傷心(一)
母はもう、一人では起き上がることも出来ないのではなかったのだろうか。
ずっと、梓や他の世話をしていた下女たちに体を支えられていたじゃないか。
目も今ではほとんど見えていないはずじゃないか。
それなのに、今、確実に目があった。
それも、人形を大事そうに両手で掴んだまま、虚ろだったはずの目を大きく見開いて……布団の上に座ったまま、動かない。
「な、撫子……? ち、違うの、これは……!!」
母は、慌てて人形を脚に掛けていた布団の中に隠そうとした。
けれど、もう遅い。
見てしまった。
見てしまった。
人形を持っている。
「待って! 待って! お願いよ!」
私は掛け布団を引っ剥がして、母から人形を奪い取った。
「…………」
それは希彦が持っていた人形と同じものだった。
体は人間で、頭は猫。
その目には、紅玉がはめ込まれている。
「どういうこと……? 母上、これは、どういうことですか!?」
自分でも驚くほど、大きな声が出た。
耳がキンとする。
ふざけるな。
関係ないって、呪詛なんてかけてないって、そう、言ったじゃないか。
「どうして、この人形を持っているのですか? それに、目だって……————」
明らかに動揺している母は、私の脚にしがみついて、「違うの! 違うのよ! 許して」と、泣き喚いて、人形を奪い返そうと必死になっている。
母の行動にも驚いたが、何よりその力が強い。
こんな元気が、あの母にまだ残っていたなんて、想像もしていなかった。
「病気ではなかったのですか!? もう、余命もわずかなんじゃ、なかったんですか!? みんなを……私を騙していたんですか!?」
おかしい。
絶対におかしい。
もう直ぐ死ぬ人間の力じゃない。
どこからどこまで、一体何が嘘で、何が本当だったのかわからない。
「違うの、その、わたくしは……撫子、ねぇ、聞いて!」
母は涙ながらに何度も首を振った。もう何も信じられない。
「父上に確かめます! 手を離して!」
「だめよ!! それだけは、それだけは勘弁して」
「うるさい!!」
私の脚にしがみつく母を、私は力任せに蹴り飛ばした。
痩せていた母の体は、反対側の御簾にぶつかって、天井から吊るされていた御簾が床に落ちる。
私はその時初めて、御簾の後ろ側の壁をはっきりと見た。
臭いがきつくて、決して離れの奥まで入ることはなかった。
だから、知らなかった。
そこに、観音開きの扉があることを。
ずっと、この屋敷で暮らしていて、初めて見た。
そして、なぜだかわからないけれど、その扉を開けなくてはならないと思った。
「待って! やめて……!! 撫子……!!」
母が喚いていたが、そんなことは気にせず、取っ手に手をかける。
祭壇だ。
檜で作られた祭壇の真ん中に、しめ縄が巻かれた紅玉が置かれていた。
それも、叔父の屋敷で見たものとそっくりな形をした、紅玉だった。
「どうして、これが、こんなところに……」
手を伸ばして、向きを変えると、叔父の屋敷にあった紅玉とは違って、切り出されている箇所は二つしかない。
母が先の妃選びの際に持って行ったといわれている部分と、その少し下の部分だ。
それ以外は、切り出されたような形跡は一切残っていなかった。
「なんで……どうして……?」
母の方に視線を移すと、もうこれ以上隠しきれないと思ったのか、悪びれる様子もなく、開き直ったかのような表情をしていた。
「どうしたも、こうしたも、これが全てよ。わたくしがやったの。あの女を、呪い殺そうと思ってね」
そこへ、慌てた様子で梓が入ってくる。
「奥様、これは一体……!」
「いいのよ梓。もう、全部見られてしまったわ。話しましょう。何もかも。撫子は私の娘ですもの、きっと、わかってくれるわ。ねぇ、そうでしょう?」
母はそう言って、笑ったのだ。
痘痕だらけの醜い顔で、にっこりと。
「全部、あなたのためにやったのよ。あの女から、あなたを守るために」
「私を、守る……?」
「あの女がいる限り、あなたに危険が及ぶわ。これは必要なことなのよ」
さっぱり意味がわからなかった。
母はずっと、何の話をしているのかわからない。
「あの子には……茜にはちょっと協力を頼んだだけなの。人形を結界の入れる必要があったから。きっと、あの子が焼け死んだのも、あの女のせいよ」
聞きたくない。
もう、それ以上、知りたくない。
人形だとか結界だとか、何を言っているのかわからない。
呪詛なんて恐ろしいことはしていないと、言った口で、どうして、そんなことが言えるのかわからない。
平気でそんな恐ろしいことを口にしないで欲しい。
母のしたことが、私のためを思ってしたことだと言うのなら、茜は、私のせいで死んだって、そう言うことじゃないか。
「いや、聞きたくない……! 母上、あなたは狂ってる、もう、それ以上はなないで————」
私は自分の耳を手で塞いだ。それでも、母は続ける。
「あの女のせいで、わたくしがどんな思いをしたか、撫子もよくわかっているでしょう? 全部、あの女が悪いのよ。わたくしの心を、弄んだあの女が!! わたくしは、心から愛していたの……」
* * *
東宮様の正室になること。
それは、わたくしがこの世に生まれ出た瞬間から、決まっていたことでした。
当時の当主家には、男児ばり生まれて、東宮・朝彦様と同じ年頃の貴族の娘は、わたくしともう数人しかいませんでしたし、その中でも、わたくしの家が一番父の位も高く、由緒正しい家でしたから、当然です。
わたくしは、東宮様の妃選びのために、生まれてからずっと育てられてきました。
紅玉領からは長らく、正室となられる姫が生まれておりませんでしたからね、わたくしは紅玉領中の期待を一身に背負って、妃選びに臨んだのです。
しかし、それは他領の姫たちも同じでした。
翡翠領からは、容姿は確かにそこそこ美しいですが、女というよりまだ少女といった感じの幼い面差しの咲子と萌子、瑠璃領からは、上背もありどこか中性的な顔つきをした紫苑と菖蒲が、毎日のように正室の座を巡って競い合っていました。
特に、最初の頃、朝彦様は翡翠領の姫を気に入った様子で、何度も咲子と萌子がいた部屋の方へ御渡りになることが多かったのです。
撫子も行けばわかるでしょうが、東宮殿の前に三棟の建物があり、妃選びの際は出身領のごとに部屋が分かれています。
どちらの姫をより気に入っていたのかは、わたくしにはわかりませんでしたが……
あなたも知っての通り、妃選びでは様々な試験を通して、その人となりを見られます。
いくら美しく着飾ろうと、ほんの少しの綻びを突かれて、一気に脱落してしまうこともある。
わたくしと紫苑は、その綻びをずっと待っていました。
すると案の定、咲子が他の殿方と通じているという噂が立ったのです。紫苑は、わたくしに言いました。
「私のかけた呪文が効いたのよ。そうに違いないわ」と。




