禁忌(二)
希彦とは、忌子が生まれる一族の一人である。
忌子の一族らしく猫のような大きな目を持ち、上背がなければ女と間違われるほどの美しい容姿を持つ少年だ。
晴彦とは二つ違いで、表向きは陰陽師であるが、現在、本物であるのは彼だけだと言われている。
「晴彦、あなたが希彦を実の弟のように思っているのは知っています。けれど、血筋でもない者を東宮だなんて……今すぐに東宮を決めずとも、あなたはまだ婚姻もしていないほど若いのですから」
晴彦はまだ十六歳だ。
一年後の妃選びが終了すれば、新しく中宮となる姫との間にいくらでも皇子が生まれるに違いない。
それに、もし生まれなかったとしても、歳の離れた弟が二人いる。
母親は違えど、間違いなく帝の血を引いた弟だ。
どうしても東宮を決めなければならないというなら、その弟のどちらかを立てるのは通例である。
「それでは、国が滅びてしまいます。母上もわかっているでしょう? 俺が女を抱けぬ体であることを」
「いいえ! そんなことはありません!!」
紫苑は、晴彦がどんなに訴えようと、それを認めることはない。認めるわけにはいかないのだ。
「あなたはまだ若い。女を知らないだけなのです。女を抱けぬ男が、この世に存在するものですか! 騙されているのですよ!! あの男に、希彦に何か言われたのですか!?」
「希彦は関係ありません! 無理なものは、無理なのです」
女好きで有名である父・朝彦とは違い、晴彦は女が苦手であった。
それも、嫌悪感を抱くほどに。
ただでさせ、朝彦とは全く似ていない自分の容姿に劣等感があり、その上、女というものが近くにいることに耐えられない。
白粉の匂いで気分が悪くなり、声を聞いただけで全身の毛が逆立つような悪寒がする。
近くに寄られるだけで、鼓動が異常に早くなり、呼吸の仕方がわからなくなることもあった。
母親である紫苑とも、ある程度距離をおかなければ、まともに話すことも難しいのだ。
目を合わせて、淀みなく会話ができているこの状況からも、晴彦の決意の固さは明らかだった。
「女を抱けぬというのなら、愛さなくていい。ただのモノだと思いなさい」
「そういう問題ではないのです」
「では、男の穴だと思えば良いではないですか! 直視することができないなら、目隠しでも何でもすればいいわ!」
紫苑は声を荒げて、叫ぶように言ったが、すぐに自分が何を言ったか気づいて、口元を手で覆い隠す。
希彦を東宮にしろだなんて、ありえないという思いから、つい、口走ってしまった。
「本気で、言っているのですか? 私に、母上と同じことをしろと?」
「…………いえ、それは————……待って。同じこと? どういう意味です? 一体誰から、何を聞いたのですか?」
急に希彦を東宮にだなんて、おかしいと思っていた紫苑は、晴彦が誰かに何かを吹き込まれたのだと察した。
そうでなければ、一部の者しか知らない昔の話を、晴彦が知っているはずがない。
知っているからこそ、同じことだなんて言えるのだ。
「希彦が、言っておりました。忌子としての記憶が、少し戻ったと……俺と、父上が、本当は————」
「黙りなさい! それ以上は、口にすることは許しません!!」
過去を知るものは、全員死んだ。
紫苑が先代の忌子から学んだ呪術を使い、全員消した。
決して知られてはいけない、秘密だ。
皇太后はその秘密を墓場まで持っていくと口を噤んでいたが、痴呆にかかりうっかり口にした際、聞いていた女官も、下女も、護衛の男も全員殺した。
皇太后自身も、二度と口にしないようにと毒を飲んで自害している。
それを、その秘密を希彦が晴彦に告げただなんて、許せなかった。
「晴彦、あなたは少し頭を冷やして、もう一度よく考えなさい。この国の帝として、何をすべきか。頂に立つために、何を犠牲にするべきかを」
「母上! 俺は……!!」
「うるさい!!」
紫苑は踵を返し、晴彦の部屋から出て行った。これ以上、晴彦の話を聞きたくもない。
帝となる前に、母として祝いたかっただけであったのに、最悪の事態になった。
「あの詐欺師め……!! 私のことを覚えていないくせに、何が忌子だ。私は絶対、認めない」
代々の忌子の記憶は受け継がれる。
国を守るために重要なことや、忌子にとって大切な思い出が……確かに希彦は、忌子と同じ目を持っているかもしれない。
だが、紫苑のことは覚えていなかった。
紫苑がまだ幼い少女であった頃、共に過ごした紫苑にとってとても大切な思い出を、何一つ……そんな希彦が、本物の忌子であるとは到底思えない。
しかし、忌子がこの国においていかに重要な存在であるかを理解している紫苑は、新たに忌子が生まれるまで、希彦に対して何もできることがなかった。
希彦は詐欺師だとしても、忌子の血を引いた一族であることには変わりない。
どんなに憎かろうと、呪術で痛めつけることもできない。
忌子の血筋は、帝の血筋同様、決して途絶えさせるわけにはいかないのだ。
おそらく、将来生まれてくる希彦の娘か息子が本物の忌子だと紫苑は思っている。
その日が来るまで耐えるしかない。
自分が心から慕い、そして、裏切られても尚、愛してやまない忌子様が、再び「紫苑」と優しく名を呼んでくれるまで————
「はははっ、中宮の口から男の穴とは……」
一方、母子の会話を盗み聞きしていた希彦は、紫苑が去った後、笑い声をあげる。
晴彦は希彦が後ろに隠れている屏風の裏に、睨みつけるように鋭い視線を向けた。
「笑い事じゃないぞ、希彦。このままでは、本当に俺は……」
「叔父上は穴を使われたい方ですからねぇ、まったく、実の母親だというのに、あの方は何もわかっていませんね」
「そういうことを口に出していうな! はしたない」
「ふふふっ失礼しました。叔父上の反応が面白くてつい」
「希彦、お前なぁ。誰が聞いているかわからないんだ。俺を叔父上と呼ぶな」
屏風から顔を出し、にやにやと笑っている希彦に晴彦は呆れながらも、ついその顔の美しさにうっとりとしてしまいそうになる。
これはそうやって、人を揶揄って遊んでいるだけなのだとわかっていても、いつも絆されてしまう自分が情けない。
「そうでしたね、兄上。しかし、いくら何でも私を東宮にしようだなんて……兄上も大胆なことを言いますね」
「世継ぎを産めぬ男が、東宮を決めずにいつまでも帝の地位についてなどいたら国が滅びるだろう。これは、この国の将来を思ってのことだ。何も間違いはない。お前は、俺と違って女も抱けるのだろう? 朝彦ほどまでとは言わないが、俺より確実に帝の血筋を残せるじゃないか」
お前も朝彦の実子なのだから、と、晴彦は付け加えようとしたが、希彦は晴彦の唇に人差し指を押し当て、止める。
「誰が聞いているかわからないと言ったのは、兄上の方ですよ?」
「……っ!」
小首を傾げ、いたずらな表情で笑う希彦の顔が近く、晴彦の心臓が一気に跳ね上がる。
その猫のような大きな瞳に、思わず吸い込まれそうになる。
湧き上がる欲望を抑え込むのに、晴彦は必死だった。
晴彦と希彦は、それぞれ帝の血筋と忌子の血筋の末裔であるが、実のところは先帝・昌彦と、その息子であり先日崩御した朝彦の親子が禁忌を犯した果てに生まれた、叔父と甥である。




