メアリー始動
カーテンを開けると、低く垂れこめた雲のふもとが、ほのかに光をなしていた。
夜明けだ。
メアリーは小さく肩を落とす。
ジェーンに殴られたはずだが、痛みはない。それどころか妙に体がスッキリしているのは、ニーナの手によるものだろう。
ジェーンが自分を出し抜くであろうことは予想していた。
ニーナがついて行くだろうことも。彼女は同じ穴の狢だ。
だからこそ、メアリー自身も手を打っていた。
昨日の服のまま、着替えていない。メアリーはポケットから自分用の石板を取り出した。
もう一度、窓の外を確認する。
陽は昇りつつあるのに、いつ泣き出すかわからない雲が、不穏に街を暗くしていた。
本来ならこんな時間に連絡を取るなんて非常識だ。
それでも、今は一刻を争う。それに従者なら起きているはず。
メアリーが石板に指を滑らせると、金色の魔法陣が浮かび上がった。
相手が反応したとわかって、すぐに告げる。
「わたくしはジェーン・マクファーレンお嬢様に仕える侍女のメアリーです。
早朝から申し訳ありません。ご主人様にご伝言をお願いできますか?」
相手の従者は「本来ならこんな時間に起こすことはない」と小言を告げつつも、取り次いでくれることになった。互いの主人の登下校時に顔を合わせたことのある知り合いだ。
主人がジェーンに寄せる恋心のことで悩まされているのは日常茶飯事なのだろう。
『ジェーンに何かあったのですか!?』
案の定、通信相手の主人――アルフレッド――は石板越しに唾が飛んで来そうな勢いでまくし立てた。
本来なら、こんな一介の侍女と直接話すことなどしない立場なのに。
「お恥ずかしながら、隙をつかれた瞬間に気絶させられ、逃げられました。
今ごろは西の島に上陸しているかと思われます。
ニーナさんが一緒のようなのですが、救出するにはどうしたものかと」
石板の向こうで、唸る声が聞こえた。
『私では、この領地では何もできない。
それに、あなたも聞いていただろう。あの島は他国扱いであると』
その返答に、メアリーは頭に血が上ると同時に、胸が冷めていく心地を覚えた。
「お嬢様を助ける気はないということですか」
あくまで淡々と、責めるふうではなく伝える。
『ち、違う、そうではない! ジェーンの身のことは、私だって――』
慌てるアルフレッドに対して、メアリーは細く長い息を吐きだす。
通信に乗らない程度の細い、細い息を。
「レイヴン様なら……」
ひゅっと、アルフレッドが息を呑む音が聞こえた。
「何をかなぐり捨ててでも、ジェーンお嬢様を助けに向かうと思いますが」
『…………』
長い逡巡。
『少し待っていてくれ。この石板はどう使うんだ?』
「昨日、従者の方にお渡ししたさいに、説明差し上げました」
『では、後ほど連絡をする』
「あまり時間が経つと――」
『わかっている!』
ふっと石板の光が消えた。
数秒のあいだそれを見つめたあと、メアリーはぎゅっと握り締めて額に押し当てた。
いつだって公平で、曲がったことが嫌いで、納得できないことには真っ向から立ち向かい、そして〝友達〟だと言ってくれたジェーン。大切な主人が、危険に晒されている。
居ても立っても居られない。また窓の外を眺めた。
ここからでは山の奥地にある島は見えない。
街を覆う鈍色の雲が、胸に圧迫感を募らせていく。
涼やかな音色とともに、石板が淡い金色の光を放った。
十五分も経っていない。思ったよりも早かった。
『やあ、メアリー嬢。どうやら君は私の命令を反故にしてくれたようだね』
セドリックの声音に、喉が詰まった。
まさか、王子が直々に出てくるなんて予想だにしなかった。
直接の会話が許される身分ではない。
「……申し訳ございません」
『一つ忠告しておこう。私もジェーンは気に入っている。
しかし一人の娘のために、政は動かせない』
「…………」
『だが、大義名分を掲げればいい』
「と、仰いますと?」
冷たい緊張が心臓をわしづかみにする。
『〈真の聖女〉が捕えれられたとすればいい』
「つまり、それは……」
『ジェーンを〈真の聖女〉として祀り上げるのだ。
資格は十分に持っていると、私は判断する』
石板の向こうで、ざわついた気配がした。
アルフレッドが何か言おうとしているのだろう。
「お嬢様は……」
『彼女は望まないだろうな。そういう性格なのは承知している。
だが、そうでもしない限り、騎士団への命令は下せない。
何より、君の意見など求めていない。
こうして通達しているのも、せめてもの温情と思うことだな」
「…………」
すぐには反論の言葉が見つからなかった。
言葉の通りだ。
ただの庶民に、何が言える。王族と接触しているこの状況も異常事態だ。
それでも、伸び伸びとしたジェーンを、国の管轄下に置かせるなんて、感情が追い付かない。
こんなとき、主人のジェーンならなんと言うだろうか。
メアリーは唇を引き結ぶと、おそるおそる震える口を開いた。声音だけは、しっかりと。
「セドリック殿下、畏れながらお聞きしたいことがございます」
『なんだ』
「あの島は、この国ではない、捨てたと仰っていましたよね」
『そうだ。あそこは他国といっていい。だからこそ――』
「では、島が焼け野原になろうと、消失しようと、この国にとっては関係ありませんね」
『……何を言っているんだい?』
拍子抜けした声が返ってきた。
「どうなろうと、関係ありませんよね?」
『…………従者というのは、主人に似るものなのかね。
君たちはとんでもないことを考えるな』
「『この国には関係ない』と仰っていただければ結構です」
『生意気なところもそっくりだ』
「わたくしの首など、どうなろうと構わないのですよ」
(お嬢様を助けるためなら)
『あぁ、確かに我が国には関係ない。
だが、それがどうしたというのだ?』
「あのくらいの島、わたくしの力であれば殲滅できます。
なので、殿下やアルフレッド様には頼りません。
早朝から貴重なお時間を賜り、誠に恐悦至極にございました」
ざわつく気配がするものの、メアリーは構わずに通信を切った。
すぅっと光が引いていく。
ふと、雇い主の子息レイヴンの様子が脳裏によぎる。
『ジェーンはいつになったら連絡をくれるんだい!?
あの男と仲良くなったりしてないよね?
いや、それよりも、変な男に付きまとわれてたりしないよね?』
いつもそんな連絡を入れてくる。
変な男。
アルフレッドもそうだが、王族のセドリックに気に入られているなんて、とてもじゃないが言えることではない。
『いつも元気にしておられますよ、ご安心ください』
そう返すのが通例だ。
だけど、ジェーンを取り戻せなければ、あの幼いレイヴンも悲しませることになる。
ジェーンだって、いつも気にかけているのは故郷の人たち。
レイヴンのことも大切に思っているのは、メアリーだってわかっている。
そこに恋愛感情がないとしても。
「とにかく、行くしかないわね」
敬語の抜け落ちた言葉でつぶやき、メアリーは窓を開け放つ。
いつ天候が変わるかもわからない空に向かって、高く舞い上がった。




