくひっくと子供の声が聞こえる。その場にいた皆が、母を亡くした桜子が、咲子を思って泣いているのだろうと思った。

 だが、桜子の一番近くにいた葵は、どうもおかしいと感じる。それが、笑っているようにも聞こえるのだ。経が進むにつれて、まるで唄でも歌っているような節回しの部分がある。その度に、それが聞こえる気がして、桜子の方に視線を向け、ぞっとする。

 桜子は、やはり笑っていたのだ。

 葵は慌てて、桜子にぐいと顔を近づけ、小声で言った。

「姫さま、笑ってはいけません」

「え? どうして?」

 桜子は、笑顔で訊き返す。

「まるでお唄のようで、面白いじゃない。どうして笑ってはいけないの?」

 まったくその場にそぐわない、綺麗で可愛らしい笑顔だった。桜子は、葬式で笑っていけないということを知らないのだと、葵は頭を抱える。

「ダメなものは、ダメなのです……姫さま」

 ————きっと、姫さまは、ご自分の母上様が死んだというのに、それがどういうことか、理解できていないのだわ。


 この時、桜子が死というものをどこまで理解していたのか誰にも分からない。屋敷から運び出された木棺が土の中に埋められる様子を泣くでもなく、ただ初めて見る光景を不思議に思っている様子で、桜子はいつものように微笑んでいた。そのあと、しばらくして「お母様にはいつ会えるの?」と言いだしたので、楓が子供でも理解できるように話したが、本当の意味で理解できるようになったのは、おそらく、それから二年後に、北の方様が亡くなってからだろう。

 妻を失い、すっかり気力を失ってしまった央尋は央満に家督を譲り、隠居してしまったのだ。桜子は年齢の割に足腰のしっかりした活力に溢れていた祖父の変わりように、誰よりも胸を痛めているようだった。

 

 央尋は隠居後、しばらくして翡翠領の南方の田舎にある別荘へ移ったが、この時、何人か身の回りの世話をさせるために人をつれて行ってしまった。葵の母はその中にいて、八歳の秋に母子は離れた。必ず毎年顔を見せに戻ってくると言っていた母は、結局、葵が成人しても一度も顔を見せることがなく、母が今どうしているのか、葵は知らないままである。だが、別れ際の母の言葉は、今も葵の心にずっと残っている。

「葵、何があっても、必ず姫さまのそばを離れてはなりませんよ。あなたはいずれ、この国の母となる姫さまの一番の腹心になるのです。それが、あなたにとって一番の幸せなのですよ」

 ざらざらと荒れた手で、泣きじゃくる葵の頬を撫でながら、そう言った母の顔は、一番古い記憶の青ざめた顔とは違う、優しい笑顔だった。


「葵は泣き虫ね。ほらほら、もう泣かないの」

 母が屋敷を去ってから、いつも葵の涙を拭ってくれたのは桜子だった。いつの間にか成長していた桜子は美しく、優しく、慈悲深い。玉のように美しく育った桜子は、本当にため息が出るほど綺麗だった。いつかあんな風になりたいと思っていたすべすべの手。力仕事も水仕事も、葵のように竹刀を握ったこともない、白くてすべすべとして、やわらかそうな手をしている。

 少しおっとりしているところが不安ではあるが、その足りないところを補うために、葵は必死だった。桜子の裳着で泣いたのを最後に、葵は一切泣くのをやめた。

 この人を、必ず皇后にする。そうすれば、私は母の言う通り幸せになれるのだと、信じてやまなかった。


 そのために、一度、屋敷から出る必要があると言われたのは、桜子の裳着から半年後のことである。師匠が言ったのだ。翡翠領以外の領地、宮中のことも知った方がいいと。そこで葵は、一年ほど翡翠領出身の萌木もえぎ女御にょうごの許で宮中のあれこれを学ぶため、桜子と離れることになった。


「あれ……? どうして、これを女御さまが?」


 葵が、桜子が母の形見だと常に持っているあの翡翠の簪と全く同じものを、萌木の女御で見たのは宮中に来て二週間後のことである。

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