化物(二)
撫子が言った物の怪とは、やはり桔梗のことだ。
そうでなければ、弟に晴彦の相手をさせ、自分は死人が出たこの部屋で、こんなことができるはずがない。
狂っている。
何より、桔梗の相手をしているのが希彦だなんて、許せない。
ずっと、ずっと、晴彦が本当に欲しかったのは希彦だった。
だが、それが決して叶わない願いだと、超えてはならない一線だとわかっていたから、希彦に似た声の光に、希彦を重ねて、ごまかした。
それでいいのだと、諦めていたのに、自分の正室になろうとしている女が、その希彦に抱かれている。
本当は誰を愛しているか、誰にも教えていない。
いや、もしかしたら、光に抱かれながら、希彦の名を呼んでしまったこともある。
光なら、晴彦が誰を愛しているのか、恋い焦がれているのかわかっていたはずだ。
————光から、漏れたのか? だとしたら、これは本当にありえない。あってはならないことだ。俺には偽物の希彦をあてがって、その裏で桔梗は本物の希彦と……
こんな悍ましいことを平然とするなんて、人ではない。
これは、人ではない。
化物だ、と、晴彦は思った。
許せなかった。
自分が欲しくても我慢していたものを、知らぬうちに奪われていたことが、許せなかった。
————希彦も、俺の気持ちを知っていたのか?
「希彦!!」
一気に頭に血が上り、晴彦は襖を力任せに開けて叫んだ。
桔梗は、「どうしてここに」と狼狽しながら希彦からさっと離れると、床に散らばっていた衣を拾い上げて、裸を見られないように後ろを向く。
ところが、希彦は顔色の一つも変えずに、やれやれといつもの調子で起き上がった。
「どうされたのです、兄上。部屋を間違えたのですか? 光でしたら、向かいの部屋におりますよ?」
「どうした……だと? 本気で言っているのか!? こんな……こんなことをしておいて————」
「こんな? こんなとは? 兄上が桔梗殿のお相手ができないので、代わってあげただけですよ? 何か問題がありますか?」
「あるだろう!!」
「そうですか? でも、兄上が言ったじゃありませんか。『世継ぎを産めぬ男が、東宮を決めずにいつまでも帝の地位についてなどいたら国が滅びるだろう。これは、この国の将来を思ってのことだ。何も間違いはない。お前は、俺と違って女も抱けるのだろう? 朝彦ほどまでとは言わないが、俺より確実に帝の血筋を残せるじゃないか』と」
一言一句違わずに、希彦は晴彦が半年前に言ったことをそのまま言った。
「私を東宮に……と、推していたのは兄上だ。それに、可哀想ではないですか。兄上が何度も足繁く桔梗殿の部屋に通おうと、相手をしているのは弟の光で、桔梗殿はこの部屋でお一人……だなんて」
「それは……っ! では、別の男をあてがってやればいいだけの話だろう!? なぜお前が、その相手をしている」
晴彦がそう叫ぶように言い放つと、希彦はまったく悪びれもせず、にやにやと笑いながら、立ち上がり晴彦に近づいた。
乱れた衣服の隙間から希彦の程よくついた筋肉が美しい、滑らかな肌が覗く。
晴彦は思わず喉を鳴らした。
「ふふふっ……兄上、ご自分が何を言っているか、本当にわかっていますか?」
「何を……? お前こそ何を言っている」
「別の男をあてがってやればいいだけの話、だなんて、まるで先の皇太后のようなことを言う。発想が同じだ」
「……っ!」
そこで初めて、自分が怒りに任せて何を口にしたか自覚する。
出征の秘密を知り、なんて恐ろしいことをするのだと口には出さずとも侮蔑していた紫苑や先の皇太后たちと何も変わらない。
「桔梗殿の立場を考えました? 正室に選ばれたとて、最初の数年はそれでいいでしょう。けれど、こんなに頻繁にお通いになっているのに、懐妊の兆しさえなければ、怪しまれます。母にはなれない身体なのかと。もしそうなれば、最悪の場合、桔梗殿は廃位されてしまう。そうなったら、兄上は愛しい光の腕に抱かれることも叶わなくなってしまう」
「愛しい……光?」
本当に愛しく思っているのは希彦だと、わかっているはずなのに、希彦はあえて光の名前を出した。
その上で、希彦は晴彦の腰に腕を回しながら続ける。
明らかにわざとだ。
「それに、まったく帝の血筋が入っていない男をあてがって、もし桔梗殿が皇子を産んだらどうするのです? それこそ、帝の血筋はいつの間にか偽物とすり替わり、途絶えてしまいますよ? 私が相手をするのが得策でしょう? これでも、一応、私は朝彦の子種から生まれているのですからね」
晴彦が逃げないように、そう言って、ぐっと晴彦を体を引き寄せた。
わざと、腰のものが当たるように押し付ける。
「残念ながら、帝である兄上に琥珀の忌子で、その上、男である私がその望みを叶えることはできません」
希彦の顔が近い。
「どんなに兄上が望もうと、本当は私に抱かれたいと声を上げようと、それは絶対に、無理です」
どうしようもなく惹かれてしまう、猫のような大きな目に、情けない顔をしている自分が映っている。
「私はね、兄上————」
本物の希彦の声が、耳元で囁く。
「あなたと同じ顔をした昌彦に、無理やり犯された、あの最低の記憶が、こうして生まれ変わっても、頭から離れないのですよ」
けれど、それは、今まで一度も聞いたことのない、
「したくもない男装までして、女として見られないように努力してきたのに……無理やり私の股を割いたあの男がね」
ひどく冷たい声だった。




