化物(一)
「私の話を、すぐに信じられないとは思います。でも、あの男は確かに私に言いました」
撫子は、紅玉領で起きた出来事を手短に説明し、希彦から口止めされていたことを晴彦に告げた。
多少、紅玉領で自分の母親がやらかしたことは隠して————ではあるが。
とにかく、今までずっと、その物の怪が誰なのかわからず、そして、物の怪が妃候補の姫たちの中にいるということが恐ろしくて、生きた心地がしなかったのだと。
「ずっと警戒しておりました。せめて身を守るために、魔除けの効果があるという香を身にまとっておりましたが……あなた様がこの香の匂いを嫌がっていたのはわかっていました。今もご不快でしょうが、これにもそういう理由があるのです」
「魔除け……?」
「人に紛れることができる物の怪だなんて、何をするかわからず、怖かったのです。また、私は希彦から物の怪が誰だかわかっても、黙っているようにと脅されていました。ですが、私は今日、ここを去りますから……もういいのです。それに、もし、正室にその物の怪が選ばれてしまっては、大変なことになります。ですから、あなた様にどうしても、このことを告げに来たのです。どうか、どうか、お気をつけください……と」
晴彦はにわかに撫子の話を信じられなかった。
希彦が物の怪だなんて、そんな化物を妃選びに混ぜる理由がわからない。
希彦と撫子のどちらを信じるかと問われれば、当然希彦だ。
撫子とはこの半年ほどの付き合いしかない。
「は、話はだいたいわかった……が、希彦がそんなことをする理由がわからない。それに、お前はどうしてそんなところに隠れていたんだ? 警備の者がいただろう?」
「……ああ、やはり、この部屋の存在を、あなた様はまだご存知なかったのですね。先帝————朝彦様がお亡くなりになった際、何があったのか詳しく聞いていないのですか?」
撫子の言う通り、朝彦がどうして死んだのか、詳しいことを晴彦は聞いていない。
事故か他殺か、それだけわかれば十分だったからだ。
朝彦が死んだと聞いた時は驚いたが、いずれこうなるだろうとは予想できていたし、帝になるための準備の方が忙しく、詳細を知ろうともしなかった。
「この抜け道を見つけたのは、桔梗と希彦です。私は事件の調査をしていた二人が、私の部屋の隣にある隠し部屋から姿を現して……地下の隧道のことを知りました」
撫子は、誰が物の怪かわからないままでは怖くて気が狂いそうだったため、勇気を出してこの隧道を夜な夜な一人で駆け回り、どこへつながっているのかほぼ全ての出入り口を調べ、図面に起こし、密かに他の姫たちの様子を伺っていたのだという。
「あなた様が桔梗の部屋で男と戯れている間、桔梗が何をしているか、ご存知ですか?」
「は……?」
そんなことまで知っていたのかと、晴彦は唖然とする。
撫子はすべて知っていて、これまでずっと黙っていたのだ。
秘密を知られていたことで、撫子のいうことに信憑性が増してくる。
「桔梗が……何をしていると?」
「やはり、それもご存知ないのですね。……それでは、私の口で言うより、実際にその目で確かめた方がよろしいかと。あなた様が見ていないところで、あの女は……私は、この事実を知って確信いたしました。きっと、桔梗こそが物の怪に違いありません。人が亡くなった部屋で、あのようなことができるなんて、どうかしています」
一体何をしているのか訊ねたが、撫子は言葉を濁した。口に出すより、実際に見た方がいいと。
「今夜でも、明日でも構いません。どうか、事前に御渡りになられることを桔梗に予告して、誰にも知られずにこの隧道を使い、その時間に西の棟へ行ってください。そすれば、きっと、すぐにあなた様が騙されていたことがわかるはずです」
そう言って、撫子は晴彦に自分が書いた隧道の地図を渡すと、酒瓶が並んだ秘密の小部屋の床下へ消えて行った。
こんなところに、本当に地下へ続く扉があったことに晴彦は驚きつつ、今まで朝彦がどうやって外へ出ているのか疑問だった理由に納得がいく。
何度も何度も、ここから抜け出しては数々の女に手を出していたのだと。
本当に、最低な父上だったと、呆れるしかない。
————桔梗が、物の怪? いや、そんなわけ……それなら、光はなんだ? 双子の弟の光も人間ではない、化物だというのか? まさか、そんなわけがない。
あれだけ自分に尽くしてくれる光が化物だなんて信じられない。
何より、希彦が物の怪を混ぜた張本人だというのが、納得いかない。
そんなことをして、一体何になるのか……あの愛しい弟が、兄と慕っている晴彦の身に危険が及ぶようなことをするはずがないと。
しかし、撫子の残り香が、晴彦の胸を騒つかせる。
————信じられない。撫子の話なんて、信じられない。
だからこそ、そんなものは嘘だということを証明したくて、晴彦はその日の昼間のうちに、今夜も西の棟へ行くと烏丸に伝えた。
すぐに烏丸が桔梗側に連絡をし、「今日は早めに準備を済ませておくように」と、言伝までしておいた。
そうして、また夜が来る。
晴彦はわざと予告した時間より少し遅い時間になるのを清流殿でじっと待ってから、一人で提灯を片手に地下の隧道を走った。
地図の通りに、西の棟へ続く出口の扉を開ける。小部屋の扉をそっと開けると、ここ数日何度も通っていた西の棟の廊下の壁に出る。
ちょうど、桔梗の部屋に粟乃が入っていくところを晴彦は見た。
「————主上はまだお越しになられないのか?」
「ええ、今、清流殿の方に使いを出しています」
桔梗の部屋から、光と粟乃の声が聞こえた。
すでに光は部屋で晴彦が来るのを待ちわびている。
では、蘭子の部屋に桔梗は移動しているはずだと、晴彦はそっと、蘭子の部屋の襖を開けた。
隙間から部屋を覗くと、行灯の明かりが一つだけついている。
その前に布団がひと組敷かれ、ほぼ何も身に纏っていない桔梗が誰かの上に跨っているのが見えた。
その誰かの顔を見た瞬間、忘れることにしていたあの夢が頭をよぎる。
「……晴彦は遅れているようだな。珍しい」
「たまにはそんな日もあるでしょう。それより、先日の私との約束は、どうされたのです?」
「そう急かすな……まったく、さすが双子と言うべきか。普段は澄ました顔で男には興味がないような顔をしているくせに」
「ええ、男になんて、興味はありませんでしたよ。こんなことは、とても下品な行為だと。でも、私をこんな風に変えたのは、希彦様ですよ」
————希彦……?
あの夢は、呪いだったのではない。
予知夢だったのだ。
化物に、誰より大切な希彦が奪われる。
こうなることを、警告していたのだと、晴彦は悟った。




