迷宮(四)
「粟乃、この光る酒はあとどのくらい残っている?」
「え、えーと、いただいたのはこの徳利に入っている分だけですが……そんなにお気に召したのですか? さすが、希少なお酒なだけありますね、姫様の舌を唸らせるとは」
「違う、そういう意味じゃない」
もし、桔梗の仮説が正なら、何か普段の食事とは違うものを口にしたことになる。
光る酒を好んで飲んでいたなら、普段の食事で食べられているようなものではない。
珍しいもの————と、考え、桔梗の脳裏に中宮に渡されたあの小瓶がよぎった。
「姫様?」
桔梗はすっくと立ち上がると、気味悪がって棚の奥に隠しておいたその小瓶を取り出す。
「この中身は、いったい何でできているんだろうか」
中宮の話では、これを酒や茶に混ぜて飲ませれば子ができやすい呪術がかかっているという。
蘭子が帝を東宮と勘違いしていたなら、中宮が言った通り、酒か茶に混ぜたはず。
蘭子の部屋から毒が見つかっていないのは、それが単体であれば毒にはならないものだったのではないかと思った。
桔梗は呪術を信じているわけではない。
ただ、妊娠がしやすくなる薬のような、何か効能があるものでできているのではないかと考えたのだ。
「中宮様に直接聞いた方がいいのかもしれないけれど……そうなると、もし思い違いであった場合、中宮様を疑ったということになりかねないよな」
薬や毒に詳しい医師などが近くにいればいいが、まだ宮中のことを把握しきれていない。
一度、瑠璃領の信頼のおける医師に聞いてみようか、と桔梗が言いかけたところで、藤豆が何か思いついたようにぽんっと両の手を打った。
「そういえば、翡翠領の女房が薬草に詳しいですよ! 聞いてみたらどうでしょう?」
「翡翠領の……?」
藤豆は女童だった頃、同じように他領の妃候補の女房になる予定だった女童と交流があった。
期間はそれぞれ違うが、裳着の前にそれぞれの領地出身の女御や更衣の元で宮中の仕事や仕来りを学ぶ習慣がある。
その際、出会ったのが翡翠領の蓬という女童だった。
「なんでも、蓬が仕えている姫様は幼い頃は病気がちだったようで、蓬の父上が専属の医師だったそうです。それで、蓬も薬や毒には詳しくなったようで……」
桔梗と藤豆は夕食を取らずに、翡翠領の姫たちがいる隣の棟へ向かった。
中宮から渡されたということは伏せて、藤豆が蓬に小瓶を見せる。
「これはまた、珍しい色の液体ですね」
蓬が仕えている姫・花梨は、なぞの液体を興味深く見つめる。
自分の体が弱いということもあり、花梨自身も、薬や健康ついての知識は他の妃候補の誰よりも詳しいのである。もともと、翡翠領は医学————とくに美容に関する医学が進んでいる領地だ。
毎日の食事で、体の内側から綺麗になろうという風潮がこのところあるようで、化粧をあまりせずともいつまでも若々しい美しい肌を保っている女人が多い。
「この色になるもので、尚且つ、子ができやすいような効能があるものであれば、わたしが知っているのは一つです」
「なんだ?」
「人魚の鱗です」
蓬の発言に、桔梗は自分の耳を疑うしかなかった。
人魚だなんて、そんなものは空想上の生き物。
それこそ、海の物の怪だ。
蓬は桔梗が眉間にぐっとしわを寄せたのを見て、慌てて補足する。
「あ、その……本物の人魚というわけじゃないですよ? あくまで、そう呼ばれている植物の話です」
「蓬、詳しく話してさしあげて。というか、わたくしも聞きたいわ。なんなの、それは」
花梨も初めて聞いたその植物の話に興味があるようだった。
桔梗の顔がよほど怖かったのか、おそるおそる蓬は話をつづける。
「その、わたしも実物を見たことはないのですが、とても希少なもだと、父から聞いたことがあります。瑠璃領の北側……琥珀領に面した場所に、洞窟があって」
その洞窟の内部に生えている植物の葉が、まるで魚の鱗のように青く、日光を当てるときらきらと輝くので、人魚の鱗と呼ばれ、それが取れる洞窟は『瑠璃の洞窟』と呼ばれていたらしい。
昔はよく採取されていたが、現在はその洞窟までの道が大地震による崖崩れなどで通れなくなってしまっていて、今では手に入れるのがとても難しい代物だ。
瑠璃領に住んでいたというのに、桔梗も藤豆もそんな話は初めて聞いた。
それもそのはずで、瑠璃の洞窟へ続く道が分断されるきっかけとなった大地震が起きたのは桔梗が生まれる前の話だからだ。
その人魚の鱗を採取して売っていた商人が何人も被災して亡くなっているということもあり、当時は、本当に人魚があの洞窟にいて、その祟りではないかと噂が広まった。
それ以来瑠璃領では瑠璃の洞窟の話は禁止されているのだ。
「男性がそれを口にすると、媚薬のような効果をもたらして、さらに子ができやすくなるといわれています」
何が呪術だと、心の中でそう悪態をつきつつ桔梗は蓬に訊ねる。
「では、この人魚の鱗とともに口にしてはいけないものはあるだろうか? 例えば、酒————とか」
蓬は顎に手を当て、考えを巡らす。
「お酒ですか? そうですね……酒と合わさることで、効能がより強くなるとは聞いたことがありますが————あ、でも」
そして、徳利に残っていた光る酒を空の盃に注ぎ、
「このお酒に使われている琥珀水と合わせるのは危険かもしれません。ちょっとこのまま見ていてください」
小瓶の液体を数滴、その中に落とした。
すると数分後、光る酒にぶくぶくと大きな泡ができて、盃のからその泡が溢れる。
「数滴ならば問題ないですが、大量に摂取して、これが腹の中で起こったら、息ができずに死んでしまうでしょうね」




