遺体か生贄か
岸辺につき、目標物に向かって、再度水の中に身を投じる。
鼻からコポコポと気泡が抜けていく。息は持つだろうか。
澄んだ水中の奥深く、辿り着いた。
指先に小刀を出現させ、重石と共に沈められた縄と切る。
まだ弾力のあるそれを抱ええて、ジェーンは一気に水上へと浮上した。
「ハァッ、ハァ……」
ジェーンが水中から回収したそれを地面に引き上げると、対岸から、恐々とした悲鳴が上がる。
騎士団が来るまで、パニックにならずに済めばいいけれど。
頭の片隅でそんなことを思いながら、ジェーンはそれ――遺体――を仰向けに寝かせた。
体に残った縄を、ほどいていく。
若い女の子。
歳の頃は、十代前半から半ば。ジェーンと同じくらい。
腐敗具合からすると、亡くなってから、そう長く放置されていたわけではなさそうだ。
「あなたは誰なの……。どうしてこんなことに」
彼女の青白い頬に手を当て、ジェーンは顔を歪ませた。
そのときだった。
パンッ――
足元で何かが弾けた。
拳銃……なわけがない。
こちらの島、森の中からだ。
ジェーンは振り向き様に身構える。
肌が泡立ち、心臓が跳ねるのを感じた。
気配だ。
森の中から、幾人もの人間の気配がジェーンに向かってきていた。
「狙われている」
こちらは丸腰、遮蔽物もない。
撤退しなくては。
遺体を担ごうと身を翻した瞬間、背中をドンッと打たれた。
何の……攻撃……。
体が浮いたかと思うと、バシャンと体が水に叩きつけられる。
――カハッ!
衝撃のせいで、体がうまくコントロールできない。
上下がわからないまま、息だけが苦しい。
(なに、今回も、こんな退場なわけ……)
遠のく意識のなか、ジェーンは妙に冷静にそんなことを考えた。
故郷に残した顔が浮かぶ。両親、ノーサム伯爵夫妻……かわいいレイヴン。
汚名を晴らせないまま、逝ってしまう自分が、悔しい。ごめんなさい。
メアリーとの約束も守れなかった。
瞼が落ちる。
(また、どこかで、今度は後悔のないよう、生きられるといいな……)
そう祈ると、瞼越しにほんのりとした光が現われ、光度を増していく。
身体がふわふわとした何かに包まれ、呼吸も楽になる。
最期って、案外悪くないのかもしれない……。
「お嬢様、西の湖畔には近づかないよう、申し上げましたよね」
淡々とした、聞き慣れた声。
急激に意識が浮上する。
気づくと、メアリーの顔が眼前にあった。
「へ?」
「立てますか?」
目の前の光景が理解できない。
震える手で、ペタペタとメアリーの顔を触ってしまう。
本人はうっとうしそうに、ほんのわずかに眉を寄せた。
本物。本物だ……。
「なんで、なんでメアリーがここにいるの。
私、死んだんじゃ……?」
「死んでません。
今、こうしてずぶ濡れのお嬢様を抱えているのは誰だとお思いですか?」
「メアリー!!」
ガバリと抱きついた。
「ごめんね。約束破ってごめんなさい。
よかった、まだやり直せる」
胸に熱いものが込み上げてきた。
耳元を、メアリーのため息が掠める。
生きてる。
ちゃんと生きてた。
「改めてお聞きしますが、立てますか?」
「うん。ごめん、メアリーもびしょ濡れに……。
って、なんでここにいるの?
今、何が起こったの?」
「大変僭越ながら、お嬢様が何もしないとは思わなかったため、あとをついて参りました。
私の雇用主はノーサム伯爵です。
任務はお嬢様のお世話をして、無事を守ること。
お嬢様に何かあれば……特にレイヴン様に怒られてしまいます」
やっぱり理解が追いつかない。
「待って。私たち馬車で来たのよ。トンネルは?」
「……やりようはあります」
はぐらかした。
それでも助かったから、追求はあとだ。
「ねえメアリー、あの遺体を持って帰りたいの」
ジェーンが指差すと、メアリーは「正気か?」と言いたげにまじまじと見つめてきた。
「本気よ」
低い声で、短く告げる。
メアリーは諦めたように手首を返した。
途端に向こう岸に放置された遺体が宙に浮いた。
「……何やってるの、それ」
突飛な光景に、声から感情が抜け落ちる。
「いろいろな魔力の応用です。
クラーク領側に下ろせばいいですか?」
とりあえず、ぶんぶんと首を縦に振った。
その瞬間、対岸から強いエネルギーが向かってくるのを感じた。
メアリーがもう片方の手を翻し、防護壁を作る。
一斉射撃。
すべてが防護壁に当たり、メリメリと音を立てて砕けた。
「なんなの、いったい……」
「西の悪魔でしょうね」
メアリーは遺体を対岸に下ろし、大きく腕を横に振り払った。
森が、木が、土煙を上げて轟音とともに崩れていく。
なんという威力だ。
ものすごい使い手だとは聞いていたが、目の前の光景が現実とは思えなかった。
戦車、爆撃機……ミサイル。
くらくらした気分になりながらも、自分を捉えて離さない殺気に、気が抜けない。
土煙の中で、影が動いた。
「聖なるご神体をどこへ持っていく」
しわがれた声を張り上げる、小さな老婆だった。
顔以外をすっぽりと覆うローブに長い杖。顔と首の境目がなく、酷く背中が曲がっている。
「聖なる、ご神体……?」
「我らの土地を汚す冒涜者め」
「あなたが――」
ジェーンは倒された木々から姿を見せる人影を一瞥した。
「あなたたちが、彼女を殺したの」
「殺したぁ?」
「重石をつけて湖に沈めたんでしょ」
「ハンッ何を言う。聖なる母体として選ばれし者を返せ」
「……まさか、生贄?」
「我が一族に災厄を招く愚か者よ、早く母体を返すのだ!」
話が通じない。
老婆が杖をジェーンたちに向けると、一斉射撃――
もとい、魔法の一斉放射が迫ってきた。
メアリーがすべて防いでくれるが、これでは埒が明かない。
「メアリー、いったん引ける?」
「えぇ。撤退したほうがいいでしょう」
片手を正面に向けたまま、メアリーは片腕をぐいとジェーンの腰に回した。
「うわ、わわわわ!」
内臓がひゅんと重力の圧を受けたかと思うと、体が宙に浮く。
「いったい、どうなってるのよぉー!」
「誠に恐縮ながら、一般の方に私の魔法は理解できないようです」
天才だ。まごうことなき天才の発言だ。
魔法で空が飛べるなんて、そんなの反則技ではないか。
一瞬で元の岸辺に辿り着いた。
メアリーはジェーンを下ろすと、ニーナが出現させた橋の元へと歩みより、手をかざした。
「なかなかいいですね」
感心したように呟きながらも、音もなく橋を消し去った。
対岸の老婆たちを見やる。こちらを睨みながらも、杖は下ろしていた。
崩れた木々のあいまには人影が……十人、では収まらない。
二十か、もっといるかもしれない。
ローブ姿だが、そのシルエットは女性のように見えた。
二十メートル。
もし攻撃の手が飛んで来たら生徒たちが巻き添えを食う。
「教員の方はいらっしゃいますか?
この場は避難したほうがよいと思います」
「メアリーさん、お久しぶりね」
引率の教員が、声を上擦らせながら歩み出た。
「ご無沙汰しております」
「状況がわからないの。一緒に来て、説明してもらえるかしら」
「もちろんです」
教員はその言葉を受けて、足早に生徒たちを山道へと向かわせた。
それを横目に見ながら、ジェーンは少女の遺体に駆け寄る。
ぽたり、ぽたりと、髪や服からしずくが落ちる。
おずおずと、だけど強い意志でメアリーを見つめる。
「この子のこと、搬送できる?」
「……お嬢様がおっしゃるなら」




