禁書1―アルフレッド―
「アルフレッド様、お話があります」
ジェーンがそう持ち出したのは朝の登校中のことだった。
アルフレッドはひゅっと息を呑んだ。だが、そのあとの話に、肩透かしを食らってしまう。
ジェーンは後ろを歩くメアリーを気にしながら、「例の本」と切り出したのだ。
「実はまだ読んでいないのです。自室では侍女がおりますから、彼女に何か嫌疑がかけられても……セドリック殿下に、ご相談できないでしょうか?」
自分はセドリックへの橋渡し役でしかないのか。
そう思いながらも、せっかくの申し出を断るつもりはなかった。
「わかりました。私から殿下に持ちかけてみます」
◇
「それなら私の部屋で読むといい。
私もジェーン嬢の見解には興味がある」
セドリックは嬉々として請け合った。
そうして、特別授業を終えたジェーンを女子寮の前で待つこととなる。
「お待たせしました。アルフレッド様!」
小走りに、赤い髪を揺らす彼女を見たときには、胸が早鐘を打つようだった。
紅色に火照った頬もなんとも愛らしい。
「すぐに例の本を取って参りますね」
止まることなく駆けていき、またすぐに戻ってきた。
侍女はいない。
初めての二人きりだ。
何を話したものかと思案していたら、呼吸が整わないうちに、ジェーンのほうから矢も楯もたまらぬといった具合に話し出した。
「ニーナさん、やっぱり嫌な目に遭っているみたいなんです」
ジェーンも詳細は聞いていないようだが、貴族と平民のよくある話のように思えた。
「それは、仕方ないのではないですか……」
「仕方ないですって!」
怒りを抑えることなく、キッと顔を上げてきた。
「嫌な思いをしている人がいる。それを仕方ないで済ますのですか!」
「しかし……」
「気分が悪くなりますわ」
フンッと正面に向き直ると、尻尾のように髪が揺れた。顔が隠れてしまって、何を思っているのか読み取れない。
いや、彼女の考えは、いつも想像を超えていくのだが……。
「……」
幻滅されてしまっただろうか。せっかく二人きりだというのに、口が重くなる。
一方で、ジェーンだってわかっていた。
(これじゃあ、八つ当たりだわ)
唇を尖らせ、ジェーンはぽつりと言った。
「家柄がなんだっていうのよ」
「……」
「人柄だったらあんな金髪縦ロールなんて、ニーナさんの足元にも及ばないじゃない」
独り言つように、苛立ちまじりに訥々と続ける。
だが、急にハッとしてアルフレッドを覗き込んだ。
「あ。し、失礼しました。公爵家の方のいるところで!
決してアルフレッド様のお家柄をとやかく言うとか、そういうつもりでは!」
慌てて取り繕う様は、いつもの気取らない彼女に戻っていた。
よかった、とアルフレッドは胸を撫で下ろす。
「いえ。気にしておりません。
私もきっと気に障ることを言ったのでしょう」
「そう……ですね……」
ジェーンは言葉を探すように空を見上げた。
陽が落ち始め、ほんのりと彼女の姿が遠くなる。
どこか淋しそうに、ここにはない何かを見つめるような眼差しに、胸がざわつく。
「ジェーン?」
衝動的に、引き留めなくてはならない気がした。
半分ほど落とした瞼、その瞳は虚空の中にある。
何を、考えているのだ。
「私はどうやら、変わり者のようです」
「……」
変わった娘だ。それは知っている。
だけど、彼女の意図することは、違う気がした。
何も理解できない自分がもどかしく、悔しい。
互いに言葉が出ないまま、男子寮の最上階に着いてしまった。現在はセドリック専用になっているフロア。
扉の前にいる護衛は、既知の顔だった。
すぐに入室を許可してもらい、長い廊下を進んでいく。
「やあ、ジェーン嬢、よく来てくれたね!
……おや? 二人とも何かあったのかい?」
出迎えたセドリックは、二人の気詰まりな様子に問いかける。
「陰湿な嫌がらせを目の当たりにして不機嫌なだけですわ」
「というと?」
彼女は半眼のまま、顔を上げようとしない。
「セドリック殿下が出ると余計面倒なことになりそうですけど、ひとつだけ申し上げるなら、身分を問わずに聖女として王宮で召し抱える制度がありながら、なぜ身分での隔たりがあるのかと問い質したいところですわね」
一息に捲くし立てた彼女は、フンッと鼻を鳴らした。
セドリックは「何があった?」と目顔で問いかけるも、アルフレッドには首を横に振るしかなかった。
「それより、禁書を少しでも読み進めたいのですけれど」
「そうだったね。
というわけでアルフレッド、君はここまでだ」
「……え?」
「アル、一度は君の同席も許したが、本来は見せてはならないから禁書なんだ。
ジェーン嬢も、それを気にして私に助けを求めたのだろう?」
「そうですね。情報が漏れたりしたら、私の周りにいる者に容疑がかけられますから。
何かあって罰せられるのは、私だけで充分です」
ずいぶんとアッサリ答えたものだ。自分など眼中にないことを、嫌でも見せつけられる。
「だが、二人きりというのは――」
「君だって二人きりでここまで来ただろう」
ニヤリと口角を上げるセドリックが、今は身分差があることも、親友であることも忘れ、ただ恨めしい。
肩に手を置かれ、さあ、と退室を促されてしまう。
「か、帰りは……」
「私の従者に送らせよう」
言うと、セドリックはアルフレッドの耳元に顔を寄せた。
「悪いようにはしない。安心しろ」
「……」
「さあ、帰った帰った」
背中を押され、歩いて来たばかりの廊下を、すごすごと引き返す。
『シロとわかれば、私の妃に迎えたいところだな』
先日の他愛のない会話が、反芻する。
セドリックが興味を持った女性などいただろうか。
それだけでない。親しい乳姉弟もいるという。
得も言われぬ焦燥感が、込み上げてくる。
それでも、重い扉が閉まる音を、背中で聞くほかなかった。




