1話 悪辣姫降臨
左手首に痛みが走った。何かが僕の手を掴んでぶら下げている。体重八十㎏の肥満体型のおっさんだぞ? 重量挙げのオリンピック選手か? とこわごわと目を開けると、真っ赤な瞳が眼前にあった。あまりの近さに心臓が跳ねる。
「ひぃ!?」
「ジュアル! 死ぬつもりではないな!」
凜として甲高い少女の声。僕は目の前の彼女を見つめた。長い黒髪の白雪のごとき肌。赤い瞳に尖った耳と角。誰のコスプレなんだろう。僕は、彼女をこれまで見た中で最も美しいと思った。ただ――僕はジュアルなんて名前ではない。毛利太一、氷河期世代のしがない契約社員。もちろん結婚どころか彼女が居たことさえない、絵に描いたような弱者男性だ。
「ファラーシャ様! ジュアル様はお熱を出しただけです」
メイドが悲鳴みたいな声を上げて、ファラーシャにしがみついた。どうやら僕はこの美少女に持ち上げられているらしい。嘘だ! 化物じゃないか!
それからファラーシャ、ってなんか何処かで聞いたような……?
「む、死なないのか?」
「はい。お薬も飲みましたしじきに良くなります」
メイドがそう言うと、ファラーシャはぱっと手を離した。ぽすんと倒れ込んだのはベッドか。
「よかった!」
急にファラーシャは叫ぶと、僕をぎゅうぎゅうと抱きしめた。痛い、折れる、骨が!
「魔王の子で同腹なのはお前だけ。お前だけが私の弟なのだぞ! 心配かけて……びっくりした」
僕が弟ってことは彼女は姉なのか。紅玉色の瞳には涙がにじんでいる。こんなおっさんを案じてくれるなんて……いや、ありえない。よく見ればここは一流ホテルみたいな部屋だし、メイドには獣耳がついている。
そしてさっきのファラーシャという名前……。
「あーっ!」
「どうした!?」
ファラーシャが心配そうにこちらを見ている。
「あっ……なんでもないです。僕ちょっと寝るから、またあとでね」
ファラーシャとメイドを部屋から追い出し、僕は頭をかかえた。これってもしかして。これってもしかして僕が読んでた底辺Web小説の世界じゃなかろうか。ファラーシャという少女はさっきまで読んでいたWeb小説のキャラクターだ。あれには弟がいるなんて書いてなかったけど……。目の前にいるファラーシャの外見は小説の記述と一致するし、黒いゴスロリ風のドレスは僕のイメージ通りだ。これはなんだ。夢か妄想か。いや、うっすら思い出してきたぞ。僕は休日の朝から酒飲みながらスマホでWeb小説を読んでいて、急に息が出来なくなって――。
「だとしたら僕は死んで、その直前に読んでいた小説の世界に生まれ変わったのか?」
僕はベッドから這い出すと、ベッド脇にある鏡を覗き込んだ。
「おお……ファンタスティック……!」
意味わからん呟きが僕の口から漏れた。紫の髪に、ファラーシャと同じ赤い瞳。耳も尖っているし、やはり角がある。そしてそして……なにより……!
「かんわいい!」
ふくふくとしたほっぺは大福のよう。大きな瞳は長い睫に縁取られ、ちんまりとした唇は赤く、ファラーシャによく似ていた。見た感じは十歳。とんでもない美ショタだ。栄光を約束された美ショタだ。嘘だろ、と頬をはたくしっかり痛い。こんなの……こんなの……。
「万歳!」
就職氷河期によって、平凡な大学生だった僕の人生は狂った。どこも正社員でなんて雇ってくれなくて、希望よりずっと小さな会社に契約社員で入った。そこも絵に描いたようなブラックで、逃げるようにして辞めた。以来、少しでもマシな職場を探して点々とし、仕事のスキルもノウハウも積み重ねることができなかった。
気がつけば髪は薄くなり、不摂生で腹はでっぷりとし、結婚なんか夢の夢のトドみたいな中年男になっていた。金もなく、無料のWebコンテンツを漁るのだけが楽しみだった。漫画や動画も良かったけど、僕がどっぷりとはまっていたのはWeb小説だ。仕事終わりに有名作から埋もれた作品まで、目に付いたものを読みながら、でかくて安い業務用ウィスキーの水割りを飲む。そんな毎日だった。
そこからの美ショタである。僕は歓喜のあまり、目眩を覚えた。この姿なら愛される。見たところ住んでいるところは裕福そうだし、僕はもう一度、今度こそまともに生きられる。
「ふふぅ……最高か……」
再び強く目がくらんだ。ああ……そうか……。
「ジュアル・イブリース……それが僕だ」
一旦自覚すると、次々と記憶が蘇ってきた。僕はジュアル・イブリース。……魔王の十四番目の子。歳は六十歳。人間ならおじいちゃんだが、そこは魔族。長命なのでまだまだ子供なのだ。成人するまであと五、六十年はある。
で、さっきのゴスロリ美少女はファラーシャ・イブリース。僕の姉だ。彼女の名前を覚えていたのは、彼女が僕が死ぬ直前まで読んでいたWeb小説の登場人物だったからだ。
「まずいな……よりにもよってファラーシャか」
王子としての約束された将来にさっそく影が。なぜなら、彼女はその小説では悪役だったのだ。それもポッと出の、主人公たちの強さをアピールするためにさっさと死ぬキャラクターだったのだ。だが、魔王の姫として美しく気高く、悪辣な言動は妙に描写に気合いが入っていて、僕は彼女が死んだ時ひどくがっかりした。今思えばあれだな。きっと書いてたら楽しくなっちゃったんだろうな。
「でも、そんなの許せない」
ファラーシャは姉なのだ。しかも数多くの兄弟の中でも同腹で、一緒に育ってきた。さっきの取り乱しように見たように、彼女も深く僕を愛してくれている。僕は彼女を死なせるわけにはいかない。
その為には……! ファラーシャの魔王になるという野望を諦めさせなくてはならない。今、人間たちに封印されている僕たちの父――魔王の封印を解き、次期魔王に任命されるという彼女の目論見のおかげでファラーシャは勇者たちと接触し、殺されたのだ。
悪役はそんなものかもしれないけど、自分の姉となったら話は別だ。
その時、部屋の扉がノックされた。
「はい」
僕が扉を開けると、ファラーシャが入ってきた。
「よかった。もう起き上がれるのだな」
「ご心配おかけしました。お姉様」
「だが、まだ横になっていた方がいい。これを食べたらお眠り」
そう言って、盆に載ったスープの皿を差し出してきた。
「わあ。ありがとう」
湯気の立つスープは肉や野菜がことこと煮込まれているようで、いかにも消化によさそうだった。
「さあ、おあがり」
ひとすくいすくってファラーシャがスプーンを口元に持ってくる。ふひひ……これは「あーん」だ。ああ、夢にまで見た美少女の「あーん」……。
僕はあー、と口を大きく開けた。
「お前の好きなカエルのスープだよ」
「もごっ!?」
カエル! と思った時にはもうスープは僕の口の中であった。げえええ。
「さあ、もっとお食べ」
「あうう……」
ファラーシャが笑顔でまた「あーん」をしてくる。仕方なく僕は口を開けた。抵抗出来ない。一口食べる度にファラーシャが口元を白く細い指でそっと拭ってくれるからだ。そうしてせっせと僕にファラーシャはスープを飲ませると、僕をベッドに寝かせて出て行った。
うう……カエルのスープ……味は鶏肉みたいだったけど……カエル……カエルか……。うっ。僕、魔族としてやっていけるのだろうか。
窓の外からは明らかに犬ではない何かの獣の咆哮が響いていた。
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